第11話:可動標的(上)
訓練の日の朝、月草はいつもより早く目を覚ました。
月草はそっと起き上がって、着替える。訓練着は、いつものおとなっぽい制服とは違う。脱ぎ着はしやすいけれど、ファスナーをきっちり閉めて、めくれたりしていないか気にしてしまう。
扉の奥の洗面所から水の音がした。びっくりして覗くと、深緋と鏡越しに目が合った。
「おはよう」
「……おはよ」
深緋が起きるのは、もっと早いようだ。
鶸はまだ毛布にくるまっていた。月草は少し迷ってから、ベッドのそばにしゃがんだ。ちょっと緑っぽい黄色の髪がもしゃもしゃに絡まっている。草の塊が寝てるみたいだ。
「ヒワ、起きて」
「んん」
「朝ごはん」
「んー……あと五分」
「五分はないって、コキアが言ってる」
鶸は片目だけ開けた。
「ツキ、起こすの上手くなったね」
「そう……かな」
「うん。前は『起きてください』って言ってた」
月草は耳が熱くなった。鶸はもぞもぞと毛布から出てきて、伸びをした。
食堂への通路で、白衣の大人が三人、早足で逆方向へ歩いていった。何かの書類を抱えていて、一人が小声で「南区側はもう一巡」と言ったのが、すれ違いざまに耳に入った。鶸も深緋も、特に振り返らなかった。月草だけが少し首を傾げて、それから、聞かなかったことにした。聞いていい話かどうか、まだわからないから。
*
朝の食堂は、今日も湯気で白く曇っていた。
今日はパリパリしたパンと、ウインナーと、トマトの野菜スープ。フルーツヨーグルト。
鶸はパンを二つ取って、片方にバターをベタっと塗ってハチミツをかけている。月草もパンを取って、バターとハチミツを真似してみた。深緋はバターだけ。
「ツキ、それだけ?一個しか食べないの?」
鶸が口の端にパンくずをつけたまま言った。
「うん」
「飛べないよ、それじゃ」
「ぼ……僕はまだ飛ぶ練習は……」
「あ、そっか」
鶸は笑って、もう一口齧った。
「ヒワ、そもそも二個食べるほうが食べ過ぎ」
苦笑しながら深緋がまぜっかえす。
月草はウインナーにケチャップをつけて、かじった。パリッと音がしてびっくりした。
*
地下訓練室は、いつもの座学室より天井がうんと高い。月草はここに来ると、まず上を見上げてしまう。そして息を吸い込む。むき出しの梁に、淡い色のパネルが何枚も貼られている。あれが魔法吸収剤で、ここの壁の中にも埋まってると、前に深緋が教えてくれた。埃っぽくて、ちょっとツンとする匂いがする。
部屋で魔法が出ないのは魔法吸収剤のせいではなくて、「とくしゅな」素材が混ざった建物だからで、それを施設全体で「じゅんかんせいぎょ」しているんだと聞いた。
ここは、魔法を出してもいい部屋。壁から天井にかけて小さな番号のついたパネルが埋め込まれている。
「ねーねー、可動標的、今日こそ出るかなー?」
「さあ」
「そろそろ出るといいなあ。あれ、楽しいんだよ」
三人が壁際に並ぶと、奥のドアから朽葉と黒鳶の二人が入ってきた。手に端末を持ち、いつものように三人を見渡す。
「今日は、一通り通して見る。高出力まであげる。その後は、可動標的を班でやる」
朽葉が淡々と言った。
「わーい!」
「鶸、静かに」
黒鳶のひと声で、鶸はぴたっと止まった。それから神妙な顔をつくった。神妙な顔のつもりらしいが、目だけはまだ笑っている。
まずは的に向かって当てていく時間。
「月草は、こっちだ」
朽葉が指で示した先には、一つだけ的があった。まずは一つの的にちゃんと当てられるようになること。
「狙う場所は見えるか?」
「……はい」
「広げないで、的の大きさまで絞れ」
