第76話:【閑話】死線を行く影たち、神速と絶望の迷宮潜行
###第76話:【閑話】死線を行く影たち、神速と絶望の迷宮潜行
『悠久の大迷宮』第21階層――『紅蓮の火山と雷鳴の魔境』。
神聖魔導帝国エルドリアが誇る特級隠密部隊『影歩く者』の十三名は、文字通り「死線」の上を綱渡りするような絶望的な潜行を続けていた。
空からは数秒おきに紫電の雷が降り注ぎ、足元には煮えたぎるマグマの川が流れる地獄の環境。
その中を、十三の黒い影が、一切の足音も、衣擦れの音すらも立てずに、滑るように駆け抜けていく。
「……止まれ」
隊長であるサイラスのハンドサイン一つで、十三名の影が同時に、完全に岩陰へと溶け込んだ。
ズシン、ズシン……ッ!
彼らの目の前を、紫電を纏った巨大な牛『ライトニング・ブル』の群れが通り過ぎていく。通常の冒険者であれば、その威圧感だけで呼吸を乱し、気配を悟られて炭塊に変えられる場面である。
しかし、帝国最高峰のエリートスパイである彼らは違った。
部隊の全員が、高度な隠蔽魔法【光学迷彩】と【気配遮断】、さらに自身の体温や心音すらも完全にゼロへと近づける帝国秘伝の暗殺術【仮死の法】を同時発動させていた。
雷鳴の轟音と、マグマの爆ぜる音の「隙間」を縫うように、彼らは魔物の視界の死角から死角へと、文字通りの『神速』で移動していく。
「(……凄まじい魔物どもだ。一頭でも見つかれば、我々の部隊は半壊するだろう)」
サイラスは、冷や汗を流しながらも極限まで研ぎ澄まされた思考で状況を分析していた。
「(だが、我々は『影』だ。戦う必要はない。見つからずに通り抜けることにかけては、我々の右に出る者はいない!)」
ガリッ……。
最後尾を進んでいた部隊員の一人の肩を、不規則に飛んできたマグマの飛沫が掠めた。
「っ……!」
肉が焦げる強烈な痛みが走る。しかし、その隊員は悲鳴を上げるどころか、顔を歪めることすらなく、即座に懐から【極位の治癒水】を取り出し、無言のまま傷口に振りかけて走る速度を一切落とさなかった。
彼らは帝国のために命を捨てる覚悟を持った、本物のプロフェッショナルであった。
***
しかし、彼らの卓越した隠密技術と神速の足をもってしても、この大迷宮の深層はあまりにも過酷すぎた。
第22階層――『超重力の暴風渓谷』。
「ぐはっ……!」
数名の隊員が、突如としてのしかかった通常の数倍の重力に内臓を圧迫され、血を吐いた。
荒れ狂う暴風が彼らの隠蔽魔法を剥ぎ取ろうとする。
「(魔導具『反重力の結界石』を起動しろ! 魔力消費は惜しむな!)」
サイラスの念話による指示が飛ぶ。
彼らは血を吐きながらも、決して歩みを止めない。重力コンドルが上空を旋回する中、岩の影にへばりつき、強風を利用した【風乗り歩法】で、逆に自らの移動速度を限界まで引き上げて渓谷を駆け抜けた。
第26階層――『重汚染の廃泥海と鉄錆の雨』。
降り注ぐ酸の雨が、彼らの耐性マントをジリジリと溶かしていく。
「(隊長! 防御結界の出力が持ちません!)」
「(予備の魔晶石を使え! ヘドロの海には絶対に触れるな、飛び石の要領で最短ルートを駆け抜けろ!)」
何人もの隊員が、酸による火傷を負い、重力による疲労骨折を抱え、満身創痍となっていた。
それでも、彼らの瞳から光が失われることはない。帝国の存亡が、自分たちのこの足にかかっていると信じているからだ。
しかし。
彼らが決死の思いで階層を進むにつれ、サイラスの胸の中に「ある強烈な違和感」が渦巻き始めていた。
「(……おかしい。いくら我々の足が速いとはいえ、階層の突破スピードが異常すぎる)」
そう。彼らは、通常であれば何年もかけてマッピングし、決死の戦闘を繰り返して進むはずの大迷宮の深層を、たったの数日で第30階層付近まで到達しようとしていたのだ。
