第12話:防衛ライン(上)
車内は静かだった。
ふかふかのシートと、かわいたにおい。窓の外は晴れていて、空がやけに遠い。
月草は膝の上に手を置いていた。手のひらが冷たい。
後ろの席で鶸は二席占領して寝っ転がっていた。
「ヒワ、そろそろブーツ履きな」
「あ、そっか」
深緋が言うと、鶸はブーツを履き始めた。途中で「あれ?」などとブツブツ言っている。任務用のブーツは軽いものの留め具が多くて難しいので、月草は施設を出る前に履かせてもらっていた。
月草は二人のやりとりを横で聞きながら、自分の手のひらをそっと握ったり開いたりしている。指の節がうまく曲がらない感じがした。
「ツキ」
呼ばれて顔を上げた。
深緋がこちらを見ている。膝の上に資料の束を置いて、ページを一枚めくったところだった。
「初めてだから、緊張してると思うんだけど」
「……はい」
「撃つ時はちゃんと教えるから、心配しないで」
「……はい」
「ぼくが今って言ったら撃って。訓練でできた、あれ。一方向に向けて撃つ」
「……はい」
「大丈夫だから」
深緋はそれ以上は言わなかった。資料に視線を戻して、また一枚めくる。
鶸が窓の外を見ている。流れていく屋根を見ている。
「コキア」
「ん」
「今日のやつ、デカいの?」
「知らない」
「んー」
鶸の声が、いつもよりフワフワしてる。怖がっているのか、面白がっているのか、よくわからないけど、どうやら楽しみにしているように見える。
*
車は第五地区の街の手前で止まった。
大人たちが何人か立っていた。軍服を着た大人たちが、説明してくれた。だが月草には、ところどころ難しかった。
「第五地区の沿岸側です。南側から街へ入っています」
「はい」
「南一班は、広場の北側から入ってください」
「住民は北側へ誘導していますが、東側がまだ避難しきれていません」
「街に再侵入しないところまで、魔獣を押し戻し確認までしてください。制圧でなくてもよし、です」
「はい」
深緋の返事は短かった。
それで終わりだった。大人たちは少し離れた駐屯場所に戻っていく。
鶸が伸びをした。
「じゃ、行こー」
月草は深緋の背中を見ていた。
深緋は一度だけ振り返って、「ツキ、行くよ」と言った。
坂を下る。月草は小走りで着いていく。
行きながら、深緋と鶸がかわるがわる説明してくれる。
大きな魔獣が海沿いの方から、街にやってきた。街に暮らしている人たち、みんなが逃げ終えていないうちに、獣がお家のある所まで来てしまった。今回は、住民が逃げられるよう安全を守りながら、獣が街から追い返して、戻ってこなくなるのを確認するまでが任務なこと。魔獣をやっつけなくてもいいこと。
月草は話を聞きながら周りをふと見る。道の脇に、洗濯物が干したままになっていた。白いシャツが二枚、風に揺れている。隣の家の窓は半分だけ開いていて、薄いカーテンが膨らんだり萎んだりしていた。
赤ちゃんの泣き声がした。遠くで。
月草たちと何十人もの避難していく人たちがすれ違う。荷物を抱えた人。子どもの手を引いた人。スリッパのままの人もいた。
「わ、大丈夫ー?」
鶸がすれ違いざまに、転んだ子どもを起こしていた。子どもはガクガクと頷いている。
「気をつけて逃げてねー、まっすぐだよ」
子どもは親に手を引かれて、そのまま走って逃げて行った。
月草はその背中を見送りそうになって、あわてて深緋たちの後を追う。道の角を曲がる。広場が見えた。広場に続く道からは、まだ多くの人が逃げていく人波が続いている。
月草たちはそれに逆らうように、小走りで広場へ向かう。
*
丸い広場にはいくつかの道が繋がっている。石畳にベンチが二つ。周りを、赤い屋根の建物が囲んでいる。
北東側の街路が一番まだ人が多い。南側や広場に面した家はほぼもう人の気配が見えず、それがかえって不安な気持ちになった。
扉を開いたまま逃げていく人の中から、誰かのささやきが漏れた。
「……ルデトが来るぞ」
月草はちらりとそちらを見た。ルデト。
なんだっけ?
奥から足音が伝わってきた。
足音というには重く、石畳から低い振動の音。ズン……ズン……と。月草のブーツまで響く。
月草は息を止めた。
南側の路地の暗がりから、ぬっと、大きいものが出てきた。
大きい。
それが最初に思ったことだった。
大きい。
次に見えたのは、角だった。湾曲した、太い角。頭の左右から後ろへ向かって、空気を裂くように生えている。首が太い。肩が盛り上がっている。四つの脚が石畳を一歩踏むたびに、地面が鳴った。
毛が黒くて、濡れたみたいにつやつやと光っていた。
月草の喉が、勝手に鳴った。
怖い、と思ってから、足が動かなくなった。
「ツキ」
隣から静かな深緋の声がした。
深緋はすでに前へ出ていて、左手のひらを上に、胸元に構えている。
「下がらなくていいから。そこにいて」
「……はい」
「ヒワ」
「うん」
返事と同時に、鶸がそっと地面を蹴ってふわりと浮いた。
風が下から鶸を持ち上げた。月草の前髪が、その風で乱れる。鶸はそのまま、すうっと斜め上へ上がっていった。屋根の高さを越えて、もっと上へ。
「コキアー、広場へまっすぐ向かってる」
「うん」
通信機のイヤーピース越しに鶸の声がする。
深緋の手のひら、導線グローブの上に、ゆっくりと炎が水のように湧いてくる。そのまま音もなく橙色がふくらむ。深緋はそれを下から上へ撒いた。
炎の壁が、広場の奥側に立ち上がった。
獣が見える街路の手前を、ちょうど横切るように。横に長く、月草の背丈の倍くらいの高さで、ごうっと音を立てて燃えている。その熱が頬に届いた。
獣が止まる。分厚い毛に覆われた首を振るともうもうと土埃が舞う。頭を上げた獣の低い唸り声が、広場じゅうに響いた。腹の底に響くような声だった。月草の足の裏がまた震えた。
「かっけー……」
鶸が小さく呟いたのが、しっかりと月草の耳にも届いた。
月草はそっと深緋をみると、眉間に皺を寄せて「はぁ?」と口を動かしたのが見えた。
獣は炎の壁の前で一度後退して、それから、横へ向きを変えた。進路を変えたのかどうかは、月草にはよくわからなかった。行く手には赤い屋根の家々。窓は閉まっている。誰もいないはずだ。けれど建物は人々が帰る家だ。
上空から鶸の薄い風刃が次々に獣の方へ飛んでいく。だが軽く頭を振るだけで、分厚い獣のコートが吸収してしまっている。
「コキアー、こいつフカフカ過ぎて、ボクの風、効かないかも」
「ぽいね」
「ショックー」
「……」
「えー、困ったなー」
困ったなーと言う声と同時に、大きな風の刃物が獣と建物の間にダーンと刺さる。石畳の破片が大量に飛び散る。獣は鼻面を叩かれたのはさすがに嫌だったのか、建物を避けて下がり、沿岸方面へ下がっていく。
「帰ってくれないな……」
深緋が小さく呟いた。
だが獣はさらに奥から回り込んで、建物の陰に消えた。
「コキア、東側の道に向かってるよー」
「わかった」
深緋は左手にもう一度、炎を溜める。額に汗が見えた。
月草は深緋の焦燥と葛藤の目つきを、見てしまった。
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