第02話:基礎座学クラス(上)
月草は教本を抱えて、廊下を歩いていた。基礎座学クラスは、一番手前の教室だった。深緋と鶸は教室の入口前で別れ、奥の教室へ行った。鶸は「またあとでねー」と言った。深緋は「いってらっしゃい」と言った。
扉の前で、一度、立ち止まった。
扉に小さな札が貼ってある。〈基礎・三〉と書いてある。間違っていないことを確認してから、月草はもう一度、教本を抱え直した。
中から、椅子の動く音がする。
扉をそっと開けた。
*
部屋は、思っていたより明るかった。
窓が大きい。机は六つ。だが埋まっていない。先生はまだ来ていなかった。前の机に一人座っていて、教本のページをぱらぱらめくっていた。月草と目が合うと、めくる手を止めた。
「あ」
その子は言った。
「キミ、新しい子?」
「……うん」
「ツキ……クサ?」
「うん」
「あー、よかった、合ってた」
その子は教本を一度閉じた。それから、自分の隣の席の椅子を、軽く引いた。
「ここ座るでしょ?」
月草は戸惑いながら、頷いて隣に座った。椅子の高さは、ちょうどよかった。
「楽しみにしてたの!」
ずいっと寄って来られて、思わず月草は椅子ごと後ろに引いてしまう。
「ずーっとキョウ一人だったから」
「キョウ?」
「キキョウっていうの。でもキョウって呼んでいいよ!」
「うん」
桔梗はニコッと笑った。
笑い返す間もなく、先生が入ってきた。年配の女性で、首から黒い眼鏡をぶら下げていた。教卓に教本を置いてにっこり挨拶をした。
「おはよう」
「おはようございますー」
桔梗が、ちょっとだけ語尾を伸ばして言った。月草も「おはようございます」と言った。緊張のせいか、声がちっとも出ない。
「月草、はじめまして。基礎担当の錫と言います」
「は……じめまして」
「ひとつずつ、やっていきましょうね」
月草はうまく声が出ず、こくこく頷いた。先生はそれに気づいた様子もなく、教本のページを開いた。
「では今日は、地形図の章をおさらいしましょう」
月草は教本を開いた。四十一ページ。地形と気象、と書いてある。図がある。山と、川と、矢印。
授業が始まった。
先生は、矢印の意味を、一つずつ説明していった。風の向き、雨の降り方、それが任務のときの移動にどう関わるか。
わかりやすく噛み砕いて説明をしてくれる。難しくはなかったけれど、月草はまだ、ノートの書き方がよくわからなかった。先生が話したことを全部書こうとすると、追いつかない。書かないでいると、残らないのが心配だ。
「施設のある、中央区を囲んで北・南・東・西、と区が分かれています」
月草は「ホーム」と書いて、北・南…と書いていく。
「各区はそれぞれナンバーのついた地区に分けられています。南区は海に面していて、沿岸は第五から第十地区まで。あなた方の周りにも南沿岸地区へ任務に行っている班がいますよ」
説明がどんどん進んで行くが、隣を、ちらっと見た。
桔梗はノートを開いていた。書いてある量は、そんなに多くなかった。短い言葉だけ。〈中央、北南東西〉〈沿岸〉〈南区〉。それだけ。
月草はそれを見て、自分のノートにも、同じくらい短く書いてみた。書いてみたら、ちょっと安心した。
桔梗がちらっとこちらを見て、何か言いたそうにしていたけれど、口は開けなかった。先生が話している途中だったから。
*
休憩時間になって、先生が一度教室を出ていった。
桔梗はくるっと月草の方を向いた。
「ねえ」
「う……うん」
「ノート、ちょっと困ってた?」
「……うん」
「キョウもさ、最初困ったんだぁ」
桔梗は自分のノートを、こちらに少し見せた。
「全部書こうとするとさ、追いつかないよね」
「うん」
「だから、先生がね、二回言ったやつだけ書けばいいんだって」
「二回?」
「うん、大事なことは二回言うから」
月草は、それを頭の中で、ゆっくり確かめた。確かに、さっきの授業で、先生は「南区」と二回言った。「沿岸」も二回言った。気づかなかった。
「……そうなんだ」
「そうそう」
桔梗は、得意げに笑う。月草は、思い切って聞いた。
「あのね」
「うん?」
「あのね、聞いてもいい?」
「いいよいいよ、なに?」
「ノートって、あとで誰かに見せなきゃいけない?」
「あぁ」
桔梗は机へ頬杖をついて、鉛筆をくるくる回した。
「ううん。見せない。自分だけのだよ」
「自分だけの」
「先生に渡したりしないよ」
「うん」
「だから好きに書いていいの。絵とか描いてもいい」
「絵をかくの?」
「描かないけどね、キョウは。でも描いても怒られないよ」
「そうなんだ」
「でもね、寝てたら怒られるよぉ。すっごいこわい」
桔梗はブルブル震えてみせて、悪戯っぽく笑った。月草はつられて笑った。
桔梗が「ツキクサ、やっと笑ったね」と嬉しそうだった。
授業の後半は、地図の見方だった。
縮尺、というのを習った。一センチが何メートル、という話。月草はそれを、ノートの端に書いた。書いてから、もう一度先生が同じことを言った。やっぱり二回言った。
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