第10話:もういっかい(上)
簡易検査の翌朝、月草はベッドから出てこなかった。
深緋は自分のベッドの縁に座って、月草の様子を確認した。布団から出ているのは頭の先だけ。寝息は規則正しい。熱はない、と昨日のうちに織部が確認していた。ただ、検査からの回復に時間がかかるだけ。
鶸は隣のベッドで、まだ仰向けに転がっていた。目は開いている。
「コキアー、ツキまだ寝てるー?」
「うん」
「ボクおなかすいたー」
「さすが」
「でしょー?」
深緋はまだ少しだるい体で、洗面所の方へ歩いていった。歩く足がちょっと重たい。食欲はゼロじゃない、くらいだ。髪を整えるのもだるい。
一方で、鶸は大抵検査の翌日にはケロッとしている。二人で食べた朝食も、深緋が少し残した分まで平らげていた。
*
月草はその日、昼前まで眠っていた。
「コキア、ツキ起こす?」
「そのうち起きるでしょ」
「それもそうかー」
月草が目を覚ましたのは、昼の少し前だった。布団の中で一度大きく息を吐いて、それから半身を起こした。顔色はもうすっかり良くなっている。髪が、片側だけ派手に跳ねていた。深緋はそれを見て、口元を歪ませた。
「……おはよ、ございます」
「うん……」
「ツキ、もうお昼ごはんだよー。わ、すっごい髪」
鶸がくすくす笑っている。月草は窓の方を見て、それから時計を見た。
「えっえっ」
「お昼ごはん行く?」
「行く、行きます」
月草はベッドから降りて、ぱたぱたと洗面所に行った。洗面所から「わ……」という声が聞こえる。さすがに深緋も我慢できずに、吹き出した。
*
翌々日になると、月草はもう元気を回復していた。
いつの間にか月草は着替える時も、何を着たらいいのか自分で選べるようになった。深緋がボタンを留めてやることもなくなった。訓練着もうしろまえに着ることもない。月草は鏡の前で身支度を整え、それから振り向いた。
「コキア、今日は訓練ですね!」
「うん」
「地下のほう?」
「うん」
「……うん!」
月草は鞄を持って、もう一度鏡を見て、それから手袋を確認した。手のひらを握ったり開いたりしている。
地下訓練室は、いつもの匂いがした。乾いた石のようなツンとした何か。魔法吸収剤の匂い。深緋は壁際の棚から水ボトルを取って、月草の分も一緒に取った。月草が振り向いて、両手で受け取った。
「ありがと」
「うん」
朽葉は訓練室の中央で、すでに立っていた。手には記録用のデバイスがある。
「それぞれ並べ」
朽葉が短く言った。
三人が前に並ぶ。
「今日は制御。狭域。広げない方を中心に練習。鶸は黒鳶先生と一緒に」
「えー」
「今日は危ないので、横についてもらえ」
「もう平気だってー」
「何がだ」
「……はーい」
鶸は不満げに黒鳶先生に「おねがいしまーす」と言う。
「なんでボクだけ補助付きなのー」
「ほらほら、鶸はこっち」
「もう子どもじゃないしーちゃんとできるよー、ねえクロトビセンセー」
「ハイハイ、じゃあ見せてもらうから」
ずっと黒鳶に抗議している鶸を横目で確認して、深緋は自分の位置に立った。月草はその右隣。
訓練内容自体は、いつも通りだった。
月草はまず当てるだけで良い。月草は、朽葉の指示を一言も聞き逃さない顔で聞いていた。
「強く出すな」
「はい」
「狭く手前で止めるくらいでいい」
「はい」
「呼吸は止めない」
「はい」
月草は的の前に立って、手を上げて縦に少し振る。衝撃波は大きく逸れて止まらずに壁へ吸い込まれた。もう一度、手を上げた。次は震えて弱すぎて届かない。
「もう一回」
「はい」
三回目は、少しかすめた。的の縁が、薄く揺れた。
「いい」
「はい」
四回目で、何とか当たった。朽葉は短く頷いた。
「出力方法を変えてもいい」
「え?」
「手を振りおろすよりも合う型があるかもしれん」
月草は息を整えながら、質問しようとしたが、朽葉はもう次へ行っていた。
「深緋は、的の前で留める。五秒」
深緋が前に出た。深緋は左手のひらを上に向ける。水を汲むように手のひらに炎が溜まり、フッと息を吹きかけた。火の塊が音もなくヒュッと飛んでいき、的の手前で静かに停止する。五秒数えて、左手をサッと払った。火は火の粉もなく消えた。
月草はその様子を、自分の番でないのに見ていた。
「おい鶸! 今、光でごまかしたろ」
「え、あれー?」
「鶸、ちゃんと狭い範囲で丸の中だけ当てる」
「はーい」
鶸は、力を大きく使った後は、どうしても出力がブレやすい体質だ。光の揺らぎで当たったように見せたのが、黒鳶にバレて怒られている。何度も手刀を素振りして、「おっかしいなー」とごまかしている。
一時間の訓練が終わり、朽葉が的を片付け始めた。
深緋が水を飲んでいると、月草が朽葉の方へ歩いていくのが見えた。鶸も気づいて、深緋の隣に来た。
「クツハ先生」
月草の声は、少し緊張していた。
「ん」
「あの、もうちょっと、練習したいんですけど」
「終わり」
「あの、」
「終わり」
朽葉は的を棚に戻していた。背を向けたまま。
月草はそこで、一度黙った。しょげて帰ってくるかな、と深緋は思った。鶸も同じことを思ったらしく、横で「うー」と小さく言った。
月草は引き下がらなかった。
「先生」
「ん」
「任務で、僕、何もできませんでした」
「うん」
「だから、できるまで、もうちょっとやりたいです」
「……」
朽葉は的の支柱を棚にきっちりしまって、月草の方を振り返った。月草は朽葉の顔をまっすぐ見ていた。手はぎゅっと握っていた。顔が赤い。
「月草」
「はい」
「お前は、まだ力を使い尽くす時じゃない」
「はい」
「まだ止める方で消耗してる」
「はい」
「だから今日、これ以上は伸びない」
月草は少し俯いた。
朽葉は軽くため息をついて言った。
「明日、またやればいい」
「明日……」
「そうだ」
「明日、もう一回、見てもらえますか」
「勿論だ」
「ありがとうございます!」
月草は深く頭を下げた。
朽葉はそれを見て、少し間を置いてから、「多めに水、飲んで帰りなさい」とだけ言った。
「はい!」
月草が戻ってくると、鶸が真っ先に駆け寄った。
「ツキ、すごー」
「えっ」
「クツハ先生、明日またやるって言ったよ。すごい」
「……すごい?」
「うん、ふつう『うるさい』で終わるよ」
「どういう、ことですか?」
月草が深緋を見た。深緋は鶸の頭を軽く小突いて「行くよ」と月草に言った。
「はい……?」
地下から地上へ戻る階段で、月草はまだ興奮していた。月草はまだ顔が赤かった。階段を上がる足が妙に速い。鶸が後ろから、「ツキ、転ぶよー」と言った。
「あ……うん」
月草はハッと我に帰ったようで、少し俯いて歩調を戻した。
廊下を歩きながら、深緋は朽葉の言葉を頭の中で思い出していた。「止める方で消耗してる」のは見ていてわかった。暴走するほど膨大な力を持っている、月草のようなタイプは、魔法を制御することで先に力を使い果たしてしまう。




