第39話:【閑話】水晶に散る深緑の誇りと、泥濘で腐る狂信
第39話:【閑話】水晶に散る深緑の誇りと、泥濘で腐る狂信
『悠久の大迷宮』第8階層――幻惑の水晶洞窟。
七色に輝く水晶が視界を埋め尽くし、狂った魔力が乱反射するこの空間は、かつてトウヤたちが「新スキル獲得のボーナスステージ」として歓喜した場所である。
しかし、エルフの精鋭部隊『深緑の守護騎士団』にとって、ここは文字通りの「処刑場」であった。
「ぎゃあぁぁぁぁッ!!」
空間の歪みを裂いて唐突に出現した『フェイズ・スパイダー』の凶刃が、エルフの騎士の胴体を容易く両断した。
美しい銀の軽鎧ごと真っ二つにされた部下の死体が、水晶の床に血の海を作る。
「ひぃッ……! 空間から、突然……! 防げない、結界が機能しない!」
「隊長! 魔力が……私たちの魔法が、全て反射されてしまいます!」
絶叫が響き渡る。
彼らの誇る精霊魔法は、この階層の濃密な魔力場と水晶の乱反射によって完全に無力化されていた。放った魔法は明後日の方向へ飛んでいき、時には跳ね返って味方を焼き焦がした。
空間の歪みに適応できず、三半規管を完全に破壊された彼らは、まともに立つことすらできず、ただ水晶の床を這いずり回るただの「餌」に成り下がっていた。
「クソッ……! 悪魔め、我が剣を受けよ!!」
隊長シルヴァンは、半狂乱になりながら剣を振り回した。
数十名いた精鋭部隊は、第6階層、第7階層の過酷な環境と強敵に削られ、この第8階層に足を踏み入れた時点で、すでに一桁にまで減っていた。
そして今、彼の目の前で、最後の部下たちが水晶の陰から現れた『クリスタル・スコーピオン』の群れによって、無惨に解体されていく。
かつてトウヤたちが「ぷりっぷりの極上カニ肉」と呼んでバター焼きにしたサソリのハサミは、エルフの騎士たちにとっては、文字通りの死神の鎌であった。
「……こんな、こんな馬鹿なことがあってたまるか! 我々は、エルフの精鋭なのだぞ!!」
シルヴァンが絶叫し、渾身の魔力を込めた一撃をスコーピオンに放とうとした、その瞬間。
彼の背後の空間が、音もなく『歪んだ』。
「――ッ!?」
転移してきたフェイズ・スパイダーの毒牙が、シルヴァンの左肩に深々と食い込んだ。
「ガァァァァッ!!」
激痛と共に、シルヴァンの左腕が肩から丸ごと噛みちぎられる。鮮血が空を舞い、美しい七色の水晶を赤黒く染め上げた。
さらに、横合いから振り下ろされたスコーピオンのハサミがシルヴァンの顔面を掠め、彼の端正な顔の右半分を、右目ごと深く抉り取った。
「あ、あああぁぁぁぁ……ッ!! 私の、私の腕が! 顔が!!」
血の海の中で転げ回るシルヴァン。
もはや部下は一人も生きていない。絶対の自信を持っていた魔法も剣技も、この絶望的な階層の前では児戯に等しかった。
(……ルミナ様は……。あのお方は、こんな地獄を、一人で……)
激痛と失血で薄れゆく意識の中、シルヴァンはついに悟った。
箱入り娘であったはずの長老の娘が、単身でこの階層を突破できるわけがない。もし突破しているとすれば、彼女は自分の理解が及ばない「何か」――それこそ、迷宮の生態系すら凌駕するような規格外のバケモノ――に庇護されているのだと。
「ひっ、あぁっ……! 嫌だ、死にたくない……っ!」
高貴なエルフの誇りも、長老からの厳命も、完全に吹き飛んだ。
シルヴァンは失った左腕の付け根を押さえ、顔面から血を流しながら、這いつくばって第7階層へ続く階段へと逃げ出した。
魔物たちから見向きもされないほどに惨めで、無様な敗走。
エルフの追跡隊は、大迷宮の真の恐怖の前に、ただ一人を残して完全に全滅したのだった。
***
一方、その数階層上。
『悠久の大迷宮』第4階層――地底の密林。
「……ゲホッ、ゴホッ……。主よ……我らをお救い……」
腐敗臭と湿気が渦巻く泥濘の中で、異端審問官の一人が、緑色の嘔吐物を撒き散らして痙攣していた。
彼らがこの階層で彷徨い始めてから、どれだけの時間が経ったのか。昼夜の区別すらないジャングルの中で、彼らの精神はすでに限界を迎えつつあった。
「隊長……。もう、駄目です。食料は全てカビに侵され……傷口からは蛆が湧いています……」
生き残っている数名の部下たちも、泥水に半身を浸したまま、虚ろな目で宙を見つめている。
かつてトウヤたちが『極上ジャークチキン』や『特大チーズカツレツ』を腹一杯に平らげ、快適なマジックテントで風呂に入っていたこの同じ場所で、彼らは泥水と腐ったパンを啜り、未知の病と毒に侵されて死を待つしかなかった。
「黙れ……! 神の試練から逃げるなど、許されると思うか!」
部隊長ヴァルゴスは、血走った目で部下たちを怒鳴りつけた。
彼の法衣は原形を留めないほどに引き裂かれ、顔には毒虫に刺された腫れ物が無数にできている。
「あの異端の魔女マリアは、悪魔と契約してこの迷宮の奥へ逃げたのだ! 我らが浄化の鉄槌を下さねば……!」
その時、周囲のシダ植物がガサガサと揺れた。
「ヒィッ! ま、また来た! パンサーだ!」
部下たちが恐怖に悲鳴を上げる。彼らの疲弊しきった体力と魔力では、もはや保護色で忍び寄るジャングルパンサーの奇襲を防ぐ手立てはなかった。
「主の光よッ!!」
ヴァルゴスが盲滅法にメイスを振り回し、奇跡的に一体のパンサーの頭を砕く。
しかし、その間に別の個体が部下の首筋に食らいつき、そのまま暗闇の密林へと引きずり込んでいった。
「助け……ギャァァァァッ!!」
骨の砕ける音と、生々しい咀嚼音が響き渡る。
「……ああ、あああ……。神よ、なぜ私たちを見捨てるのですか……」
生き残った部下が、泥の中に顔を突っ伏して泣き喚く。
彼らは探しているマリアが、はるか下層の第9階層で「霜降りマグマステーキ」の肉汁に感動して涙を流し、全自動の極楽スパリゾートで「もう迷宮から出たくない」と骨抜きにされていることなど、想像すらできないだろう。
「進むぞ……。進まねばならんのだ……。大司教様のご期待に……」
ヴァルゴスは狂気的な光を瞳に宿し、這うようにして泥濘を進む。
教会の権威と狂信に凝り固まった異端審問官たちは、自分たちの傲慢さが招いた自業自得の地獄から抜け出すこともできず、ただ迷宮の圧倒的な自然の猛威の前に、腐り、沈んでいくのだった。




