第14話:走り抜ける(下)
一拍置いてから、深緋は口を開いた。
「……ツキ」
「はい」
「もう、見えるの?」
「え」
「怪我」
「……えっ、わ、わからないです。でも、そこだけ、どうしても、なんか変で」
「うん」
深緋は短くうなずいた。驚いたようにも見えたし、納得したようにも見えた。
それから、車両の脇に立っていた大人へ声をかけた。
「すみません。白札天幕の奥から三人目、医療部にお願いします」
「外傷?」
「見えるところはないけど、体の内側がおかしいって」
「誰が見たの?」
「ツキです」
大人が月草を見た。月草は、思わず背筋を伸ばした。
深緋が続けた。
「もう、見えるみたいです」
「わかった」
大人はそれ以上聞かなかった。書類を抱えて、白い札の天幕へ歩いていった。
月草は、深緋を見上げた。
「コキア、あの……もう見えるって」
「うん」
「僕、なんとなく、感じただけで」
「それでいいんだよ」
「でも」
「見えたなら、言っていいんだよ。ぼくたちは見える」
「そうなの?」
「まだまだだと思ってたから、教えてなかったね。びっくりしたよね」
深緋はそれだけ言って、次に運ぶ箱の方へ目を向けた。
月草はうなずいた。うなずいたけれど、手のひらが少しだけ汗ばんでいた。
自分が、できること。
まだ知らなかったこと。
それが、急にひとつ増えたような気がした。
月草は天幕に戻って、続きの人に毛布を渡した。
さっきまでは、ただ怪我をしている人たちに見えていた。足を押さえている人。腕を抱えている人。肩から毛布をかぶって、じっと下を向いている人。みんな痛そうで、みんな疲れていて、それだけで胸の奥がぎゅっとした。
けれど、深緋に「もう見えるの」と言われたあとでは、同じ天幕の中が少し違って見えた。
足首を撫でていた年寄りの女の人は、靴を脱いでいる方の足の筋が壊れているみたいだった。
腕を抱えている若い人は、腕ではなかった。肩が壊れている。たぶん骨が良くないはず。
テントの端に寄りかかっている顔色の悪い人は、胸のあたりが小さく上下していた。体の中、あちこちが壊れてしまっている。どうしたらいいのかわからないけど、ただ、水をたくさん渡してはいけない気がした。
月草は、毛布を一枚渡して、それからコップの水を少しだけ差し出した。
「あの、少しだけ」
「ああ……ありがとう」
その人は、ほんの一口だけ飲んだ。
月草は、深緋の方をちらりと見た。深緋は別の箱を運びながら、こちらを見ていた。月草が困っているかどうかだけを確かめるような視線だった。
月草は、小さくうなずいた。
深緋も、少しだけうなずいた。
それでよかったらしい。
全部がはっきりわかるわけではない。
誰がどれくらい悪いのか、どこまでが本当に怪我なのか、月草にはまだわからない。
けれど、何もわからないわけでもなかった。
見えたなら、言って。
深緋の声が、耳の奥に残っている。
月草は、次の毛布を抱え直した。怖くないわけではなかった。けれど、ただ怖がって立っているだけではなかった。
*
毛布を配り終えて天幕を出ると、別の区画から、鶸が水の入った大きなバケツを下げて歩いてくるのが見えた。重そうだった。
「ヒワ、それ、僕が持つよ」
「あ、ツキ、ありがとー」
鶸はあっさりバケツを一つ渡した。月草はそれを下げて、二人で受け入れ区画の方へ歩いた。
街の人たちが、少し離れたところで話しているのが聞こえた。
「噛まれた人は、いないんだってね」
「ああ、いないらしい。突き飛ばされた人とか、転んだ人はいるけど」
「うちの隣のじいさんなんか、荷車ごと倒されてさ」
「でも、食われちゃいないんだよな」
月草は、水を運びながら、その声を聞いていた。
「あれ、こっち見てなかったよ」
「うん、見てなかった。私の前、すぐそこ通ったのに、目も合わなかった」
「ただ、走ってったんだよな」
「何かから、逃げてたみたいだったよ」
