EX01話:近道(下)
施設に戻ってすぐに南一班の部屋から名前のプレートを外していた織部が、泣いていたのを知っている。その日私はたまたま通りかかってしまって、慌てて曲がり角で身を隠して震えていた。大人が泣いているのを見たのは、あれが初めてだったかもしれない。織部はいつも淡々としていて、どんなときも事務的で、だからこそ、その背中が小さく見えた。
深緋は、泣かなかった。
少なくとも、みんなのいる場所では。
ただ、また笑わなくなっただけだ。
覚えたばかりの笑い方を、また見なくなった。せっかく上手になりかけていたのに、と思ったが、それを言える立場でもなかった。
私はもう、こちら側に来ることが分かり始めていた。子どもの輪の外に出る準備を、始めていた頃だった。
*
だから今日、銀鼠としてばったり出会ってしまった時、私は一瞬油断していた。
車両部の打ち合わせがあって、書類を脇に挟んで、少し急いでいた。底の硬い靴は、南棟の柔らかい靴と違って、廊下で音を立てる。最初の頃はその音が気になって仕方なかったが、最近は気にならなくなってきた。慣れというのは、こちら側に来てからの方が早い気がする。
外側通路の角を曲がろうとして、子どもの声がした。
大人になる時、私たちは誓わされる。
子ども時代を共に過ごした子どもとは、絶対に顔を合わせてはならない、と。理由はいくつも説明されたし、納得もしている。こちら側の世界と、あちら側の世界。線を引くことが、お互いのためなのだと。
頭では分かっている。
「あ」
短い声だった。
私は立ち止まらないようにした。立ち止まらないように、というのは、こちら側の作法の中で一番難しいことだ。気配を察しても、振り向かない。声をかけられても、業務の顔のままでいる。そう教わっている。
それでも、すれ違いざまにあの声を聞いたとき、足が一瞬だけ止まってしまった。
「……あ」
「ムラサキ!」
鶸の、まっすぐな声だった。
振り返ってはいけなかった。分かっていたのに、ほんの一瞬だった。油断したことを、気づかれただろうか。
そっと振り返ってしまった。
三人いた。
真ん中に深緋がいた。その隣に青藍と鶸がいた。
青藍は相変わらずしゃんとしていて、鶸は昔と同じ声で私を呼んでいた。
深緋は、私を見ていた。
そして、気まずそうな顔をしていた。悪さを見つかった顔だった。
外側通路は、子どもが通っていい道ではない。近道なのだが、規則上は禁止されている。たいした規則ではないが、規則は規則だ。深緋は、それを承知で通っていた。隣の二人と一緒に。
私はその表情を、しばらく見ていた気がする。実際には一瞬だったはずだ。
深緋は、私を見た瞬間、「見つかった」という顔をした。
そして、見つかった相手が私であることに、肩をすくめながらもほんの少しだけ、安心しているようにも見えた。あれは私の願望かもしれない。
胸元の名札に、相手の目が落ちるのが分かった。
白い縁の、薄い色の名札。
「銀鼠」と、声には出さずに、深緋が字面を読んだのが分かった。少しだけ目を見はっていた。それから、ゆっくりと、その目が伏せられた。
私は短く、大人の会釈をした。立ち止まらずに、廊下の角を早足で曲がった。角を曲がるまで、振り向かなかった。
角の向こうから、別の大人が私を呼んだ。
「銀鼠」
「あ、はい」
声はちゃんと、仕事をする時の声だった。我ながら、ちゃんと大人の声が出てよかったと思った。
*
席に戻ってから、しばらく仕事が手につかなかった。
昔の深緋の顔を思い出していた。そして今日の深緋の顔を、もう一度頭の中で再生していた。
あの子は、悪さを見つかった顔をしていた。
外側通路を、隣の二人と通っていた。
あの、張り詰めていた深緋が。
大人の言うことをきちんと守っていた深緋が。
近道をしていた。
しかも一人ではなく、鶸と青藍と一緒だった。
私を見た瞬間、少しだけ気まずそうな顔をした。
ああ、と思った。
その顔を見られただけで、私は十分だった。
もう、私は紫ではない。
書類上は、そうなっている。
でも、私は琥珀を覚えている。あのくしゃくしゃの笑い方も、廊下のあちこちから飛んできた「コハクー」の声も。
千草を覚えている。困ったように笑いながら、琥珀を追いかけていた背中も。
深緋を覚えている。張り詰めた目も、不器用な笑い方も、それをしまった日のことも。
杏に呆れられた日のことも、ぜんぶ。
ただ、名前が銀鼠に変わって、制服と靴が変わって、声と体が大人になっただけだ。
もう、琥珀の話をする子はいない。
あの子たちのことを覚えている子も、そろそろ南棟にはいなくなっているだろう。
きっと、いつか、私の話をする子もいなくなる。
でも深緋が、近道をしている。
怒られそうになって、肩をすくめている。
誰かと一緒に。
それだけで、充分だった。
(了)
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