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迷い猫と錆びた加護  作者: 彼鳥 経
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8.立ち退き要求

 客室の密談から数日後.

 物事は先延ばしにしたからといって勝手に解決するわけではない.そのことをガルドが思い知るのはそう遠くなかった.ラゼルトへの回答もまだ決めぬうち,ガルドにとって最も歓迎したくない来訪者があった.


 初老のその男は,ふらりと宿を訪れた.

 いつもどおりガルドがフロントで新聞を読んでいると,ドアが開けられた.男はドアを閉めるとガルドに向かって軽く頭を下げ,颯爽とした足取りでフロントへと進んだ.

 気取らない服装ではあるが,一見して上等な仕立てであることが見て取れる.また,屈託のない,活力を感じさせる身のこなしを見るに,ふだん健康的で豊かな生活を送っていることは間違いないだろう.よく見れば老いの影も見られるものの,遠目ではガルドやラゼルトと同年代に見えるかもしれない.

 観光客かなにかだろうと高をくくったガルドが立ち上がると,その男は輝く笑顔でこう言い放った.

「はじめまして,ガルドさん.私はロウェンと言います」

 それだけでガルドはほとんどの状況を悟った.ガルドの心中を知ってか知らずか,ロウェンはやや弾んだ声音で続けた.

「少しだけ外から見て回らせてもらいましたが,かなり丁寧に維持管理しているみたいですね.ロビーの内装や調度品もさして劣化が見られない.この調子なら客室もそうでしょう.素晴らしい」

 短く切りそろえた口ひげと,そこからつながる顎ひげを指でなぞりつつロビーを見回すロウェン.心なしか興奮気味な口調から,皮肉や世辞ではなく心底そう思っていることが感じられる.

「そう言っていただけるのは光栄です」と答えつつも,ガルドはロウェンと視線を合わせられない.カウンター端のティオの定位置に視線を落とす.

 ロウェン自身もガルドを見ておらず,その視線は引き続き調度品の状態を見定めているように見える.それから,何気ない調子でこう続けた.

「それで,ここはいつ返してもらえますか?」

 ガルドの身体が一瞬だけピクリと震える.

「と言いますと……どういうことでしょうか?」声が震えないよう慎重に答える.

「ん?事前に文書でお知らせしたつもりでしたが……」

 カウンターに置いたガルドの手がわずかにこわばる.慌てて手近にあったペンを手に取る.

「すみません,ひとりでこの宿を回しているもので……まだ目を通していない書類も多く,その中のどれかだったのかもしれません」

 手に取ったペンをさするが,その行為自体に意味はない.

「ひとりで!さほど大きな宿でないとはいえ,それは大変だ」

 急にトーンが増したロウェンの声がガルドの萎縮を増す.

「それに,まだ逗留している人もいますので」

 苦し紛れの言い訳もここまでかと,ガルドは暗に立退通知の存在を認めてしまった.

 ここでロウェンの瞳がガルドを真正面から捉えた.宿に着いてから初めてかもしれない.一拍おいて,ロウェンの口調は慇懃さを取り戻した.

「なるほどたしかに…….まぁそういうことでしたら,もう少し落ち着いてからでもいいですよ」

 ガルドは細く息を吐きだした.

「……ありがとうございます」

 しかし,ロウェンは短く刈り揃えた顎ひげに手を添えるとふたたび続けた.

「あるいは,その方たちの補償くらいは私のほうで持ってもいいですが,どうですか?」

 穏やかな口調から強制の響きはない.純粋に選択肢を提示しているようだ.

「いえ,そういうわけには.急に追い出されても困るでしょうし,業界での信用にも関わります」

 ガルドは先ほど放り投げた新聞を見やる.いつもの常連客から譲られるものだ.

「そうですか……これだけ仕事が丁寧なあなたならば心配ないと思いますがね.なんなら次の仕事はわたしが用意しますよ」

 ガルドはなにも答えない.その視線はティオがいつも陣取り眠っているカウンターの端に注がれている.今朝からそこに姿はない.

 しばらく待っても返答のないガルドに,ロウェンは話題を変えた.

「まぁ,いいです」ロウェンの瞳が遠くを見るものに変わった.「実はね,わたしが最初に育て上げたやつもここと似たような場所から始めているんだ.それで思うんだがね,君ならあいつと同じようにうまくやれるかもしれない」

 相変わらずロウェンはガルドを見ていないが,ひとりおおげさに頷いている.

「だから正直にいうと,個人的には君になら正式にこの宿を譲渡してもいいと思っているんだ」

 ガルドの視線がはじめてロウェンの目を捉える.しかし,ロウェンはガルドのほうを見ていない.いまだ自分の世界を見ているようだ.

「ただ,今回はそうもいかなくてね」ロウェンの瞳が現在に戻り,淡々と事務的な口調へと変わる.「そういうわけなので,なるべく早めにここを出て私に返してくださいね,この宿の正当な所有者はわたしなんだから」

 ロウェンがティオの定位置に軽く触れた.その瞬間,ペンを持っていたガルドの手が止まった.

「ではまた後日」

 そう言い残すとロウェンは去っていった.

 ロウェンがドアを開け放ったにもかかわらず,外の雑踏はガルドの耳に届かなかった.

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