月草は、自分が前線で見た魔獣の姿を、もう一度思い出した。前線では怖くて、深緋の声を聞くので精一杯だった。魔獣の目がどこを見ていたかなんて、覚えていない。けれど、確かに噛まれた人を見ていない。
「ヒワ、上から見てどうだった?」
「んー」
鶸は、空いた手で首の後ろを掻いた。
「変だったよー」
「変?」
「うん。上から見るとさ、ずっと同じ方へ抜けようとしてた。人よりも道の先を見てた感じ」
「……はい」
「噛んでもなかったし。突き飛ばしてはいたけど」
「だから、変?」
「うん。変」
鶸は、それで話を切った。月草は、水の入った筒を抱えたまま、しばらく黙って歩いた。
鶸が軽く言った「変」が、月草はずっと気になっていた。毛布を配っていた天幕の人たちの傷のことを、思い出した。突き飛ばされた、転んだ、荷車にぶつかった。そういう怪我ばかりだった。噛まれた、引っかかれた、という人を、月草は見なかった。
水を運び終えて、月草と鶸は受付の天幕の前へ戻った。天幕の柱には、地区ごとの札が下がっていた。南区第五、南区第六、南区第七外縁。読める札と、赤い線で消された札が混じっている。
受付の大人たちが、書類を挟んで短く話していた。
「五地区は三十六名。六地区はまだ追加あり」
「第七地区は通過だけ?」
「今のところ。あそこはもう居住区じゃないから受け入れなし」
「じゃあ五地区と六地区を先に」
月草は、札の文字を目で追った。第五。第六。第七外縁。似た名前の札が並んでいるのに、赤い線が引かれている札と、まだ人の名前が増えていく札がある。何が違うのか、月草にはまだよくわからなかった。
隣で深緋が少しだけ足を止めた。
「コキア?」
「……なんでもない」
深緋はそう言って、毛布の箱の方へ歩いた。
*
受け入れ区画に、子どもたちの待機エリアがある。完全に外とは隔離されたテントの中、前線にいた他班の子も、何人か、そこに座っていた。帰還前の乗車待ちだ。
南二班の子が片膝を抱えて、隣の子に何か話していた。
「ほんとさー、こっち見てなかったんだよ」
「私も思った」
「壁の方ばっか見て走ってた」
「上の方も気にしてたよね」
月草は、テントの端に腰を下ろした。鶸が隣にどさっと座り、その向こうに深緋が座った。三人とも、何も言わずに少し座っていた。
他班の子どもたちの会話は、止まったり、また続いたりしていた。
「噛まれた人いた?」
「いなかった」
「うん。私の班のとこもいなかった」
「うちもいない」
「えー、じゃあ、なんで街来たの」
月草は、その会話を聞くともなく聞いていた。誰も、はっきりしたことは言わない。けれど、みんな同じところで首をかしげているのはわかった。魔獣は、こっちを見ていなかった。噛んでいなかった。ただ、それ以上のことは誰も言えなかった。
「コキア」
鶸が座ったまま、ぽつりと言った。
「うん」
「あれ、なんかさ」
「うん」
「あいつら、逃げてたんだよね、たぶん」
「……たぶんね」
「街、通ってっただけ、っていうか」
「うん」
深緋は短く返した。鶸はそれ以上は続けなかった。月草も、何も言わなかった。
乗り込む車両が到着して、月草は深緋の後ろをついて歩いた。
司令部の天幕では、まだ大人たちの声が続いている。低くて、聞き取れない声だった。地図の上で動く指だけが、何度も同じあたりを行き来している。
月草は、何かを聞こうとは思わなかった。聞いても、たぶん答えは返ってこない。深緋も聞かない。鶸も聞かない。
ただ、何か、いつもとは違うことが起きていた。それだけが、月草の中に残った。ブーツの泥が固まっているのを見ながら、月草はもやもやと考えていた。
気がつくとひと足先に車両の脇に、深緋が立っていた。
「ツキ、こっちだよ。荷物、端に寄せて」
「はい」
軽々とコートを翻す深緋に駆け寄って、月草は、装備や自分の荷物を運びはじめた。
夕方の風が、野営地の天幕の布をかすかに鳴らしていた。
(了)
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