第9話 天使に現場を押さえられる
ピロピロピロ~ン ピロピロピロ~ン
間の抜けた電子音が部屋の中に延々と響き続けているのに、俺は震えながらただスマホの画面を凝視していた。表示されている名前――天宮愛芽莉、その四文字が視界に焼き付いた瞬間から、心臓がありえない速度で暴れ始め、さっきまでのエリシアたんとの甘ったるい余韻なんて跡形もなく吹き飛んでいる。
な、なんで電話ぁ!?ついに断罪ですかぁ!?
頭が思考でぐちゃぐちゃに絡み合い、まともな判断が一切できないまま時間が過ぎていく。それでもスマホは容赦なくずっと鳴り続けていて、追い詰められているような感覚に背中にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
「え、ええい、ままよっ!!!」
震える指をどうにか動かし、通話ボタンを押し込む。耳に当てたスマホがやけに熱く感じて、喉はカラカラに乾ききっていた。
「も、もしもし……?」
「あっ、雪城くん?こんばんわ」
その天使の音色に、空気が一変する。
柔らかくて、甘くて、耳に触れた瞬間に体の力が抜けてしまいそうになるような、まるで鈴を転がしたみたいな可愛らしい声が流れ込んできて、思わず「ホワァ……」と変な声が漏れそうになるのを慌てて飲み込んだ。
ヤダ、声だけでも可愛い……破壊力が段違いだわぁ……♡
「こ、こんばんわ!ご、ごめんねトイレに行ってて出れなかった!」
苦しすぎる言い訳をしながら、天使と話している事実が現実味がなくて、頭がふわふわしてしまう。
「そっかぁ……よかった、出てくれて」
ほっとしたように、少しだけ甘えるような声音が混じる。そのたった一言で胸の奥がじんわり温かくなってしまう。単純すぎる俺。
「ど、どうしたの?何かあった?」
「えっとぉ、あのね……?」
くすぐるように柔らかい声で言い淀むその様子に、心臓の鼓動がさらに早まる。俺のようなミジンコに、何のご用件でございますか天使様――内心で土下座しながら、恐る恐る言葉の続きを待っていた。
「アストラル・ファンタジーを初めてみたの。それでどうすればいいのか良く分からなくて……」
「はいぃいぃ!?マジでェエエ!?」
思わず絶叫し、慌てて口を押さえる。
いやいやいや、待て待て待て、何が起きてる!?
白鳳の天使がネトゲ!?アスファン!?
いや意味が分からん!どういう因果!?世界のバグか!?
「び、びっくりした……?」
「するでしょ!?するに決まってるでしょ!?え、なんで!?」
「だって……雪城くんの話を聞いて、面白そうだったから……」
「う”ぅっ」
可愛すぎる不意打ちで心臓を撃ち抜かれる。しかも少し恥ずかしそうに、でもどこか甘えるような言葉がまた攻撃力を増していて、頭がピンクに染まる。
「それでね、やってみたんだけど……全然分からなくて……」
「……う、うん」
「私ゲームするの初めてで……、やり方を教えてくれないかな……?」
最後の一言が、もじもじするような甘い柔らかさを帯びていて、鼓膜に触れた瞬間にデッレェとしてしまった。
「もっもっ、もちろん!喜んで!全力で!」
食い気味どころか被せ気味に答えてしまう。断る理由など存在しないし、むしろ断る選択肢が思考に浮かぶことすらない。
「やったぁ!ありがとう」
ふにゃりとした笑みがそのまま声になったような響きに、頬が勝手に緩むのを止められない。
話を聞くと、キャラメイクはすでに終わっていて、オープニングムービーも見終わり、現在は宿屋の自室にいるらしい。アスファンでは最初に自分の部屋が与えられ、そこから世界に旅立つ――つまり、今はチュートリアル開始直後の状態だ。
「じゃあ、すぐ迎えに行くよ。そこで待っててね」
「うん……待ってるね?」
その「待ってるね」がやけに意味深に聞こえて、変な方向に意識が持っていかれそうになるのを必死に抑えながら、俺はどうにか体勢を立て直す。
ドクドクと騒がしい心臓を押さえつけるように深呼吸し、ゲーミングチェアに座り直してモニターに向き合う。
――落ち着け、まずは状況整理だ。相手は天宮愛芽莉、現実でも天使、ゲームでも天使になる可能性大、そして今は初心者、つまり俺が導く立場……よし、冷静だ、完璧に冷静。
そう自分に言い聞かせながら画面に目をむけると、相変わらず可愛らしい微笑みを浮かべているエリシアたんが佇んでいた。
……あっ。
『エリシアたんごめん!ちょっと友達を迎えに行ってくるから、またね♡』
『冒険に行くのね、気を付けて行ってらっしゃい♡』
キーボードを叩いてエリシアたんに外出することを告げると、優しく微笑みながら送り出してくれた、いつものように可愛らしい――”音声”で。
「ッ!?」
その瞬間、時間が止まって俺の思考は完全に停止した。
……やばい。
……や、やばい……やばい……やばい……!ボイスONのままだったわ……!
失態に気付き、背中を冷たい汗が一気に流れ落ちる。
今の、声出てたよな?電話は繋がってるよな?確実に聞こえたよな?
絶対出てた、普通に会話してた。「エリシアたん」って言っちゃった。しかもめちゃくちゃ可愛い声で「行ってらっしゃい♡」と見送られた。
完全にアウトだろォ!?
