第24話:紙の音(上)
翌朝、深緋が目を覚ましたとき、青藍はもう起きていた。
机に向かって、本の背を一冊ずつ確認していた。手元灯はつけていなかった。窓のカーテンを半分だけ開けて、その薄い光で手を動かしていた。
深緋は、しばらく毛布の中から、それを見ていた。
青藍は、深緋が起きたのに気づいているはずだったが、振り返らなかった。本を一冊抜いて、机の端に重ねた。それから、また次の一冊を抜いた。
「セイラン」
「ん」
「おはよ」
「おはよう」
青藍の声は、いつもの声だった。
深緋は、毛布を払って起き上がった。腕の内側が、少しだけまだ熱を持っていた。昨日、医療部で塗ってもらった軟膏の匂いが、まだ少し残っていた。肩の引き攣れた痛みが少しぶり返していた。
鶸のベッドは、空のままだった。
昨日の朝、鶸が蹴った形のまま、めくれていた毛布だけは、青藍が直していた。きちんと整えられた毛布の上に、畳まれた上着が、まだ置かれていた。
深緋は、無意識に目を逸らした。
「朝ごはん、いこ」
「うん」
二人で着替えて、部屋を出た。
廊下は、いつもの廊下だった。
*
食堂は、いつもの通りだった。
子どもたちが、いつもの席にいた。他の班の声が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。それは、たぶん他の班のせいではなかった。深緋たちの席の方が、静かになっていたからだった。
深緋は、青藍の隣に座った。普段、青藍の向かいに座っていた鶸の席は、空いていた。深緋は、自然に青藍の隣を選んだ。向かいには座らなかった。
青藍は、何も言わなかった。
食事は温かかった。
パンと、卵と、薄く切られた果物。今日は鶸が好きなイチゴジャムだった。二人とも取らなかった。
深緋は、卵をすくいながらパンを食べた。青藍も、ゆっくり食べていた。こんな時でも、食事はおいしいんだなと深緋は思った。
遠くの席で、織部が、別の班の子に話しかけているのが見えた。一度、こちらに視線が流れた。深緋と目が合った。織部は、軽く微笑んだ。それから、また別の方を向いた。
それだけだった。
誰も、鶸のことを聞かなかった。
大人たちも、必要以上には近づいてこなかった。空気は、いつもの食堂の空気だった。
ただ、深緋は、自分の食器の音が、いつもより大きく聞こえる気がした。
食堂を出るとき、青藍が、イチゴジャムのバスケットを眺めていた。
深緋は、それを見ていた。何も言わなかった。
*
午前は座学だった。
通信文の実習だった。担当の月白は、いつも通り厳しかった。課題の量も、いつもと同じだった。
深緋は、ノートを開いて、書き取っていた。隣の席は、本来は鶸の席だった。今日は空いていた。誰も座らせなかった。
先生達は、そのことに触れなかった。出席を取るとき、鶸の名前のところで、ほんの一瞬だけ手が止まった。それから、何事もなかったように、次の名前を呼んだ。
青藍は、深緋の前の席にいた。背中が、いつもより少しだけ静かに見えた。
鉛筆の音だけが、教室の中を流れていた。
略式規則は、頭に入っていなかった。
*
午後は訓練だった。
地下訓練場までの廊下。施設の中で、一番、空がまっすぐ見える区画だった。
今日は曇っていた。
青藍は、いつも通りに参加していた。普通に整列して、普通に指示を受けて、普通に動いた。出力は、控えめだった。控えめなのは、いつものことだった。最近の青藍は、もう本気で能力を使う場面が減っていた。
訓練担当の朽葉は、青藍に何も言わなかった。
深緋は、自分の番になって、的に向かった。
まだ見学でと言われていたが、ちょっとだけ、と参加していた。まだうまく腕が上がらず、精度は最悪だった。
戻ってきたとき、青藍が列の端で深緋を待っていた。
「コキア、怪我治ってないだろ」
「平気」
「無茶すんなよ」
「うん」
それだけ言って苦笑した。
*
部屋に戻ったのは、夕方だった。
ドアを開けると、青藍の机の上と棚が、朝より少しだけ片付いていた。深緋は、それに気づいた。
青藍の本が、また少し減っていた。机の右側、いつも一番分厚い本が積まれていた場所に、今日は何もなかった。床の隅に、紙の束が、紐でまとめて置いてあった。
深緋は、それを見なかったふりをした。
青藍も、何も言わなかった。
夕食までの時間、青藍はずっと机に向かっていた。引き出しを開けて、中のものを一つずつ確認していた。要るものと、要らないものを、分けるようだった。
紙が一枚、机の角からすべり落ちた。
青藍は、それを拾って、束の上に戻した。
紙の音は、小さかった。
深緋は、自分のベッドに腰掛けて、足元を見ていた。
部屋の中で、青藍の手の動く音だけが、続いていた。引き出しが閉まる音。本の背がぶつかる音。紙を揃える音。
全部、小さい音だった。
一度、青藍の手が止まった。
深緋は、顔を上げなかった。けれど、視線の端で、青藍が鶸のベッドの方を見ているのがわかった。畳まれた上着は、まだそこにあった。
しばらくして、青藍は、また手を動かし始める。
また、引き出しが閉まる音がした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。
毎日お昼12時過ぎに最新話を更新しています。




