EX02話:当番待機(下)
待機室は、しんとしていた。
空気は乾きすぎず、湿りすぎず、ちょうどいい温度に保たれている。窓の外がどんな天気でも、ここの空気は変わらない。待機室の中はいつもと同じだった。壁の時計は秒針がなく、長針がじりじりと動いている。さっき見たときから五分くらいしか進んでいない。
紅唐は寝息を立てている。
常盤は本を開いている。
竜胆は天井パネルの継ぎ目に飽きて、立ち上がって窓の外を眺めた。
曇り空の下、木々の葉が黄色や赤に色づき始めている。もうそういう季節なのか、と竜胆は思う。施設の中では全くわからないけど、任務に出る時に『冬』だと寒いので、装備が重たくなるのは知っている。
奥の大人の声は、もう聞こえなくなっていた。北三班の受け入れ準備は終わったらしい。開いてある扉の向こうから、椅子の軋む音が聞こえる。
「常盤」
「うん」
「思い出したんだけど」
「うん」
「東八のときの三人目さ」
「うん」
常盤は本のページの上で指を止めた。視線は本のままだ。
竜胆はそれをちらっと見て、それから、紅唐が寝ている仮眠マットの上にあぐらをかいた。
「死んだわけじゃねえんだよ。そこは勘違いされやすいけど。ただ、会いに行けないってだけで」
常盤は小さく頷いた。
「へー」
「だろ。でもさ」
竜胆はそこで、にやりとした。嫌な予感のする笑い方だった。
「ホームにはいるぜ、あいつ」
常盤の頬杖が外れた。
「いるって、どこに」
「いるんだよ、普通に。前に会いに行った」
「は?」
「バチクソ怒られたけどな」
常盤は本に手を置いたまま、たっぷり三秒、竜胆を見ていた。
本の表紙には、しおりの紐が一本、テーブルの端から垂れていた。常盤はそれを指でつまんで、また本の中に挟み直した。
「お前さあ」
「うん」
「お前、本当にそういうとこあるよな」
「あるんだよ」
「ある」
常盤はため息をついた。深いため息ではない。だいたい竜胆相手のため息は、いつもこのくらいの長さに収まっている。紅唐が寝そべったまま、足をぴくっと動かした。寝言らしい一言を何か言いながら、また寝た。
竜胆は天井を見ながら、少しだけ笑った。
*
配置転換、というやつだった。
あれは、東八班が東三班になってしばらくしてからのことだった。
竜胆は中央棟の裏手に回る道を、こっそり探検していて覚えていた。いつもの好奇心だった。配置転換になったあいつが、どこかにいるはずだと思っていた。そして実際、いた。
生活管理部の制服を着ていた。名前も変わっていて、最初は誰だかわからなかった。向こうが先に気づいて、目を丸くして、それから真っ青になって、竜胆の腕を引いて柱の陰に押し込んだ。
「何しに来た」
怒っていた。声を殺して、必死に怒っていた。来ちゃダメだろ、と何度も言った。
「お前なに来てんの」
「いやちょっと」
「ちょっとじゃないだろ」
「うん」
「帰れ」
「うん」
「あと、その名前で呼ぶな」
すぐに大人が来て、竜胆は連れ戻された。帰り道、振り返ったら、向こうはもうこっちを見ていなかった。背を向けて、自分の仕事に戻っていた。それきりだった。
「その名前で呼ぶな」
その一言が一番、効いた。
竜胆はそれで、ああ、と思って、ちゃんと帰った。あとで紅唐にも報告して、紅唐は短く、ばかだなあ、と言った。それから二人とも、その日はちょっと黙っていた。
「――で、帰ってきたら、こっちの大人にもう一回怒られた」
「ええ……」
常盤は久しぶりにここまでドン引きした、という顔をしている。
紅唐が、寝そべったまま目を開けて言った。寝てなかったのか、今起きたのか、よくわからない。
「リンドウ、なんか勝手に会いに行って死ぬほど怒られてた」
「そりゃそうだろ」
「そりゃそうなんだよ」
「で、紅唐は」
「オレ、置いてかれてた」紅唐が口をとがらせている。
「お前も連れて行こうとしたぞ」
紅唐はゴロリと竜胆の方を向いた。
「途中で巻かれた」
「巻いてねえよ」
「巻いた」
「巻いてない」
「巻いたんだよ」
紅唐はそれだけ言って、また目を閉じた。
竜胆は反論をやめた。
常盤はちょっと笑って、それから、笑いをおさめた。
本のしおりの端を、指先で軽くなぞった。
「向こうは元気だった?」
「元気だった」
「ならよかった」
「うん」
「うん」
それだけだった。
常盤はそれ以上聞かなかったし、竜胆もそれ以上は話さなかった。会いに行ったときの相手の顔とか、声とか、そういうのは、待機室で話すような話ではない。
窓の外で、風が出てきていた。葉が一枚、ガラスにぶつかる音がした。秋の音だった。
待機室の中は、いつでも暑くも寒くもない。
