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第05話:大丈夫だよ(上)

 朝起きると、深緋《こきあ》はもうベッドにいなかった。

 毛布はきちんと畳まれていて、枕の上に部屋着のシャツが軽く乗せてある。月草《つきくさ》は半分起き上がったまま、しばらくその畳まれた毛布を見ていた。


 ゆうべ、深緋はベッドの端に座っていた。それから自分はどうやって眠ったんだろう、と考えた。覚えていない。覚えていないということは、たぶん、深緋が「もう大丈夫そうだね」と言ってから、向こうのベッドへ戻ったのだ。たぶん。


「ツキー、ヒワー、起きてる?」


 洗面所から、深緋の声がした。

 鶸《ひわ》のベッドの毛布の山が、もぞもぞと動いている。


「……起きてる」

「起きてないー」


 毛布の山の中からも返事がある。


「うん」


 鶸は毛布から這い出して、寝癖のついた頭のまま洗面所に向かった。月草もベッドを下りた。床が少し冷たい。

 昨日の夢は、もう輪郭がぼやけていた。でも、思い出そうとすればすぐに思い出せた。それが嫌だった。


    *


 合同講義室は、思っていたよりずっと広かった。

 天井が高い。前のほうに大きな黒い板があって、その横に大人たちが何人も立っている。資料の束を抱えた人、長い棒みたいなものを運んでいる人、台の上を布で拭いている人。みんな静かに動いていて、空気はざわざわしているのに、騒がしくはなかった。


「うわー、長くなりそう」


 鶸が小声で言いながら、椅子へ腰を下ろした。月草はその隣に座る。


「まだ何にも始まってないでしょ」

「だってさー、合同講義っていっつもながーいんだもん。前の時もさー、おしりが岩になったよ」

「岩にはならないでしょ」


 深緋は配られた資料を机の上で揃えた。月草の前にも、織部《おりべ》が資料を置いていく。


「ツキの資料はこれね」

「……はい」


 織部が次の列へ進んでいく。月草は、資料の一枚目をじっと見た。区域、と書いてある。区域更新、と書いてある。文字は読めるのに、頭の中までは入ってこない。


 ちらりと、深緋のほうを見た。

 深緋は、もう資料をぱらぱらと読みはじめている。指先で紙の端をなぞって、ときどき首を傾げながら。昨日見た赤黒い傷を思い出して、月草はあわてて目を逸らした。心臓が、急にどくどく鳴る。


「ツキ、鉛筆持ってきたよね?」


 深緋がこちらを向いた。


「……あ、はい」

「何かメモする紙とか要る?」

「だい、じょうぶ、です」

「うん」


 深緋は、それだけ言ってまた資料に戻った。普通の声だった。昨日の夜と同じ声で、今朝と同じ声だった。月草の手のひらが、じわっと汗ばむ。


 普通だ。

 深緋は、普通だ。

 いつもの深緋なのに、なんで、こんなにこわいんだろう。


 前のほうで、先生が一人、台の前へ進み出た。マイクの音を確かめている。コツン、コツン、と低い音がする。まだ始まらない。


「ヒワ、区域のとこね、たぶん北西側のあたりが今回増えてるっぽい」


 深緋が、紙を指でとんと叩いた。


「うわ、また封鎖ふえるの? 覚えるのめんどくさすぎー」

「面倒でも覚えなきゃ」

「コキアはまじめだなー」

「ヒワが適当すぎなだけ」


 二人がひそひそと話している。周りの班も、似たように小声で話している。前の列で、誰かが資料へさらさらと書き込みをしている音がする。


 月草は、自分の資料の同じ場所を、もう三回読んでいた。

 〈区域更新資料〉

 〈南区第七地区 封鎖継続〉

 〈北区第一地区 封鎖解除〉

 文字が視界をすべっていく。

 昨日の夢を、思い出す。誰かが吹き飛んで、倒れた。あの左肩。


 違う、と思いたかった。

 違っててほしかった。

 でも、深緋の肩と腕の傷を見たとき、月草の中で繋がってしまっていたから。


 言わなきゃ。

 ごめんなさい、って、言わなきゃ。


 息を吸う。喉のあたりが、きゅっと細くなる。

(……でも)

 言ったら、深緋は気づいてしまう。

 あの時の子だったんだ、って。

 それまで優しく話してくれていた深緋の目が、変わるかもしれない。鶸も、ええっ、って顔をするかもしれない。怖がるかもしれない。

 南一班に、いられなくなるかもしれない。


 月草は、ぎゅっと資料を握った。紙の端が、クシャッとなった。


「ツキ」


 深緋の声がして、心臓が跳ねた。


「は、はい」

「上の空?」

「……」

「大丈夫?」


 深緋がのぞきこんできた。月草は、目をうまく合わせられなかった。


「えと、だい、じょうぶ、です」

「ほんと?」

「ほんと、です」


 鶸も、横から首をかしげた。


「ツキ、今日どうしたのー?」

「な、なんでも、なくて」

「ほんとー? 顔色、ちょっと良くないよ?」

「……お腹は、すいてない、です」

「お腹の話はしてないけどー」


 鶸が、くすくす笑った。深緋も苦笑しつつ、それから真顔に戻った。


「ヒワならともかくね。でも織部呼んでもいいんだから、具合悪かったら言いな?」

「……はい」


 深緋が、また資料に戻る。ちょくちょくこちらを気にしてくれてるのがわかる。

 月草は、ぎゅっとペンを握った。深緋は優しい。


 合同講義は、難しすぎてわからなかった。

 月草は基礎クラスで勉強を始めたばかりの上、深緋の怪我のことが気になってしまって、ほとんど頭に入ってこなかった。


 休憩時間になって、鶸は「トイレー」と、織部の所へ向かった。

 今、言えるかもしれない。今なら、まだ前のほうがざわざわしてる。今なら、声を出しても、まわりに聞こえない。

 息を吸った。


「あのね、コキア」

「ん?」


 深緋がふり向く。まっすぐな目が、月草を見ている。なんの構えもない目だった。普通の目だった。

 その瞬間、前の台のところで、コン、と硬い音が鳴った。

 マイクのスイッチが入った音だった。先生の一人が、この後の再開時間を告げている。


「ツキ?」


 深緋が、小声で促す。

 

「……」


 月草は、口を開いた。開いたまま、なにも出てこなかった。


「……やっぱり、なんでも、ない、です」

「なんでもないならいいけど……大丈夫?」

「はい」


 深緋は、「寝不足なのかな?」と首を傾げた。慌てて首を振ると、深緋はちょっと姿勢を崩しながら、資料の前の方をまた見直していた。

 月草も、資料を見るふりをした。

 文字は、やっぱり、入ってこなかった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。


月・木 朝7時過ぎに最新話を更新しています。

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