第12話:防衛ライン(下)
「ツキ」
深緋は獣から目を離さずに言った。
「もうちょっと前。ぼくの斜め後ろまで来て」
「は、はい」
いつの間にか後ずさりしてしまっていたらしい。深緋は広場の中央寄りに立っている。自分はその斜め後ろ。鶸は屋根より上。獣は、炎の向こう側で東へ回り込もうとしている。
月草は慌てて二歩、前に出た。防護ベストを通しても、深緋の炎の熱が伝わってくる。
ちょうど正面より右寄り。広場と獣の間の、視界が開けた位置に、獣の横腹が見えた。毛の流れも。角の付け根の、太い首の筋も。
「あっちにも炎で防御線張るけど、もしあいつが防御線を踏み越えそうになったら、ツキの衝撃波を当てて」
「……はい」
「ぼくの炎の、向こう側に飛ばす感じで。奥の方にね」
「はい」
「ぼくの炎には、当てない」
「はい」
「あと、ぼくが今って言うまでは撃たないでね」
「はい」
月草は両手を、胸の前で握りしめた。
グローブで覆われていない指先が冷たかった。さっきよりも冷たい。けれど、震えてはいなかった。
訓練でやったのと、同じだ。手のひらと手のひらの間に、見えない圧の塊を作る。それを、片側だけに向ける。反対側へは漏らさない。大丈夫。
通信から鶸の声がする。
「コキア! 東側むり!」
「止まらない?」
「そそ、黄色い建物の影からそっち入ろうとしてるー」
「うーん、わかった」
深緋は左手に溜めていた炎を、更に大きくして左から右へ振った。既にたてていた炎の壁に継ぎ足すように、高い壁を東側の街路まで伸ばす。
月草のおでこにも熱気が届いてくる。
「ヒワ」
「うん」
「あいつが、建物壊そうとしたら教えて」
「うん」
「反対側の防御は、ヒワに任せた」
「えー、まじでー?」
「返事は短く」
「うんっ!」
鶸の声が耳元で弾んだ。
唸りをあげて、鶸の作った大きな空気の塊が広場を斜めに通り過ぎていった。獣のいる建物の影のあたりの空気が、ザザーッと押された。土埃が舞った。木の枝が派手に折れる音があちこちで聞こえた。
「コキアー、そっちいくよー!」
「うん」
獣が建物を踏み壊しながら、地面を揺らしてやってくる。
深緋の右手の炎が、ごうっと高さを増した。炎の向こうに大きな角が見えた。獣が炎の前で頭を振る。一歩一歩、向かってくる。毛むくじゃらの前脚も見える。
「ツキ」
「はい」
「構えて」
「はい」
月草は握った両手に、チリチリを集める。手のひらの中で、その圧が脈打っている。負荷分散用の固定ベルトが重たい。防護ベストも、耐性コートも、全部重たい。でも今は全部忘れて、手のひらの中だけに集中する。
炎の向こうへ、奥に飛ばす、と口の中で復唱する。口の中がカラカラだ。目を瞑らないように、獣を見つめていると視界がぼやけてくる。
「もうちょっとだけ絞れそう?」
「……はい」
「オーケー、上手だよ」
「はい」
獣の前脚が一歩、炎の壁を越えようとした。毛が焦げる匂いがした。それでも止まらない。重い体が、炎の壁を押し潰そうとしている。
深緋の炎が、もう一段上がった。額の汗が、こめかみを伝って落ちた。深緋は炎の帯をあげながら、一瞬振り返った。背後ではまだ避難を続けている人たちが何人かいるのが、月草の目のはじに見える。
「ツキ」
「はい」
「今」
月草は胸元で握った手のひらの間から、まっすぐ獣へ衝撃波を放った。
手のひらの間にあった圧の塊は、深緋の炎の、向こう側へ。
空気が、バシッと鳴った。前腕固定ベルトが反動を抑えてくれる。
見えない塊が、まっすぐに飛んだ。獣の角から横腹に直撃した。当たった場所の毛が、波のように外側へ広がった。獣の体が、半歩後退する。
炎の縁にかけようとしていた前脚が外れた。
獣はよろけて、後ろ脚で踏みとどまった。低い唸り声が、また響いた。
月草は、息を吐いた。
吐いてから、自分が今まで息を止めていたことに気づいた。
「もう一回いける?」
「……はい」
「同じ方向」
「はい」
月草はもう一度、両手の間に圧を集めた。さっきより、力を持って、強く。
獣の動きをじっと見ていた深緋が、小さく言った。
「今」
月草はもう一度握った両手から放つ。
ドン、と鳴った。
獣の体が、今度はもう二歩、奥の方へずれた。
鶸から通信越しの声が聞こえる。
「避難してる人、抜けたー。北側行ったよー。最後の人、角曲がったー!」
「うん」
「コキア、ボク降りる?」
「まだそこでいい」
深緋の炎の壁は、獣の正面だけ高さが高くなった。
獣は炎の前で、首を低く構えている。前脚が、石畳を一度、強く踏んだ。ずん、と響いた。
もう一度、踏んだ。
角の先が、炎の方へ向いた。
