第15話:力みすぎ(下)
夜の見回りが廊下を通り過ぎる足音が、二度。
月草はとっくに眠っていた。今日の飛行訓練でくたびれたのか、シーツに潜り込んで五分もしないうちに寝息を立てていた。寝る前に「おやすみなさい」と二回言ったのは、きっと半分寝ぼけていたのだろう。
もう灯りは常夜灯と深緋の手元灯だけになっていた。部屋はいつもよりちょっと散らかっているように見える。
深緋が戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
鶸はベッドの上で、図鑑の複写をまた眺めていた。
「……まだ起きてたの」
「うん。ツキはもう寝た」
「そう」
深緋は上着を脱いで、椅子の背にかけた。机の上に課題のノートを置く。まだやるつもりらしい。
鶸は、その背中を見ていた。
「コキア」
「ん」
「ちょっとね、こっち座んない?」
「……課題、あるんだけど」
「ちょっとだけー」
深緋は少し迷ってから、椅子を引くのをやめて、鶸のベッドの方へ歩いてきた。鶸はベッドの端をぽんぽんと叩いて、隣を示した。深緋は座らずに、ベッドの脇の床に、膝を抱えて座った。
鶸はいつものように、力が抜けてふにゃっとした笑顔で話す。
「……なに」
「最近さー」
鶸は、ベッドに寝転がったまま言った。
「なんかずっと、“ちゃんとしてる”よね。コキア」
深緋は、何も言わなかった。
ゆっくり深緋は顔を上げた。常夜灯の明かりで、目の下が少しだけくぼんで見えた。
「ちゃんとしてるって、悪いこと?」
「悪くはない」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくない」
鶸はうつ伏せになって顎の下で手を組んだ。
「あのさ、セイランいた時さ」
「……」
「もっと適当だったじゃん。コキア」
深緋は、なにも言わなかった。
鶸は責めるような言い方ではなかった。むしろ、思い出話をするような声だった。
「報告書だって、半分セイランに押しつけてさー」
「押しつけてないよ」
「押しつけてたってー」
「あれは、セイランが、やるって言ったから」
「言わせてたの、コキアじゃん」
深緋は、ふ、と笑いそうになって、笑えなかった。
鶸は、笑いながら続けた。
「コキアはもっと適当だったよ。靴下、左右ちがうの履いてったりしてさ」
「……それは一回だけ」
「二回あるー」
深緋は、黙った。
「コキアさ」
鶸の声が柔らかくなる。
「最近、セイランみたいになろうって、がんばってるよね」
部屋が、しんとした。
月草の寝息だけが、規則正しく聞こえていた。
「……べつに」
深緋が呟いた。
「……そんなつもりはないよ」
「うん」
「ぼくは、ぼくのできることしてるだけ」
「うん」
「セイランの代わりになろうなんて、思ってない」
「うん」
鶸はひとつずつうなずいた。
それから、ゆっくり言葉を探すように話す。
「ボクさぁ」
「うん」
「セイラン、いないの寂しいけど」
深緋の指が、服の裾をずっといじっている。
「でもね?」
「うん」
「コキアがセイランになろうとして、そんな顔してるの、もっとやだ」
深緋は、顔を上げなかった。
常夜灯の光の中で、手が服の裾をぐしゃぐしゃに握ってるのが見えた。
鶸はベッドの端から手を伸ばして、深緋の頭にそっと触れた。そしてもう一度、深緋の頭をぽんとする。それから、髪をくしゃっとした。深緋はそれを払わなかった。
「……ヒワ」
「うん?」
「ぼく、そんな顔してた?」
「してた」
「……」
「ずーっとしてた」
鶸は珍しくため息混じりに笑った。
「ぜんぜん、笑ってないもん。コキア、最近」
深緋は、長く息を吐いた。
吐ききって、それから、もう一度吸った。
「気づかなかった」
「うん」
「ほんとに、気づいてなかった」
「うん。知ってる」
鶸は手を引いた。深緋の前髪は少し乱れたままだった。
「でもー、ツキは気づいてたよ」
「……ツキが?」
「最近のコキア、おかしいです、って、ボクに言ってきた」
「……あー」
「ね、気がつくんだよ」
深緋は、ようやく顔を上げた。
目元が少し赤くなっていた。鶸はそれを見ないふりをして、自分の枕を一度叩いた。
「明日、ツキに謝りな」
「うん」
「あんま大げさじゃなくていい。普通でいい」
「うん」
「普通が一番効くよ」
「……うん」
深緋はそれだけ言って、しばらく座っていた。
鶸はもうそれ以上、何も言わなかった。深緋の隣で、ベッドの上から、ただ天井を眺めていた。
しばらくして、深緋がぽつりと言った。
「ヒワ」
「ん」
「ありがと」
「うん」
「……あと、ごめん」
「うん」
鶸はその言葉だけ受け取って、毛布にくるりとくるまった。
深緋は立ち上がり、机に戻った。けれど手元灯を消しただけで、そのままベッドへ入った。
*
朝になった。
月草が目を覚ますと、深緋はもう起きていた。鶸はまだ枕に半分顔を埋めていた。月草は起き上がって、ぼうっとした目で部屋を見回した。
「おはよう、ツキ」
「……おはようございます」
「よく寝た?」
「はい」
月草は制服に着替えはじめた。シャツのボタンを、上から順番に。今日は自分でやれた。下まで全部やれた。月草はちょっと嬉しくなった。タイのボタンも自分で留める。
深緋が、月草のベッドの脇に立った。
「ツキ」
「はい」
「昨日さ」
「……はい」
「大きい声出して、ごめん」
月草は少し驚いて、深緋を見上げた。
深緋はちゃんとこちらを見ていた。昨日の食堂の「うん、よかったね」のときよりもずっと、月草の目を見ていた。
「びっくりさせたよね」
「……ちょっとだけ」
「ごめんね」
「いえ」
「ありがとうも、もう一回言うね。手伝ってくれて、ありがとう」
「はい」
月草はうなずいて、それからちょっとだけ笑った。
「コキア」
「うん」
「あのね、僕、飛べたこと、もう一回喜んでもらってもいいですか」
「……うん。喜んで」
「飛べました」
「うん。すごいよ」
深緋はすっきりした笑顔で褒めた。月草はそれが嬉しかった。今日は、完璧にできそうだった。
鶸が枕から顔を上げて、笑いながら言うまでは。
「ツキ、靴下」
「え」
「裏返し」
「あ……はい」
月草が慌てて靴下を見下ろすと、深緋もクスッと笑った。裏返しの靴下をひっぱり上げる月草の手元に、窓から差し込む朝日が当たっていた。
(了)
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