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第09話:避難経路(上)

 最終日の朝、車両を降りた時点で、昨日とはにおいと音が違った。深緋も鶸も感じている。強い獣の臭い。どうやら大人にはわからないらしい。遠くで大きく燃えた臭いも感じる。


 深緋《こきあ》は地区の入り口に立って、通りの奥を見た。戸を開け閉めする音が、響いている。一軒ではない。三軒、四軒、もっと先でも。街が慌ただしい。荷車の車輪が石を踏む音。何か詰まった袋を抱えた人が、家の中から出てきて、隣の戸を叩いている。

 連日、誘導白線を引き直した道に、今日は多くの人がいた。


「コキア」


 鶸《ひわ》が横から肩を寄せてきた。


「やっぱこうなるよねー」

「うん」

「ゆうべ、東側だっけ?」

「ここから東に一時間くらいの場所で獣害」

「また第七寄りなんだー」

「そう」

「あー」


 月草《つきくさ》は深緋の少し後ろにいた。おそらく同じように強い獣の臭いがするのだろう。鞄の肩紐をぎゅっと握って、人の動きを目で追っている。不安そうな月草をさすがに見かねて、深緋はそばへ呼び寄せる。


「ツキ、こっち来な」

「うん」


 誘導の配置は、既に車両内で確認している。

 通りの外側には、避難車両が何台も並んでいた。荷台付きの大型車両。簡易医療車。荷物運搬用の平台車。見慣れない腕章をつけた大人たちが、広げた地図を囲んで短く話している。


「第七地区側、まだ来るぞ」

「搬送列ずらせ」

「東ルート空けろ」


 月草は、その声の方を見た。

 けれど意味まではわからなかったようだ。深緋は立ち止まっている月草を促す。


「ツキ」

「うん」


 月草は、慌てて誘導台を抱え直した。

 深緋は広い通りの出口。月草は深緋の向かいで、道を挟んで誘導。鶸は手前で避難先に向かう人々を整理する。


「ツキ、誘導台はしっかり固定して、真ん中に立つ」

「はい!」

「ヒワも、台から落ちないでね」

「へーい」


 鶸は軽く片手を上げて、少し離れた位置で誘導を始める。それぞれ誘導の時に立つ台を持っている。深緋は月草の方を向いた。


「ツキは、道の外側に置きな」

「うん」

「人が来たら、避難車両はここから五分まっすぐ歩きます、って言う。そして、街の外側を指す」

「うん」

「人の流れを一定に、止まらないように。でも急がせないように」

「……うん」

「あと怪我してる人がいたら教えて」

「うん」


 月草は、深緋の指差した位置まで歩いていって、台を置き入念に地面に押さえ、その上に立った。動きがギクシャクしている。

 落ちるんじゃないかと、深緋は少しだけハラハラした。


    *


 最初の住人が通りの奥から見えた時、月草の方が先に声を出した。


「避難車両はこっちですー!」


 声がちょっと裏返っている。緊張しながら、顔を真っ赤にしてがんばっている。

 若い女性と、その手を引かれた小さい子は、声の方を見て、月草の指差す方へ歩いていった。子どもは月草を二度振り返った。月草はもう次の人を見ていた。


「ここからまっすぐです! 五分歩いてください!」


 二回目はもう少し落ち着いていた。深緋は「落ち着いて、みんな乗れます」と声をかけながら誘導していく。

 住人の流れが少しずつ広くなる。

 月草は、最初こそ声が裏返っていたが、何度か繰り返すうちに少しずつ通るようになってきた。


「避難車両はこちらです! 白線の内側を進んでください!」


 荷車を押した人、子どもの手を引いた人、布袋を抱えた人。流れは途切れない。深緋は通路の少し手前へ立ち、速度が偏りそうな場所だけ整えていく。

 前の方で、小さい子どもが急に立ち止まった。後ろの列が少し詰まる。


「あ、ごめんねー、そこ止まらないでー」


 鶸が横からすっと入り込んだ。しゃがんで子どもの肩を押し、流れの内側へ戻す。


「だいじょーぶ、ゆっくりでいいからねー」


 母親が頭を下げる。鶸はもう次の列へ走っていた。


「コキアー! 西側から合流するよー!」

「うん」

「あと、北側の崩れてるとこ、瓦礫ちょっとガタついてる。気をつけてー」

「わかった」


 鶸はそれだけ言うと、また流れの方へ戻っていった。

 深緋は北側の建物を見た。崩れかけた壁の一部が、確かに少し傾いでいる。何か大きな生き物がぶつかったまま、放置されている建物だった。


 月草の側で、住人がひとり立ち止まって、後ろを振り返っていた。何か思い出したような顔だった。


「そういや荷物が……」


 月草が困ったように深緋を見る。


「白線からは出さないで」

「うん」


 深緋は住人の方へ向いた。


「あとで回収班が入ります。今は先へ進んでください」


 住人は少し迷ったあと、無念そうに、また避難の流れへ戻った。月草は心配そうな顔をしている。その時。


 北側で、音がした。


 乾いた音。最初は小さく、それから、もう少し大きく。

 深緋は顔を上げた。瓦礫の壁の一部が、ゆっくりと落ちていった。荷物を抱えた中年の女性が、ちょうどその下を通りかかっていた。

 誰かが悲鳴を上げた。短く、一度。


 月草は止まった。どうしたらいいのかわからず、恐怖で硬直していた。


「ヒワ!」


 深緋は呼んだ。声は短かった。

 鶸はもう動いていた。台を蹴って飛び上がり上空へ。空気が一度、引き絞られるような音を立てる。落ちていく壁の塊が風に巻き上げられ、切り刻まれた。そしてもう一度風で押し流され、人々の上から逸れた。


 女性は二歩よろけて、立ち止まり、それからまた歩き出した。荷物は落とさなかった。

 鶸は上空から、片手を上げた。ジャケットの裾がバタバタとはためいている。


「だいじょぶー!」

「うん」


 深緋も短く返した。

 月草は台の上で下を向いて、足元を見ている。手をぎゅっと、握りしめているのが見えた。ジャケットの袖口が、少しだけ白く汚れていた。さっき飛んだ瓦礫の粉だろう。

 深緋は通りの奥を見た。まだ人は来ている。荷物を抱えた老人と、手をつながれた子どもが、白線の内側をゆっくり歩いてくる。

 深緋は月草へ声をかけた。


「ツキ」

「……」

「まだ人は来てるよ」


 月草は深緋を見た。一度、唇を噛んだ。ぎこちなく足を置き直す。肩はまだ固い。でも、顔は人々の方へ戻った。

 それから、大きく息を吸って、次の住人の方へ向き直った。


「避難車両、こちら、ですー!」


 声は少し震えていた。深緋はそれにも何も言わなかった。震えてもいい。続けたなら、それでいい。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。


月・木 朝7時過ぎに最新話を更新しています。

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