第07話:南区第八地区(上)
目が覚めて、深緋はしばらく天井を見ていた。
昨日の検査の重さは、首の奥と胃の底にまだ薄く残っている。でも起き上がれないほどではない。検査の翌日はいつもこんな感じで、午前のうちにだいたい抜ける。
毛布をめくって、床に降りる。
はす向かいのベッドでは、鶸がもう毛布の中で寝返りを打っていた。検査の翌日の鶸は、いつもびっくりするほど普通だ。
月草のベッドは、布団のふくらみが動かない。目だけ開けて、天井を見ていた。
「ツキ、おはよ」
「……おはよう」
「眠れた?」
「……うん。たぶん」
返事の間が、少し空いた。深緋は、それ以上は聞かなかった。
「ヒワ、起きて」
「おなかすいたー」
「え?」
「あ、おはよー」
「はいはい」
毛布の山が、もぞもぞと崩れて、鶸が顔を出した。前髪が右だけ立っている。鶸は両手を上に伸ばして、よいしょ、と言いながら起き上がった。
「おはよー、ツキー」
「……おはよう、ヒワ」
「ツキ、まだ眠そう」
「……ちょっと」
「ボクはバッチリだよー」
「うん……」
鶸は、本当にバッチリの顔をしていた。昨日の青い顔がうそみたいだ、と深緋は思う。鶸はいつもそうだ。検査の最中と直後はぐったりしているくせに、ひと晩寝ると、もう次の日には普通に喋って普通に動いている。
月草が、ゆっくり起き上がった。動きは丁寧だけど、どこも痛そうではない。ただ、目線が床のあたりで止まっている時間が、いつもより長い。
*
食堂は、いつも通りの朝だった。
パン、スクランブルエッグ、温かいスープ、果物。鶸は迷わずパンを二つ取った。
「ヒワ、二個?」
「うん。お腹すいてるー」
「昨日あんなだったのに」
「昨日は昨日ー」
月草は、トレイの上にパンを一つと、チキンスープと卵、オレンジを半分だけ取った。テーブルに着いてから、オレンジを一切れ、ゆっくり齧った。
深緋はその向かいに座る。鶸は月草の隣だ。
「ツキ、ゆっくり食べな」
「うん……」
「あんまり食べたくなくても、ゆっくりでも食べたほうが楽だよ」
「わかった」
月草は卵をちょっぴりずつ取りながら、スープと一緒に食べている。小さな野ネズミのような食べ方だな、と深緋は思った。
鶸はパンにジャムを塗りながら、月草をちらちら見ていた。
「ツキー」
「……ん」
「今日は、天気よくなるってー」
「……うん」
鶸は、それ以上は何も言わずに、パンを食べた。
月草は、卵を一口食べて、それからしばらく手が止まっていた。スプーンを握ったまま、テーブルの一点を見ている。
「……コキア」
「ん」
「……ぼく、こんなに弱くて、任務できるんでしょうか……」
声が小さかった。月草は、スプーンの先でスープの表面を小さく押した。浮いていた野菜が、ゆっくり沈んで戻ってくる。
鶸が、ジャムを塗る手を止めた。
「ツキは、弱くないよ」
「……でも」
「検査と、任務は違うから」
「……そう、なの?」
「うん。検査の方が、たぶん身体には重い」
月草は、目を伏せた。
鶸が、椅子をずらして月草に少し寄った。肩はくっつけないけど、近い。
「ツキ? ツキはだいじょぶだよー」
「……うん」
「ボクも初めての検査のときは、おんぶで帰ったよ!」
「……ヒワも?」
「うん」
「ほんと?」
「一年くらいはおんぶで帰ってたよ!」
鶸は、笑いながら言った。月草は、ちょっとだけ顔を上げて、鶸を見た。そして、小さく頷いてスプーンを握り直した。深緋は、卵を一口食べた。
そういえば、そうだったっけ、と深緋も苦笑しながら月草に頷いてみせた。あの頃の鶸は、毎回大泣きしていたな。
*
部屋に戻って、しばらく座学の宿題を開いていたら、扉がノックされた。
織部だった。
「南一班は午後に中央棟の第三会議室に集合してください。今後の任務の説明があります」
鶸が、椅子の上で振り向いた。
「え、任務?」
「ええ、任務です」
「いつ出るのー?」
「それも午後に説明します。でも今日じゃないから安心してね」
織部は、にっこり微笑みながらドアを閉めて、珍しく早足で戻って行った。
鶸が、深緋の方を見た。
「なんか急だね」
「うん」
月草は、テキストの上に手を置いたまま、動かなかった。深緋はその横顔をちらっと見て、それから自分のノートを閉じた。
*
午後、中央棟の第三会議室に着くと、もう何人か入っていた。
南三班が壁際に並んで座っている。南五班は前の席にいる。深緋たちは、入り口に近い席に三人で座った。月草は真ん中だ。
南五班のひとりが、隣に小声で言っていた。
「また南区だねー」
「先月も行ったよね」
「うん」
「沿岸だと湿気でべたべたで疲れるんだよな」
深緋は、聞こえない振りをした。月草が、少しだけ顔を上げて、それからまた俯いた。
前に出てきたのは、いつもの作戦指導の褐返だった。地図がスクリーンに出る。
南区の沿岸寄りの、住宅地と倉庫の混じったエリア。
「南一班は、第八地区における避難経路確保補助、および避難誘導支援を担当する」
淡々とした声で、続く。
「前線任務ではありません。出発は二日後、朝六時、南棟の出庫口に集合」
隣で「うえー……」と、朝が苦手そうな声が小さく聞こえる。
「現地滞在は三日から四日を想定。延びる可能性はあります」
そこから他の班の担当地区や任務の振り分けが、次々に説明される。
「装備は通常支援装備。任務バッグは前夜までに準備完了すること。質問はあるか?」
誰も手を上げなかった。
「では解散」
立ち上がるとき、鶸が小さく息を吐いた。
「前線装備じゃないってさー」
「うん」
「よかったね、ツキ」
「……よかったんですか?」
「そうそう。避難のお手伝いだよ」
月草は、たしかに少しだけ、肩の力を抜いた。でも、すぐにまたこわばった。「本当に行くんだ」という顔だ。
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