第23話:抑制フレーム(上)
朝食のあと、織部が部屋まで来た。
ノックは二回だった。深緋はその回数だけで、いつもと違うと気づいた。鶸はまだベッドの上でひっくり返って、だらだらと靴下を履きかけていた。青藍は、身支度が終わった所だった。
「おはようございます」
「はい」
「みなさんにお話があります」
織部の声は、いつもの織部の声だった。優しく穏やかだ。
ただ、織部は一人ではなかった。後ろにもう二人いた。一人は、医療フロアで何度か見かけた女性の職員だった。もう一人は、深緋が見たことのない男性だった。上着の色が、普段目にする大人とは違った。
「えっ、なに?」
「鶸、座りましょうか」
織部がにこやかに促した。少しいつもと目が違った。
「はーい……」
鶸は、まだ片足が裸足のまま、ペタペタと歩いて椅子に座った。青藍は、自分の机の前の椅子を引いた。座る前に、一度だけ深緋を見た。深緋はそのままベッドに腰掛けていた。
大人が三人入ると、部屋は急に狭くなったが、大人たちは立ったまま入口にいた。
男性が、薄い書類を一枚、丸テーブルに置いた。
「青藍は明後日から、移行教育班での運用準備に入ることになります」
声は静かだった。深緋は、俯いて床の模様を見ていた。
鶸は顔を上げて、大人の顔を変わるがわる見ている。
「配置転換は、昨日確認した通りになります。今日はその通達になります」
「……はい」
青藍の返事は、短かった。短すぎた。
深緋は、それをじっと聞いていた。
「セイラン?」
鶸が言った。
青藍は、すぐには鶸の方を見なかった。
「セイラン、これなに?」
「……ヒワ」
「これなに」
「……」
「ねえ!」
鶸の声が、少し高くなった。男性が、鶸を注意深く見ている。
「鶸」
「はい」
「青藍は、これからは今までとは、別の役割に就くことになります」
「……」
「明後日にここから移動します」
鶸は、男性の顔を見ていた。男性の顔は優しく、そして断固としていた。
「……なんで」
「鶸」
「なんで?」
「大人達で相談して、決まったことなんです」
「でもセイランは、ずっと南一だったじゃん」
鶸の声は、大きくはなかった。ただ、語尾が少し震えて歪みを帯びていた。部屋の空気が変わって、耳を塞がれたような感覚になる。
医療スタッフは、わずかに姿勢を変えた。深緋は、それに気づいた。
「ヒワ、やめろ」
青藍が呼んだ。
鶸は青藍を見た。
「ねえ、なんで」
「……」
「セイランは、ボクたちのだよ!」
鶸は、強く言う。テーブルの上に両手を置き、身を乗り出して大人たちに言い寄る。それは子どもの言い方だった。いつもの鶸の譲らない言い方だった。部屋の空気がぐらりと揺れた。
青藍は、口を開いたが、すぐには言葉が出なかった。
「ヒワ」
「……」
「な、ちゃんと聞いて」
「やだ」
「ヒワ」
「やだ。ボクはやだよ」
鶸の目が、少し潤んでいた。怒っているだけではなかった。
男性は、鶸の反応にも落ち着いている。
慣れているのだ、と深緋は思った。こういう場面を、何度も見て来ているのだ。
鶸は助けを求めるように、深緋を見る。
「ねえ、コキア」
深緋はすぐに鶸を見られなかった。一瞬遅れて鶸の目を見た。鶸の目はまっすぐだった。
鶸の表情が、少しだけ変わった。
「……コキア」
「……」
「もしかしてコキア、知ってたの?」
深緋は、目を逸らさなかった。逸らせなかった。目を逸らしたら、二度と鶸の目を見られないと思った。
口を開いた。何か言おうとして、何も言えなかった。きっとそれが、答えになってしまっていた。
掠れた声で答える。
「……気づいてた、ごめん」
深緋には、それしか言えるものがなかった。
「そう……」
鶸は、しばらく動かなかった。
目だけが、ゆっくり一度、瞬きをした。
鶸は、青藍を見た。
「セイラン」
「ん」
「セイランはコキアだけに話してたの?」
「……」
「ボク、知らなかったの、ボクだけ?」
「ヒワ、違う」
「ちがわない」
鶸の声が、初めて少し大きくなった。テーブルの上に置いていた手が、震えはじめていた。
深緋は、部屋の空気が、もう一度変わったのを感じた。医療スタッフが、小さく「あ」と言ったのが聞こえた。
男性が丸テーブルに置いた、一枚の薄い紙、わずかに浮いていた。鶸の力が漏れ出している。
施設の全ての窓は、開かない。風があるはずがなかった。
「ヒワ?」
青藍が椅子から立った。
「ヒワ、こっち見ろ」
「ねえ、やめて」
鶸が大人たちを変わるがわる見る。
「ヒワ」
「お願い、セイランを連れてかないで」
「ヒワ、俺の方、見て」
「……ねえ、お願い」
鶸は、顔を伏せた。
伏せた顔の前髪が、ふわりと一度、内側から押されたように揺れて広がっていた。
風はなかった。
医療スタッフが、織部に短く目配せをした。織部が、低い声で「鶸、座って」と言った。
だが鶸は、もう聞いていなかった。
*
鶸の肩が、揺れた。息を詰まらせながら、抑えきれないものが漏れ出していた。
全力疾走しているように、呼吸が荒くなっている。鶸は、自分の胸元を掴んでいた。
鶸は、「うう…」と声を漏らしながら椅子の上で身体を縮めた。両手で、胸元を掴んでいた。指の関節が、白くなっていた。
「ヒワ」
青藍は、鶸の椅子の前にしゃがんで、鶸の顔の高さに合わせた。
「ヒワ!」
「……っ」
「俺、ここにいるぞ」
「連れてかないで……!」
机の上の紙が、ふわりと机から数センチ浮いた。それから、また落ちた。今度はもう少し高く浮いた。
ばん、と音がした。後ろの椅子が吹き飛ぶ。
「おねがい……っ」
前髪が、また内側から押された。今度は、髪の先まで、ふわりと持ち上がった。鶸の指先のあたりに、薄く光のようなものが滲みはじめ、どんどん光の幅が広がっている。
棚が、もう一度軋んで、ついに倒れた。
紙が、一斉に舞い上がった。
「皆さん、部屋の外へ! 早く!」
医療スタッフが、初めて怒鳴った。
「織部さん、ドアから出て!」
「はい」
「青藍も下がって!」
「待ってください!」
青藍は下がらなかった。
「ヒワ! 戻ってこい!」
空気が唸っていた。窓が軋む。光が、弾けた。
深緋は、自分の耳の奥が痛くなっていくのを感じた。
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