「大人になると名前、変わるんだよなあ」
竜胆がぽつりと言った。
「変わるね」
「あれ、最初聞いたとき、びっくりしたぞ」
「俺もびっくりした」
「お前もか」
「うん」
常盤は本のうえに頬杖をついた。
壁の時計の長針が、また一目盛り動いた。さっきから、ずっと、同じ速度で動いている。当たり前なのに、見ていると、たまにすごく遅く感じる。
廊下のほうから誰かが通る足音がした。重たい靴の音だった。足音は待機室の前で止まらず、そのまま向こうへ抜けていった。
*
「南一はさあ」
しばらくして、竜胆が言った。
話題の変わり方がいつも雑だ。
「南一?」
「南一班」
「うん」
「仲よかったな、あそこ」
「よかった。べったりだった。見てて、ちょっと羨ましかったよ」
「羨ましいか?」
「だってオレら、こんなだぜ」竜胆は寝ている紅唐を指した。
「会話成立しねえもん」
紅唐は寝たまま、足で竜胆を蹴った。聞いていたらしい。
「成立してんじゃねえか」常盤が笑った。
「これを成立って言うかどうかだな」
竜胆は蹴られた足を払いのけて、また話を戻した。
紅唐の足は、払いのけられた位置からほとんど動かず、竜胆の脛のあたりにくっついたままだった。竜胆もそれを蹴り返すわけではなく、ただ脚を寄せて、紅唐の足をそのへんに置いておいた。
「でもさ、南一、強かったよな。あの三人、独特の強さだった」
「独特?」
「なんていうか、息が合ってた。役割も、誰も何も言わなくてもその場で噛み合ってさ」
常盤は手に持ったしおりの紐を弄びながら聞いていた。南一班が現場で動いているのを、何度か遠目に見たことはある。たしかに、よく回る班だった。
「三人で噛み合うと、見たことない動きしてたんだよ。一人ずつだと普通なのに」
「今はどう」常盤が聞いた。
「青藍、配置転換になったんだろ」
「らしいな」
竜胆は紅唐の斜向かいに寝転がった。
マットのクッションが、軋んだ。竜胆は片手を額にのせて、目の上にちょうど影を作った。蛍光灯はちょっと眩しい。待機室の蛍光灯は、いつも、ちょっと眩しい。
「青藍が抜けて、どうなんだろうな」
「うん」
「ああいうの、たぶん、噛み合い方が変わるから」
「変わるね」
「変わるよなあ」
「新しい子が補充で入ったけど、あの二人と組むのは……」
「俺なら嫌だな、二人が強すぎる」常盤が顔をしかめた。
「わかる」
竜胆はそれだけ言って、しばらく黙った。
しばらく黙ってから、「まあ、大丈夫だろ」と言った。
「大丈夫?」
「あいつら、もともとちゃんとしてるし」
「ちゃんとしてるかな」
「コキアがちゃんとしてる」
「コキアだけだろ」
「コキアだけだよ」
「それで大丈夫?」
「だから大丈夫なんだよ。一人ちゃんとしてれば、班は回る」
常盤はちょっと笑った。
「説得力あるな」
「東二班見て言ってんの?」
「言ってる」
「うん」
紅唐は自分の毛布を引っぱった。毛布は紅唐の肩のあたりにくしゃっと寄っていて、ちゃんと胸までかかっていない。紅唐は寝るのは上手いが、毛布をかけるのは下手だった。昔から下手だった。
奥の大人の声が、また少し聞こえた。今度は北三班ではなくて、なにか別の班の話らしかった。竜胆はもう聞き取ろうとしなかった。聞き取っても、たぶん今日の東二班には関係がない。
窓の外で、また葉の音がした。風が、少しずつ強くなっているらしかった。待機室の中は、何事もなく静かで、いつもの当番待機だった。
常盤がついに本を諦めて伸びをした。
ドサッとソファーに飛び込むと丸くなる。ちょっとだけ狭いそこが常盤のお気に入りだ。
「常盤」
「うん」
「ヒマだなー」
「またそれかよ」
「ヒマだから」
「ヒマだね」
常盤は毛布にくるまってモソモソ返事をする。
紅唐はちゃんと寝た。
竜胆は、天井を眺めている。
天井パネルの継ぎ目は、やっぱり、前に数えたときと同じ数だった。あたりまえだ。
壁の時計の長針は、また一目盛り進んでいた。
ふと、東八班のもう一人の顔をちょっと思い出した。
今もたぶん、別の名前で、別の場所にいる。
同じ建物のどこかにいる。
会えないけれど。
*
「腹減った」竜胆が言った。
「まだ昼飯から二時間だぞ」常盤が呆れた。
「もうそんなか。もっと経った気がした」
竜胆は寝ている紅唐の毛布を、ちゃんと引っぱってやった。紅唐は何も言わず、ただ毛布の中で丸くなった。
そして竜胆も大きく欠伸をして、目を閉じた。眠ってしまえば、時間は早く過ぎる。紅唐がいい例だ。
待機室は、いつも通り暇だった。
(了)
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