第24話:紙の音(下)
夕食も、いつも通りだった。
部屋へ戻ってくる頃には、外はもう真っ暗だった。
深緋は、自然に青藍の机の側へ行った。青藍は、椅子に座って、ノートを開いていた。深緋は、その横の床に座った。膝を抱えて、青藍の椅子の脚に、軽く背中をもたせかけた。
青藍は、何も言わなかった。ノートのページをめくる音だけがしていた。
深緋は、しばらくそうしていた。
以前なら、こうやって青藍の側に座ることは、たぶんしなかった。鶸がやっていたことだった。今は、自然にできる。
「セイラン」
「ん」
「本、減ってるんだね」
「……ああ」
「持っていけないやつ?」
「うん。資料室のは返す」
青藍の声は、普通だった。
深緋も、普通に頷いた。
ノートのページが、また一枚めくられた。
深緋は、青藍の手元を、横から見ていた。きれいな字だった。鶸は、いつも青藍の字を「読めるけど読みづらい」と言っていた。深緋は、そう思ったことはなかった。
青藍が、ふっと笑ったような声がした。
深緋は、顔を上げた。
「なに」
「いや」
「なんで笑ったの」
「ヒワが、これ読めないって言ってたなって」
「……ぼくは読めるよ」
「知ってる」
それだけだった。
深緋は、また青藍の椅子の脚に背中を寄せた。
*
手元灯だけが、ついていた。部屋の他の灯りは、もう消していた。
青藍が机に向かっているあいだ、深緋は床に座ったまま、半分眠っていた。うつらうつらと目を閉じていた。
青藍の手の動きは、もうほとんど止まっていた。
「コキア」
「ん」
「ベッド行け」
「うん」
深緋は答えたが、立たなかった。
青藍も、それ以上は言わなかった。
しばらくして、青藍はノートを閉じた。手元灯の角度を少し変えて、自分の手元から、深緋の方に光が少しだけ届くようにした。
眠って見えていた深緋が、そっと口を開く。
「セイラン」
「ん」
「明日、何時?」
「朝」
「……そう」
「うん」
深緋は、それ以上聞かない。
青藍も、それ以上は言わない。
長い沈黙があった。沈黙は苦しくなかった。鶸がいないあいだ、二人でいる沈黙は、ずっとこういう形だった。
青藍が、ふと小さな声で言った。
「俺は、作戦司令部で二人を守るから」
手元灯の光が、机の端で、わずかに揺れた。
深緋は、目を開けた。
青藍は、机の方を向いたままだった。深緋の方を見ていなかった。たぶん自分でも、言うつもりではなかった。言ってから、青藍が「あ」と、口の中で言ったのが、深緋には聞こえた。
深緋は、すぐには答えなかった。
答えなかったのは、言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかったからではなかった。
配置転換、と昨日の大人は言っていた。移行教育班、とも言っていた。作戦司令部とは、誰も言っていなかった。
深緋は、青藍の椅子の脚に肩を寄せたまま、そっと笑った。
小さい声で、言った。
「……それ、ほんとは言っちゃだめなやつでしょ」
青藍は、すぐには答えなかった。
手元灯の光の中で、青藍の手が、ノートの表紙の上に一度だけ軽く置かれた。
「……まあ、そうなんだけど」
「今は、聞かなかったことにしとく」
「うん」
それだけだった。
深緋は、それ以上は黙っていた。わかっている、と共有したかった。
手元灯の小さな光の輪の中で、二人は、しばらくそのままでいた。
鶸のベッドの上の、畳まれた上着は、光の届かないところで、影になっていた。
青藍が、手元灯を消した。部屋が暗くなる。
深緋はそれでも、すぐにはベッドに戻らなかった。
青藍は、ため息混じりに椅子から立ち上がった。
「コキア」
「……ん」
半分眠っている返事だった。
「そこで寝るな」
深緋は、目を閉じたまま、小さく「うん」と言っただけだった。動く気配はなかった。
青藍は、苦笑しながら深緋の腕を軽く引く。
「ほら」
深緋は抵抗しなかった。眠ったまま、青藍に身体を預けるみたいに立ち上がった。
青藍は、そのまま深緋をベッドへ連れて行き、毛布をかけた。
「……おやすみ」
「ん……」
深緋は、もうほとんど眠っていた。
青藍は、しばらくそのまま深緋を見ていた。
それから静かに離れて、自分のベッドへ戻った。
*
目を覚ましたとき、部屋はまだ薄暗かった。窓の外は、夜と朝のあいだみたいな色をしていた。
机の方で、小さな音がした。
青藍が、最後の紙束を鞄へ入れていた。
制服はもう整っていた。机の上は、昨日よりさらに何もなくなっていた。深緋は、ベッドに座ってそれをぼんやり見ていた。
部屋の中は、静かだった。
鶸のベッドも、静かなままだった。
少しして、ドアが軽く叩かれた。
「青藍」
織部の声だった。
「はい」
青藍は、短く返事をした。
深緋は、毛布を握ったまま俯いた。顔を上げられなかった。
青藍が鞄を持ち上げる音がした。ゆっくりした足音が、近くで止まった。
「コキア」
深緋は、返事ができなかった。
行くんだ、と思った。もう、わかっていた。ずっと前から、わかっていた。
それでも、喉が詰まって何も言えなかった。少し沈黙が流れた。
それから、青藍が静かな優しい声で言った。
「コキア、顔見せて」
深緋は、ゆっくり顔を上げた。
青藍はその顔を見て、困ったように笑った。
それから深緋の髪を、くしゃっと撫でた。
大きい手だった。ずっと知っている手だった。
「……じゃあな」
深緋は頷こうとして、うまくできなかった。
青藍は、それ以上何も言わなかった。
ドアが開いて閉まった。織部と青藍の足音が遠ざかる。
部屋は、静かだった。
深緋は、しばらく動けなかった。
俯いたまま、毛布を握っていた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていった。
青藍の机は、もうほとんど空だった。
鶸のベッドの上には、畳まれた上着だけが、まだ残っていた。
(了)
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