「はい」
朽葉はそれだけ言って、月草の横に立つ。
月草は息を吐いた。
手のひらを開いて上げる。指の付け根あたりに、じりじりとした感覚が走る。
目の前の的を見る。力を絞る。小さく。そっと止めるように。
手を前に振った。
バン、と空気が鳴った。標的の縁を、衝撃波がかすめて、奥の壁にぶつかる。壁に衝撃波が吸い込まれた。
「幅が広い」
「はい」
月草はもう一度、手を上げた。
「もっと絞れ」
「はい」
今度は、手前の床を衝撃が叩いた。
「そこじゃない」
「はい」
月草は唇を噛んだ。汗が一筋、こめかみから顎へ落ちた。怖いよりも悔しい気持ちでいっぱいだ。
もう一回。
息を吸って、止めて、的の真ん中だけを見た。じりじりを、針みたいに細く、細くしていく。もう手に穴が空きそうだ。
「お前の中の、力が抜けていくところを小さくするんだ」
「……はい」
手のひらがヒリヒリしてくる。痛くてつい、両手を組んだ。
バンッ。
組んだ手の隙間から強い衝撃波が真っ直ぐに飛んでいった。的の縁にあたって強く揺れた。完全な真ん中ではない。けれど、当たった。月草は目を丸くする。
「今の、もう一回」
朽葉が短く言った。
月草の心臓が、どっと跳ねた。今の、もう一回。両手のひらの指を組んで、少し的の方へ、息を吸って、止めて、的の真ん中だけを見て。
バンッ。
また、縁。さっきより少し内側の場所。月草は自分でも少し驚いて、それからすぐに、もう一度両手を合わせてしっかり組み直した。少しお祈りしてるみたいだ。
「次は真ん中にいけるな」
手が震えていた。でも、しっかり両手を握ったら震えが止まる。
月草はドキドキしながら頷いた。
*
「ヒワ」
朽葉が言った。
「飛んでいい」
「はーい!」
月草が一瞬だけそちらを見ると、鶸が地面を蹴って、ふわりと浮いたところだった。鶸は一回宙でくるりと回って、それから天井近くまで上がっていった。床から見上げると、訓練着の裾だけがひらひらしている。
黒鳶が下から声をかけた。
「ヒワ、降りる時は前を見て」
「はーい」
返事だけは元気で、鶸は天井の梁すれすれを横滑りに進んでいった。風が彼の周りで渦になっている。月草の頬にも風が届いた。少し冷たい。
「14から26まで順番に当てろ」
そう黒鳶が言うと、同時に三つか四つくらいの小さな風の刃が、鶸が軽く振った手刀から飛んでいき、真ん中に刺さっていく。ダーンと風の刃が当たって小刻みに揺れ、光の粒になって刃は消える。鶸の口角が上がった。まるで獲物を前にした獣のようだ。
次は逆順に当てる。鶸の目がキラキラしている。
「ヒワ」
「次は出力を上げるが、限界いっぱいまでやらなくていい」
「えー……」
「訓練室を壊すつもりか」
「はーい」
鶸は唇をとがらせて返事をする。
「まず数が多い方から」
「いっぱい投げまーす」
鶸の周りを巻いていた風が、少し弱くなる。空中で思い切り腕を振り上げて、斜めに大きく振り下ろすと、無数の小さな刃が的に向かって飛んでいく。
タタタタタッと、小さな風刃が的に当たる軽い音がしばらく続いた。
「オーケー、じゃあ大きいの。16番に当てて」
「はーい」
鶸は息を吸った。
「出力大! 出ます! そなえ!」
訓練場に響く大声で、号令をかける。朽葉が月草に「いったん止まれ」と素早く声をかけた。深緋も止まって、上にいる鶸を眺めている。
静まり返った訓練場に、鶸がすうっと大きく息を吸う音が聞こえた。
ゆっくりと手を上げる。
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