第15話:力みすぎ(上)
地下訓練施設の天井は、いつ見ても高い。
月草は、両手で頬を押さえた。手のひらが冷たくて、頬が熱い。深く息を吸うと、乾いた埃と石のようなツンとする匂い。
訓練部の朽葉が、両手を腰に当てて立っている。
「月草は、今日から飛行訓練」
「は、はい」
「今日は浮くだけだ。前に進もうとしなくていい。高さもいらない」
「はい」
月草はうなずいた。それから、こっそりと斜め後ろを見た。
深緋もさっきから自分の訓練をしていた。入念に体を伸ばしている。鶸は壁にもたれて、片足で軽く床を蹴っている。視線が合うと、にっと笑って親指を立ててきた。
月草はぎこちなくうなずき返して、前に向き直る。
「足の裏。床へ押しつける感じだ」
朽葉は短く言う。
「押した分、返ってくる。それだけだ」
「……押した分」
「そうだ」
月草は目を閉じた。
訓練でやった衝撃波と、同じだ。手のひらの間に圧の塊を作る、あの感覚。あれを足の裏でやるのかな?
床を押す。
床が押し返すイメージ。
床と靴は離れない。
もう一度ぐっと押してみる。やっぱり何も起きない。
「……できません」
「力みすぎだ」
「お前の飛行適性は確認しているから、飛べる」
「……でも」
「考えすぎだ」
朽葉は月草の背後に回り、背中をまっすぐなぞる。くすぐったい。
「検査の時に痛くなるところが、通り道だ。わかるか。そこを広げるんだ」
肩を軽く掴まれる。「そして」と朽葉は続けた。
「肩の力を抜け。上がっている」
確かに、肩も背中もカチコチに緊張していた。
「もう一度やってみろ」
肩を上げ下げして、少し呼吸が楽になった。そして床を軽く押してみる。
ふ、と、つま先の感覚が遠くなった。
爪先立ちのまま、踵が浮く。それから、つま先が浮く。
ほんの少し。本当に、ほんの少し。
「あ」
月草が小さく声を漏らした瞬間。
「あ! ツキ飛んだ!」
鶸の声が、地下訓練場の天井に跳ね返った。
月草はびっくりしてバランスを崩しかけ、慌てて両腕を広げた。腰の高さもない。膝より少し上、というところで、それでも床から確かに離れている。
朽葉が片手を上げた。
「いい。そのまま、ゆっくり下りろ」
「は、はい」
月草は息を止めたまま、ゆっくり足の裏から空気を抜いた。つま先が床に触れる。ぺた、と踵が下りる。
立てた。息がふーっと抜ける。
「……飛びました、僕」
「うむ、飛べたな」
「飛びました」
「ああ」
朽葉は表情を変えずに、しかし少しだけ口の端を上げた。
「初日なら十分だ」
月草はぱっと振り返った。
鶸がもう駆け寄ってきていた。
「ツキ、すごいじゃん! 初日で浮いたの!?」
「ちょっとだけです」
「ちょっとでもすごいよ。ボクなんて最初、横に飛んだから」
「横って……ふふふ」
月草が思わず笑うと、鶸も笑った。
深緋は少し遅れて近づいてきた。訓練中で、額に薄く汗が浮いている。
鶸が深緋の脇腹を肘でつついた。
「ツキ飛んだよ!」
「見てた?」
「見てた」
「でしょー!」
深緋は軽く微笑んで言った。
「ツキ、よかったね」
「……はい」
月草はうなずいて、それから少しだけ照れて、フードの紐をいじった。
深緋は訓練着の袖で、額を拭った。
月草はその横顔を見て、ほんの少しだけ、なにかが曇った気持ちになった。
*
食堂に着く頃には、月草の興奮はようやく落ち着いてきた。
今日は白身魚のフライと、温かいスープ。月草はトレイを持って、いつもの三人の席についた。鶸が一番嬉しそうに興奮している。
「ツキ、今日のスープあったかいよ」
「はい」
「飛んだあとはあったかいの飲むと、よく寝れるって聞いた」
「へえ……」
「たぶんだけどー!」
月草は笑って、スプーンを持った。
卵がふわふわ浮いたスープは、確かにあたたかい。腹の底まで、ゆっくりと熱が下りていく。さっきの、足の裏の感覚を思い出した。
「……僕、飛べるなんて思ってませんでした」
月草はぽつりと言った。
「うん?」
「僕はずっと、できない気がしてて」
「うん」
「でも、ちょっとだけ、できました」
鶸が口の中のパンを慌てて飲み込んで、笑った。
「できたじゃん」
「はい」
「嬉しいよねー」
「はい。嬉しかった……」
月草が言うたびに、鶸が笑顔で返してくれる。それが嬉しくて、月草はどんどん話した。
深緋は、フライを切り分けながら聞いていた。
そのとき、深緋が口を開いた。
「戦闘で使うなら、次は移動も覚えないとね」
「……あっ……はい、そうですね」
月草はスプーンを一瞬止めた。
別に変なことを言われたわけではない。月草もそう思った。だからうなずいた。スプーンをスープに戻す。
ただ、なんとなく、スープの湯気が少し冷たく見えただけ。
鶸が、ふっとパンを置いた。
「コキア」
「ん?」
「ツキはさ、今日はじめて飛んだんだよ」