その理由は、彼らの隠密技術が優れていたからだけではない。
**『階層の生態系(魔物の数)が、不自然なほどにスカスカだった』**からだ。
第25階層の中ボス部屋を通り抜けた時、サイラスはそこにあったはずの「巨大な存在」の痕跡を見て、戦慄した。
部屋の中央が広範囲にわたり、絶対零度で凍結した跡が残っており、周囲の空間には「何か鋭利な刃物で、空間そのものを切り裂いた」ような異常な魔力痕が残されていたのである。
(※トウヤがサン・フェニックスを瞬間冷凍し、空間斬りで解体した跡である)
「(……巨大な魔物が、一切の抵抗すらできずに一瞬で凍結され、解体された痕跡……。アルカディア王国の秘密部隊は、このレベルのバケモノを相手に、無傷のワンサイドゲームを行っているというのか!?)」
サイラスの背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走る。
第28階層の黄金の牧草地では、大地に巨大な牛の足跡が残っているにもかかわらず、魔物の姿は一匹も見当たらなかった。
(※トウヤたちが熟成肉を求めて乱獲し尽くしたためである)
「(あの大規模な極大魔法(光の柱)を放つ部隊だけではない。あの魔法を発動させるまでの間、これほどの深層の魔物たちを足止めし、無力化するだけの『神話級の前衛部隊』が確実に存在する……!)」
サイラスの優秀な分析能力が、最悪の推論を導き出していく。
「(アルカディア王国は、これほど規格外のバケモノ部隊を大迷宮の底に隠し持っているのか……。もしこんな連中が地上に出てくれば、我が魔導帝国など数日で更地にされてしまう! 絶対に、彼らが何を企んでいるのかを突き止めねば!)」
***
そして、彼らはついに、第30階層(大ボスの間)を抜け、第31階層への扉の前に到達した。
「……ふぅ、はぁ……っ」
扉の前で、十三名の隊員たちが膝をつき、荒い息を吐く。
彼らの黒い隠密装束はボロボロに引き裂かれ、ある者は腕を骨折し、ある者は全身に酸の火傷を負っていた。帝国が誇る最高級のポーションをがぶ飲みして、無理やり体を動かしている状態だ。
だが、その目は誰一人として死んでいなかった。
圧倒的な力量と、帝国への忠誠心だけで、彼らはこの常軌を逸した地獄の深層を駆け抜けてきたのだ。
「よくやった、お前たち」
サイラスが、血の滲む唇を拭いながら部下たちを見回した。
「ここまで来れば、あの『光の柱』の震源地はもう目と鼻の先だ。……アルカディアの規格外部隊は、確実にこの先にいる」
サイラスは、残された最後の力を振り絞るように、大剣の柄を握りしめた。
「いいか。相手は、帝都を一撃で滅ぼす大魔法をポンポンと撃ち放つバケモノたちだ。決して戦闘を仕掛けるな。我々の任務は、彼らが【何の目的で巨大魔物を冷凍備蓄しているのか】をその目で確かめ、その情報を帝都へ持ち帰ることだ」
「「「はっ……!!」」」
満身創痍の影たちが、声なき声で力強く頷く。
「行くぞ。帝国の未来は、我々のこの目にかかっている!!」
サイラスは決死の覚悟で、第31階層――『広大なる秋覚の巨森』への扉を、ゆっくりと、音を立てずに押し開けた。
国家の命運を背負い、地獄の苦しみを乗り越えて辿り着いた最高峰のエリートスパイたち。
彼らがこの後、森の奥で「巨大な松茸と豚肉の極上BBQを囲み、ジョッキを片手にガッハッハと笑い合っているキャンパーたち」の姿を目撃し、これまでの壮絶な苦労と覚悟が完全に宇宙の彼方へ吹き飛ぶほどの『特大の絶望(と虚無)』を味わうまで。
あと、ほんの数十分の猶予しか残されていなかった。




