崇拝者正義弐
塚原アオハル殿
弟、アオハルへ。
この文をしたためるのは、ずいぶん久方ぶりのことにございます。
そなたは息災にしておられますか。夜はよく眠れておりますか。食事を疎かにしてはおりませぬか。
……ふふ、こうして書き連ねてみれば、昔と何も変わらぬ姉の小言にございますね。
そなたが幼き頃、稽古で手を傷つけて帰ってきた折、私は幾度も同じことを申しました。剣を振るうことばかりが侍の務めではない、己の身体を大切にすることもまた務めである、と。
今になって思えば、そなたはあの頃から、私の言うことなど半分も聞いてはおりませんでしたね。
それでも、私はそなたが無事に帰ってくるたび、安堵しておりました。
今も、その気持ちは変わりませぬ。
アオハル。
どうか、私のことを案じすぎないでくださいませ。
こちらは、変わりなく過ごしております。
食事もいただいておりますし、夜も眠れております。女中たちも、私によく仕えてくれます。何ひとつ不自由などないと申せば、さすがに嘘になりましょうが、それでも、そなたが思うほど案じることはないのでございます。
ですから、どうか、無理をなさらぬよう。
くれぐれも、御上に逆らうような真似はなさらぬよう。
ましてや、あのお方に刃を向けるなど、決してお考えになりませぬよう。
そなたは、昔から正しいと思ったことを曲げられぬ人でした。
私は、その真っ直ぐなところを誇りに思っております。
けれど今は、その真っ直ぐさが、そなた自身を傷つけるのではないかと、恐ろしくてなりませぬ。
私のために、そなたまで失いたくはないのです。
……いいえ。
本当は、私はそなたに会いたいのでございます。
一目でよいから顔を見たい。
昔のように、他愛もない話をしたい。
そなたが幼き頃、道場で私が悪戯されアオハルが相手を私の代わりに報復し相手を泣かせた事。私がそれを誰にも言わぬと約束したこと。師範に叱られぬよう、二人で口裏を合わせたこと。
そんな、今となっては何の役にも立たぬことを、もう一度、そなたと笑って話したいのでございます。
けれど、会いたいと願うことさえ、今の私には恐ろしいのです。
そなたが来れば、私はきっと嬉しいでしょう。
きっと、心の底から安堵するでしょう。
けれど、そのためにそなたが傷つくことになれば、私はその後、どのようにして生きていけばよいのでしょうか。
私は、もう、あまり強くはございませぬ。
以前の私は、もっとはっきりと物を申し、嫌なことには嫌だと申せる人間であったように思います。
けれど、今では、自分が何を望んでいるのかさえ、わからなくなることがございます。
恐ろしいことが起こらぬよう、ただ静かに過ごす。
誰も怒らせぬよう、言葉を選ぶ。
明日も今日と同じ一日であるようにと願う。
そのようなことばかりを考えておりますと、いつしか、何かを望むことそのものが、ひどく恐ろしいものになってしまいました。
本当に、不思議なものでございますね。
人は、自由を奪われると、自由を望むことさえ怖くなるのでしょうか。
私は、ときどき、自分が以前どのような人間であったのか、思い出せなくなります。
庭の梅を見ても、昔ほど心が動きませぬ。
好きだった琴も、今では、あまり手に取らなくなりました。
母上の声も、少しずつ遠くなっていくように思います。
それが、何より寂しゅうございます。
けれど、そなたのことだけは、まだ覚えております。
そなたが私を姉上と呼ぶ声。
二年前、私の手を取って、必ず助けると申してくれたこと。
あのとき、私は、嬉しかったのでございます。
本当に、嬉しかった。
あのような気持ちを、久しく忘れておりました。
だからこそ、お願いがございます。
どうか、生きていてくださいませ。
私を助けるために、そなた自身を犠牲になさらないでください。
私のために命を捨てることを、忠義とも、勇気とも思わないでください。
私は、そなたに生きていてほしいのです。
たとえ、私を救えずとも。
たとえ、私がこの先、長い年月をここで過ごすことになろうとも。
そなたがどこかで息災に暮らし、春になれば梅を眺め、秋になれば月を見上げていてくれるなら、それだけで、私は……。
……。
申し訳ございませぬ。
筆が止まってしまいました。
本当は、こんなことを書くつもりではなかったのでございます。
もっと明るいことを書こうと思っておりました。
そなたの剣の腕は上達したか、とか。
食事はきちんと摂っているか、とか。
いつか、また一緒に庭を歩ける日が来るだろうか、とか。
けれど、いざ筆を取ると、言葉がうまく出てまいりませぬ。
私は、少し疲れているのでしょう。
どうか、お許しくださいませ。
最後に、一つだけ。
アオハル。
もし、いつか私がそなたに対して、以前とは違うことを申したとしても。
もし私が、ここでよいのだと申したとしても。
もし私が、あのお方を恐れていないと申したとしても。
どうか、それだけを信じないでくださいませ。
いいえ、違いますね。
そのように書けば、そなたは、なおさら私を案じることでしょう。
忘れてください。
今の言葉は、どうか忘れてくださいませ。
私は、ただ、そなたに無事でいてほしいだけなのでございます。
それだけは、本当でございます。
どうか、身体を大切に。
夜は冷えますゆえ、風邪など召されませぬよう。
いつかまた、そなたと穏やかに話せる日が来ることを、願っております。
姉より。
霞
アオハルよ。
どうか、間に合ってたもれ。
姉は、まだ此の世におります。
まだ……そなたに会いたいと、願う心が残っております。
されど、今宵もまた、夜が来ることが恐ろしゅうてなりませぬ。
筆を執る手も震え、目も霞み…
どうか、姉を……
どうか、此処より……
そなたの声を、もう一度だけ聞きとうございま……
アオハルよ
はやく どうか
姉はまだ
いきて……
そなたに あいたい
たすけ…
ねえ……