「うん」
「すごかったよね」
「うん、すごかった」
鶸はそこで一度言葉を切って、それから月草に向かってニコッと笑った。
「ボクは、嬉しいよ、ツキ」
「は、はい」
「コキアもでしょ?」
深緋は少し黙って、それから「うん、よかったね」と、もう一度言った。
月草は思わず深緋を見た。深緋は優しい顔で笑っている。だけど、なんだろう。うまく言えない気持ちがおでこの中にぐるぐるしている。月草はスプーンを持ち直した。
鶸はもうパンの続きを齧っていた。
*
部屋に戻ると、月草はランドリー袋を引っ張り出した。午前中のシャツを脱いだままにしていたのが目に入った。
月草はベッドの脇のかごを引き寄せた。シャツ、靴下、訓練着の下に着ていたインナー。きちんと畳まなくていいみたいだったけれど、月草はなんとなく一枚ずつ畳んでから袋に入れる。
鶸はもうかごをひっくり返して、バサっと全部を袋に押し込んでいた。
「ヒワ、それ、かさばっちゃうよ?」
「ぎゅーっとしたらボックス入るからへーき」
「え……そんなことしたら、迷惑なんじゃ……」
「ツキの分もぎゅーってする?」
月草はびっくりして首をぶんぶん振って、自分のランドリー袋を縛った。
ふと、深緋のベッドを見る。
ベッドの上に、深緋の訓練着とシャツが一枚、無造作に投げ出されていた。深緋は机に向かっていて、報告書か何かを書いている。背中が少しだけ丸い。
月草は、自然に手を伸ばした。
「コキアのも、ついでに入れとくね」
「……大丈夫」
「でもコキア、忙しそうだし、僕のまだ入るから……」
深緋のベッドから洗濯物を取り、自分の袋の口を広げて、一緒に入れようとした。
「いいから!」
深緋の声が、鋭く部屋に響いた。
月草は、手を止めた。
訓練着とシャツの袖が、月草の掴んだ手から半分、袋の口に入っている。
深緋は椅子から半分立ち上がっていて、こちらを見ていた。目が、少し開いていた。怒っているのとは違う。びっくりしているように見えた。
部屋がしんとした。
深緋は、やっと遅れて自分の声を聞いた、という顔をした。
「……ごめん」
すぐに、深緋は言った。
声が少し落ちている。
「ありがとう。ごめん、ぼくびっくりして」
「……いえ」
月草は袋から訓練着をそっと引き出し、深緋のかごに戻した。それから、ぺこりと頭を下げた。
「勝手に触って、ごめんなさい」
「ううん。ツキは悪くない」
「はい」
「ほんとに。ツキ悪くない、ごめん」
月草はもう一度、頭を下げた。
深緋は椅子に座り直した。机の上のペンをいったん置いて、それからもう一度持ち直した。鶸はランドリー袋の口の紐を、結びかけたまま、止めていた。
鶸の口が、半分開いていた。なにか言おうとして、言い損ねたように、ゆっくり閉じた。
「……お水もらってくる」
深緋はそう言って立ち上がった。二、三文字書きかけては消して、諦めたようだった。
袖口を直し、月草の肩のあたりを一度だけ軽くぽんと叩いて、深緋は部屋を出ていった。
ドアが閉まる音がした。
月草は袋の口を、もう一度きちんと結び直した。指がほんの少し震えていることに、自分で気づいた。深緋に怒鳴られたわけではない。深緋はすぐに謝ってくれた。ありがとう、って言ってくれた。それなのに、なんでだろう、と思った。
「……ヒワ」
月草は、小さく言った。
「ん」
「最近のコキア、おかしいです」
鶸はランドリー袋を床に置いて、月草のベッドの端に腰かけた。
月草は、両手を膝の上で握っていた。
「あー……」
長い、あー、だった。
鶸はそのまま少しだけ天井を見て、それからゆっくり、月草の方を向いた。
「ツキも、そう思う?」
「……なんか、そう思います」
「うん」
鶸はちょっと笑った。困ったような笑い方だった。
「ボクもさ」
「はい」
「ちょっと前から、心配だったの。コキアのこと」
「……」
「最近のコキア、ちょっと、こう……。うまく言えないんだけど」
「はい」
「はりきってる、っていうのとも、ちょっと違くて」
月草は、ベッドの上で膝を抱えるようにして、鶸の言葉を待った。
鶸はうまい言い方を探しているふうに、何度か言おうとしては閉じた。それからあきらめたように、ベッドにひっくり返った。
「ツキは気にしなくていい。さっきのも、ツキのせいじゃない」
「はい」
「ほんとに」
「……はい」
月草はうなずいた。鶸の声は少し温かくなった。
「ボクさ」
「はい」
「コキアと話すよ」
「でも」
「いいの。これはボクの仕事」
鶸はめずらしく、笑わずに言った。
月草は心配になってきて、つい聞いた。
「ね、コキアとけんか、する?」
「しないしない」
鶸は笑った。
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