第01話:ツキの朝(上)
誰かの話し声がする。
穏やかな優しい声と、明るくてキラキラした声。
月草は毛布の中で一度まばたきをして、うっすら目を開けた。頭の上にはツヤツヤした板。まだ見慣れない。ここはどこだっけ?の天井。
「だからー、それはきのうも言ったってばー」
「聞いてない」
「言ったよー」
「言ってないよ」
短いやり取りが、朝の部屋の中を通り過ぎていく。月草は毛布を抱えて起き上がった。窓から光が差し込んでいる。
「あ、ツキ起きた?」
「起きたかな?」
鶸がベッドの脇にしゃがんでいた。月草と目が合うと、にっと笑った。寝癖がすごい。後頭部のあたりが、ボバーン、と暴風に吹かれたように立っている。きっと、まだ本人は気づいていない。
「……おはようございます」
「おはよー」
鶸は床に座り込んだまま、片手で自分の靴下を引っ張り上げていた。すでに制服のシャツを着ている。ただボタンは上から一つしか留まっていない。
「ヒワ、ボタン留めな」
深緋の声がした。月草は身体を起こして、声の方を見た。深緋はもう着替えを終えていて、机の前に立っていた。手元で本を整えている。顔にかかる髪をうっとうしそうに耳にかけて教本らしき薄い冊子と、筆記用具を器用にクルクルと留めていた。
「えー、どこー」
「上から二つめから下ぜんぶ」
「あー」
鶸は自分の胸元を見下ろして、「ほんとだ」と笑った。それからボタンを留めていく。留めながら、今日は誰々が当番で、昨日の夕飯がどうで、というような話。月草は途中まで聞いていたけれど、途中からは聞かなくなった。鶸の話は聞かなくても、別に困らないことが、なんとなくわかってきた。
「ツキ、おはよ」
横から深緋が声をかけた。
「まだ眠い?」
「……うん」
「昨日なかなか寝付けなかったでしょ? 顔を洗っておいで」
部屋の一角に洗面所がある。その奥はトイレとお風呂。もう覚えた。
月草はもうちょっともぐっていたいな、と名残惜しく毛布を畳んで、ベッドから足を下ろした。床は冷たくない。スリッパを履いて、ペタペタと洗面台まで歩いた。蛇口をひねると、ぬるい水が出た。最初は冷たい水だと思っていたから、最初の朝、手を入れて少しびっくりした。ここの水はちょっと温かい。
顔を洗って、ふかふかのタオルで拭いた。鏡を見たら、自分の顔が映っていた。自分の顔じゃないみたい、と思った。不思議な気持ちだった。
後ろで、鶸が「ツキ、髪ぼさぼさー」とクスクス笑っている。
「ヒワもだよ」
深緋が静かに言った。
「えっ」
鶸が振り向いて、近くの棚にある小さな鏡を覗いた。それから「うわー」と言った。
「うわーじゃない」
「コキアー、なおしてー」
「自分でやりなよ」
「むりー」
深緋は教本を机に揃えて置きながら言う。
「洗面所で髪濡らしな」
「けちだなー」
鶸はぶつくさとボヤキながら、洗面台で髪を濡らし始めた。
月草は髪をブラシでとかして、洗面所を出た。その後、机の脇のオープンクローゼットの前で、立ち尽くしてしまう。ハンガーが並んでかかっている。制服、訓練着、それから別の制服みたいなの。畳まれた下着類は引き出しの方。月草は、その前に立ったまま、ぼんやり考え込んでしまった。
今日は何を着ればいいんだろう、と思った。
ここに来る前は、毎日大人が着る服を出してくれていた。でもここでは自分で着なければいけないんだ、と気がついた。
「あ、ツキ、今日は制服だよー」
クローゼットの前で、まごまごしていると鶸が横から声をかける。
月草は振り向いた。鶸が自分の髪をゴシゴシ拭きながら、洗面所から出て来た。
「座学の日は制服を着るんだよ」
「……うん、えっと」
「そっちじゃないよ、黒いのは『れいふく』てやつだから着る時は大人が教えてくれる。教室は寒いから、靴下は厚い方がいい」
「うん」
月草は、クローゼットから青っぽいグレーの制服を取った。ハンガーから外して、ベッドの上に置いた。グレーに南棟のえんじ色のラインのジャケット。ちょっぴりおとなっぽい。ズボンは膝より上はゆったりしていて、膝から下はぴったりしている。
それから引き出しを開けて、靴下を選んだ。厚い方。言われた通りに。寒いのは苦手だ。この長い靴下を、ズボンに重ねて履く。
そしてシャツに袖を通す。でもボタンがいっぱいあって留めるのがむずかしい。
「ツキ、おいで」
深緋が横から呼んだ。
トコトコと深緋の所へ行くと、上から一つずつボタンをはめてくれる。こないだ苦戦していたのを、見られていたのかもしれない。顔の前につやっとした濃い赤の頭があるとドキドキする。
全部下まではめ終わると「はい、できた」と深緋がそっと言う。
「あとは自分で着な?」
「……はい」
ちょっぴり恥ずかしかった。顔が赤くなっているのがわかる。
そそくさと自分のベッドの前に戻り、制服を身につける。鏡を確認して、襟がきれいに見えるように直した。深緋みたいに。
深緋は、机の上の教本をもう一度確認していた。自分の分と、たぶん鶸の分も。鶸は教本を床やベッドの下に置きっぱなしにしている、と月草は学んだ。深緋はそれをよく、机の上に出してやっている。
「ヒワ、これ」
「あー、ありがとー」
鶸は教本を受け取って、自分の鞄に詰めた。鞄のチャックは半分しか閉まらなかった。
「閉まらなくない?」
「大丈夫だって! いけるいける」
「閉まってないよ」
「うーん」
鶸は思い切り鞄を振った。中で何かがゴソゴソと鳴っている。
「ヒワ、それ昨日の間食の袋まだ入ってるんじゃない」
「えっ」
「ゴミ箱」
「あー」
鶸は鞄から、ぺしゃんこになった間食のパンの袋を取り出した。それをゴミ箱に放り込んだ。ゴミ箱の縁に当たって、一度跳ねてから入った。
「準備できたー?」
「うん」
「うん」
月草は言ってから、あわてて机の上に用意していた教本と筆記具を抱える。鶸がまた笑った。
「ツキ、スリッパから履き替えたね?」
「……ッはい」
深緋に優しく問われて、昨日の失敗を思い出して、月草はまた真っ赤になった。