突っ込んでくる、と月草は思った。理屈ではなかった。体の芯が恐怖で震えてわかる。獣が今、炎ごと押し破ろうとしている。
「コキア、突っ込みそう!」
鶸が上から叫んでいる。
「ヒワ、風でこっち来ないようにしてて」
「うん!」
「ツキ」
「はい」
深緋がこちらを見た。
「もう一回。今度はもっと強いのできる?」
「……はい」
「絞れるだけ絞って。向こうまで届かせて」
「……はい」
「ぼくの炎、いったん消すから。炎突き抜けるようにまっすぐ」
月草は息を呑んだ。
「コキアの炎、消すの?」
「一瞬だけ。ツキが撃つ瞬間だけ」
「……」
「大丈夫、当たるよ」
深緋の声は、低かった。落ち着いていた。でもいつもよりほんの少しだけ、早口なのはわかる。
月草は両手を胸の前に戻した。祈りの型。
さっきよりも、もっと深く集めた。背骨を伝って首から流れてくる力がわかる。手のひらと手のひらの間が、ジリジリビリビリと痺れるように重くなった。脈打っているのが、骨まで伝わってきた。漏れそうになる圧を、正面だけに絞る。他には絶対に出さない。
大丈夫、当たる。深緋がそう言ってるんだから。
獣が踏み込んだ。炎の壁ごと、押し破ろうとした。
鶸の風が後ろから獣を押しとどめている。
「今」
深緋の炎の壁が、すっと消えた。鶸の風も合わせて止まった。全ての壁がなくなった。
獣の頭がまっすぐこちらを向いて、そして少したたらを踏んでいる。
月草はその獣を、角の先まではっきり見た。
空気が、ダァンと鳴った。腹の底まで響く、低い音だった。
月草の手から飛んだ見えない塊が、まっすぐ獣の眉間に当たる。
獣の頭が、後ろへのけぞる。前脚が二本とも、石畳の上を擦った。石畳に、白い傷が引かれた。角が、空気を切った。
獣の重心が、後ろへ落ちる。
獣は、後退した。
二歩、三歩、四歩と、後ろへ下がった。下がりながら、首を振った。低い唸り声が、今度は短く途切れた。
獣はもう一度、こちらを見た。だがすぐにもう一度立ち上がった炎の壁に阻まれ、獣の殺気が失せていく。
そして、体の向きを変えた。路地の南方へ。
ずん、ずん、と石畳が鳴った。鳴る音が、だんだん遠ざかっていった。鶸の風が、その背中をさらに押した。獣の重い体が、街の外の霧の奥へ吸い込まれていく。
そして足音は、消えていった。
月草は、両手を下ろした。
下ろしてから、自分の手が震えていることに気づいた。
さっきは震えていなかったのに、今、震えていた。膝も腕も、何もかも。
深緋の炎が、すうっと小さくなって、消えた。火の粒が空にかえっていくのがきれいで、月草は空を見上げた。
深緋はそのまま、すぐには動かなかった。手を胸元に下ろして、息を長く吐いた。肩が、上下していた。
*
「コキアー、お疲れー!」
上から鶸が降りてきた。風がふわりと弱まって、鶸の足がとん、と石畳に着いた。
月草はまだ、両手を下ろしたまま立っていた。
「ツキ」
「……はい」
「がんばったね」
月草は、何か言おうとした。
だが、うまく言葉が出てこなかった。喉の奥で何かがつかえているような。口を開いたものの、言葉が出てこない。身体はまだ震えが止められない。
訓練の時とも、あの夜とも違う、変な高揚感が胸の中で燃えたまま、どうしたらいいのか持て余している。
「……はい」
とだけ、月草は言った。
深緋はそれ以上は言わなかった。月草の頭の上に一度だけ手を置いて、それから、耐性コートの土埃をパンパンと払ってくれた。
鶸が言った。
「ねえねえ、あいつ、角すごかったね」
「ヒワ」
「なに?」
「今それ言う?」
「だって、すごかった!」
「……はい、引き継ぎ。野営地戻るよ」
「はーい」
月草はその二人の後ろを、少し遅れて歩いた。
歩きながら、行きに避難の途中だったらしい家の前を、もう一度通った。窓が半分開いていた。薄いカーテンが、まだ揺れていた。
中はもう、静かだった。
月草は、もう一度、自分の両手を見た。
まだ少し、震えていた。
ゆっくり開いて、ちゃんと閉じた。まだヒリヒリしている。
坂を上る道で、鶸が後ろを振り返った。
「ツキ、ちゃんと当てられたねー」
「……うん」
「怖かった?」
「……うん」
「だよね。あれ、デカかったもんー」
「……うん」
月草は、それしか言えなかった。
深緋が前を歩きながら、振り返らずに言った。
「帰ったら、まずお風呂だよ」
「はーい」
「ツキも泥だらけ」
「……はい。あ、ほんとだ」
遠くから潮のにおいがまだしていた。
(了)
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