第22話:いつもの夜(上)
朝、目を覚ますと、青藍の机はもう片づいていた。
ベッドの上に上着が畳んで置かれていて、制服に着替えた青藍が、洗面所の方から戻ってくるところだった。髪はまだ少し濡れていた。
「コキア、起きたか」
「うん」
「熱は?」
「下がった」
「よかった」
短いやりとりだった。青藍は、深緋の額に一度だけ手の甲を当てて、それから、自分の机の上の薄い書類を二つ折りにして、上着の内側に入れた。
深緋は、それを見ていた。
鶸はまだ寝ていた。毛布から、片足だけ出ている。昨日の夜と、まったく同じ格好だった。寝相だけは、いつも本当に変わらなかった。
「セイラン」
深緋が呼んだ。
青藍は、上着のボタンを留める途中で振り向いた。
「ん」
「もう行くの? 今日の訓練は?」
「俺は、午前は出られない」
「……うん」
「新しい障壁の数値取りに行ってくる」
「……うん」
深緋は、それ以上は聞かなかった。
青藍は、もう一度だけ深緋を見て、それから、鶸の方を見た。
「ヒワ、起こしておいてくれるか」
「うん」
「行ってくる」
青藍は、ドアを開けた。廊下の朝の光が、一瞬だけ部屋に差し込んで、すぐに閉じた。
深緋は、しばらくドアを見ていた。
それから、自分のベッドから下りた。傷はまだ少し引き攣ったが、昨日よりは軽かった。来週には抜糸するらしい。
鶸の枕元に座って、肩を揺すった。
「ヒワ」
「……んー」
「朝」
「……んー」
「朝」
「……あと、いっかい」
「もういっこもない」
「えー」
毛布の中で、鶸が顔だけこちらに向けた。寝起きの目はまだ半分しか開いていない。
「セイランは」
「もう出た」
「えっ」
「今日は新しい壁の数値取りだって」
「えー」
鶸は、それきり興味をなくしたみたいに、もう一度毛布の中に潜り込もうとした。深緋は、毛布の端を引いた。
「起きろよ」
「コキア、ちょっとやさしくない?」
「熱下がったし」
「えっ、もう?」
「もう」
「うへへへー」
鶸は、ぱっと起き上がった。頭は鶸らしく、爆発した寝癖だらけだった。
*
食堂は、いつもより少し空いていた。
南六班のテーブルでは、桔梗がからかわれていた。それに怒ってみせているのを二人が笑っていた。配膳の列に並ぶと、いつもの配膳の人が「南一班は二人?」と聞いた。
「セイランは数値計測」
「ああ、そう」
大人はそれだけ言って、トレーの上にパンを二つ置いた。鶸の分には、果物が一つ多く乗っていた。鶸は気づいて「やった」と小さく言った。大人はみんな鶸に甘い。
席につくと、鶸はすぐにパンに手を伸ばし、イチゴジャムのフタをべりべりと剥がした。
「コキアも、これ食べる?」
「いい」
「ジャム」
「いらない」
「あまくてーおいしいよ」
「いらない、自分のあるし」
「えー」
鶸は不満そうにジャムのパックを引き寄せて、パンに全部塗った。塗りすぎだった。
深緋は、それを見ていた。
昨日の夜、自分が泣いていた間も、鶸はずっと寝ていた。毛布を蹴って、片足だけ出して、寝ていた。
今も、ジャムを塗りすぎて、満足そうにしている。
深緋は、自分のパンを少しちぎって、口に入れた。あまり味がしなかった。
「コキア」
「ん」
「今日は、訓練だよね!」
「その予定だね」
「コキア怪我してるから、座学になったりとか……」
「かもね」
「えー、やだなあ」
「……」
「ねえコキアー聞いてる?」
「聞いてる」
鶸は唇を尖らせて、果物に手を伸ばした。二口でなくなった。
*
予想どおり、午前の訓練は座学に振り替えられた。
深緋の傷の経過と、青藍の不在、それを踏まえての判断だと、織部はいつもの優しい声で説明した。