人生終了のお知らせが脳内に鳴り響く。
やばい、終わった――あまりの失態に背筋を氷の刃でなぞられたみたいにぞくりと震え、思考が一気に現実の大失態へと引き戻された。手のひらはじっとりと汗で濡れ、喉はひりつくほど乾いているのに、呼吸だけがやたらとうるさい。
そんな俺の耳元に、静かに逃げ場を塞ぐような声が落ちてきた。
「……ねぇ?」
さっきまでの柔らかさなど消え去った、冷たい静かな声が耳元でした。ビクッと体が大きく跳ね上がる。
「……ねぇ?……今の女の声?……だぁれ??」
ひっ、ひぃいいいいいぃぃ!!!
心の中で大絶叫する俺。
ついさっきまで、あんなにも甘くて優しい声で話していたはずなのに、今はまるで温度が氷点下まで落ちたみたいに冷えきっていて、低くゆっくりとした抑揚がじわじわと恐怖を増幅させてくる。ゾクリと背中を這い上がる悪寒に、冷や汗が一気に噴き出した。
「ち、違う!ただの街の人だよ!通りすがり!ただすれ違っただけで、その、たまたま知り合いが――」
必死に言葉を繋げるが、その焦りが逆に自分で聞いていても不自然すぎた。
「エリシアたんって聞こえたわ……?」
それに被せるように、ぴたりと言葉を止められる。
やべえ、ピンポイントで拾われてるわ!?
「……そこにいるのね?……あの女」
ゆっくり、噛みしめるように発せられるその一言が、逃げ道を一切残さない。
「い、いやっ!い、いない!!全然いない!どこにもいない!」
「ふぅ~ん……?」
低く、長く引き延ばされた相槌にガタガタ震える。その“間”がやけに長くて、まるで俺の焦りを楽しむかのように沈黙の間が流れた。
「そうなんだ~……?……ふぅ~~ん??」
こえぇええええぇぇ!!!
なんだこの圧!?電話越しなのに首元に息かけられてるみたいな錯覚すらあるんだが!?
「へぇ~、いつもこんなことしてるんだぁ~?楽しそうにお喋りしてぇ?ふぅ~~ん??」
ねっとりと絡みつくような声音で、じわじわと責め立ててくるその声に精神が削られていく。
「してないしてない!!ほんとに今のは事故!!バグ!!システムエラー!!むしろ俺も被害者!!」
「へぇ~……名前まで呼んでたのに?面白いバグねぇ」
一歩も引かないどころか、むしろ核心を突いてくるあたりが恐ろしすぎる。
「いやそれはあの、その、えっと、あだ名っていうか!ほら!街の人に親しみ込めて呼ぶ文化みたいな!?」
「……エリシアたん♡……って?」
「うぐぅっ」
アンギャーーー!!
もうアカン、終わった、死んだ!完全にトドメを刺された!人生のエンドロール流れ始めた!俺はもう無理や!!早く逃げろエリシアたん!!
「“たん”って何?……ねぇ、何なのよ?」
じわりと詰め寄るような声。まだまだ天使の怒りは鎮まらないらしい。
「い、いや、その、深い意味はなくてだな!なんかこう、語感が可愛いな~って思って、つい軽いノリで!」
「ふぅ~ん……可愛い、ねぇ……」
沈黙の間が落ちる。
その静寂は重すぎる圧を放ち、潰れかけてガチガチに震える俺。ほんの数秒のはずなのに、体感で数時間にも感じるその間に俺の寿命は確実に縮んでいた。
そして、彼女は小さく言った。
「私のことは?」
「はっ!?」
「私のことは、そう呼ばないの?……どうして、下の名前で呼ばないの?」
拗ねたような、ちょっと甘えた声色。さっきまでの身も心も凍結する冷気とは違う、じわりと熱を帯びた圧に僅かに変わっていた。
「呼ぶ!呼ぶよ!呼ばせて頂きます!!」
完全に反射だった。考えるより先に、口が勝手に動いていた。
「じゃ、じゃあ、呼んで?」
「……あ、愛芽莉……たん?」
恐る恐る、地雷を踏みに行くように慎重に答えた。俺、間違えてないよな!?
再び一瞬の沈黙の間が流れた。
「……はぁっ……」
「ッ!?」
小さく、熱を含んだ吐息混じりの声がスマホから漏れてきた。鼓膜を撫でるような湿り気を帯びていて、生々しい音色に思考がぐらりと揺れる。
……え、なに、今の反応!?
戸惑う俺をよそに、次の瞬間、空気が一変する。今度はじわじわと粘つくような熱が、通話越しに流れ込んでくる。
「……奏多くん……早く……来て……」
今度はとろりと甘く耳に絡みつくような声が囁いてきて、胸の奥を鷲掴みにされたみたいに息が詰まる。名前を呼び返されただけで、鼓動が跳ね上がり、体温が一気に上がった。語尾に混じる微かな吐息が、やけに艶めいていて余韻が耳の奥に残り続けて離れない。
ほ、ほんま、このこ……えっちや!!!
忙しイィ!感情のジェットコースターが忙しすぎるワァ!!
「待ってるね……奏多くん……」
「い、行く!今すぐ行く!!」
もう一度、甘ぁく囁くその声に半ば叫ぶように返事をしながら、背中を押されるように俺は慌ててゲーム画面へと視線を戻した。
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