煤竹は歴史や地誌の分野の先生だった。
配られたのは、地形図の読み取りの応用編だった。等高線の間隔と、傾斜と、視認できる距離。鶸が一番退屈する種類だった。いつも感覚で把握できてしまう鶸にとっては、全く意味がわからない科目らしい。
「鶸、ノートも出してください」
「えー」
「鶸、起きててね」
「はあい」
鶸は、ぶつぶつ言いながら、椅子を引いた。座学は教室の椅子も机も、訓練場の床より硬かった。鶸は、ここでじっと座っていることが本当に苦手だった。
深緋は、もう何度もやった内容だったので、紙の真ん中から、指先でなぞって解いていた。
「鶸、ここの数字は?」
「……えーと」
「等高線の間隔」
「……十?」
「単位は?」
「メートル」
「そう、えらい」
煤竹は、それ以上は鶸を急かさなかった。鶸は鉛筆の先を、紙にぐりぐり押し付けていた。深緋は、自分の分の問題へ答えを書いた。そしてぼんやりと窓の外を見ていた。
窓からは、地下訓練場のスリット窓が隙間から見えていた。上をそっと見上げると、医療フロアも見える。青藍はそのどこかにいるはずだった。
深緋は、分かりきった問題にゆっくりと答えを書いていった。
等高線の問題は、簡単だった。
「コキア、次のページ進めてね」
「うん」
煤竹の声で、深緋はページをめくった。鶸は、まだ一問目で止まって靴を脱いでぶらぶらさせていた。
*
昼前に、青藍が戻ってきた。
座学の教室のドアが開いて、青藍は煤竹に短く頭を下げて、それから、深緋と鶸の側のテーブルに来た。鶸が顔を上げた。
「セイランー!」
「ただいま」
「おそい」
「ん、ごめん」
「もう! セイランのせいで座学なんだけど!」
「うん、聞いた」
「つまんない」
「お疲れさん」
青藍は、鶸の頭を、わしゃわしゃっと撫でた。鶸は「うわっ」と一度言って、それから笑った。鶸の髪は寝癖が完全には直っていなくて、青藍の手で、もっと乱れた。
深緋は、じっと見ていた。
青藍の手の動きが、いつもより少しだけ長かった。撫でて、離さずにもう一度撫でた。鶸は気づかなかった。鶸は、ただ面白がって撫でられていた。
「コキアは?」
「ん」
「熱上がってないか?」
「うん、平気」
「そう」
青藍は深緋の方には、手を伸ばさなかった。代わりに、深緋の解いていたプリントをチェックして「よしよし」と満足そうに笑った。
煤竹が「青藍はこっちの課題にしようか」と言った。青藍は「はい」と答えて、自分の椅子を引いた。
午後の座学は、三人で受けた。
いつもどおりだった。
鶸は途中で「わかんないー」と机に突っ伏して、そのままうとうとし始めた。鉛筆を持ったまま、紙の端にぐにゃぐにゃした線だけが増えていく。
「ヒワ」
青藍が、小さい声で呼んだ。返事はなかった。
煤竹がちらっとこちらを見て「また寝ちゃったの?」と苦笑している。
青藍は、後ろから鶸の背中を軽くぽんぽんと叩いた。
「寝るなって」
「……おきてるー……」
鶸は顔も上げないまま言った。完全に寝ぼけた声だった。
青藍は鶸の鉛筆を取り上げる。
「起きてるやつは、そんな模様を書かない」
鶸の紙の端には、意味のない渦みたいな線が何本も重なっていた。鶸は「んー」とだけ返事をして、ようやく少し顔を上げた。
青藍が、また一度だけ鶸の背中をぽんぽんと叩く。
「ほら、あと少し」
「セイランがやってー……」
「自分でやれ」
そう言いながら、青藍は鶸のプリントを半分くらい自分の方へ寄せていた。
深緋は、それを見ていた。なんだかおかしくて笑った。
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