第21話:手元灯の光(下)
「おい!」
あわてて青藍が立ち上がった。
棟の廊下は誰もいない。すぐに背後のドアが開いた。
「コキア」
「……」
「どうした?」
「……別に」
「まだしんどいだろ」
「平気」
「コキア、待てって」
歩きかけた深緋を止めて、青藍は深緋の少し後ろで待っていた。距離を詰めずに、ただ立っている。深緋は廊下の先を向いたままだった。
窓には、自分の顔と、後ろの青藍の輪郭が、薄く映っていた。いつの間にか、自分よりずっと目線が高くなっているのがわかった。
深緋は息を吸った。
「……優しくすんな」
「え?」
青藍の声が、少し遅れて返ってきた。
深緋は、振り向かなかった。
「今まで作戦立てながら、守ってて楽しかったかよ!」
少しだけ声が大きくなった。こんなこと言いたいわけじゃないと、深緋はもどかしくて歯軋りする。青藍は黙った。
「コキア、何言って」
「……知らないと思ってた?」
「……」
「ぼくはずっと見てたから知ってたよ? 準備してるって」
深緋は、振り向いた。
青藍は、口を開いたものの言葉がなかった。
「本も」
「地誌も」
「作戦も」
「もうずっと前から、準備してたくせに」
青藍は答えなかった。否定の言葉が出てこなかった。深緋は、青藍の落ち着いた顔を見ていた。落ち着いていることさえ、深緋には痛かった。
「……ぼくたちのために、セイランが準備してるって」
「……うん」
青藍は、それだけ言った。
深緋は、口の中で何かを言いかけて、やめた。一歩だけ動いて、廊下の手すりに手をかけた。そして手の力が抜けた。
「見てたんだ、ずっと」
深緋は、その場にしゃがみ込んだ。膝を抱えるでもなく、ただ、立っていられなくなったように床に座りこんだ。顔を伏せた。前髪が顔にかかった。
静かに、コキアが泣いていた。時折、喉の奥で息が小さく詰まる声がする。
窓の外で、風の音もしなかった。廊下に深緋の息だけが聞こえる。
「ぼくは、ほんとに南一が大好きだから……」
声は廊下の静けさに、今にも消えてしまいそうな呟きだった。
青藍は立ったまま、深緋を見下ろしていた。ようやく青藍の中で、何かが遅れて繋がっていった。数値のことでも、怪我のことでもなかった。深緋は、青藍が黙って準備していたことを、よく見ていた。いつも見ていた。
青藍は、ゆっくり息を吸って吐いた。
それから、深緋のそばにしゃがんだ。
「な、コキア」
深緋は顔を伏せたまま、小さく言葉を押し出した。
「……ごめん」
「なんで、謝るんだよ」
青藍の声は、いつもより小さかった。それ以上の説明も言葉もなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。深緋は顔を伏せたまま、ただ息を殺して泣いている。肩だけ時々小さく揺れた。青藍は隣に座っていた。近くもなく遠くもない、いつもの距離だ。
青藍が、ふっと息を吐いた。
「戻ろう」
深緋は、動けなかった。
青藍は先に立って、深緋を抱えて立たせた。いつの間にか、深緋より高くなった背だった。歩幅を自分に合わせてくれているのがわかる。前は、一緒の速さで歩いていたのに。
廊下の照明は、相変わらず足元を静かに照らしていた。
部屋のドアを開けると、鶸の寝息が、最初に聞こえた。
毛布を半分蹴り落として、片足だけ出して寝ている。鶸の机の上は少し散らかったまま、青藍の机には開きっぱなしの本が置かれている。明かりは机の手元灯だけが点いていた。
青藍は少し迷ってから、深緋のベッドに深緋と一緒に座った。
深緋の手は堪えるようにシーツの端を掴んだ。顔は俯いていた。前髪の奥で止まらないものがあった。ぽたぽたと落ちる涙は深緋の手を濡らしていった。
声は出していなかった。ただ、息だけが、時々短く詰まった。
青藍は、時々背中に手を置いた。さするとも言えないくらいの動きだった。手のひらを当てて、少し置いて、離す。それだけだった。
鶸が、寝返りを打った。毛布を更に蹴り落とした。寝言にもならない声を一度出して、それきりまた寝息に戻った。
青藍は毛布を拾いに立った。鶸の肩のあたりまで毛布を引き上げて、それからまた深緋のそばに戻った。もう一度同じ位置に座り直す。
深緋は、顔を上げなかった。
シーツを握る手の指の関節が、少し白くなっていた。
「……」
青藍は、何度か口を開きかけて、閉じた。
しばらくしてから、ようやく、低い声で言った。
「お前はずっと、ここにいるんだもんな」
深緋の肩が、一度だけ強く動いた。それから、また静かになった。
青藍は、深緋の方を見なかった。窓の外の暗闇をじっと見ていた。
手は、深緋の背中にあった。動かしてはいなかった。
「……ごめんな」
その声は、深緋の耳にだけ届く大きさだった。
深緋は、答えなかった。答えられなかった。ただ、シーツを握る手が、もう少しだけ強くなった。自分の手はまだ、青藍よりずっと小さいままだった。
*
鶸の寝息が続いていた。
規則正しく、上がって、下がって、また上がる。毛布の縁が、その動きに合わせて、わずかに揺れていた。机の上の手元灯の光は、机の半分だけを照らしていた。
深緋の引き出しは、閉じたまま。
青藍と深緋は、静かにベッドに座っていた。二人とも、言葉はなかった。
深緋の肩が震えなくなるまで、青藍は動かなかった。震えがおさまっても、すぐには動かなかった。
青藍は深緋が顔を上げるまで、ずっと待っている。
廊下で足音がする。
すぐに、聞こえなくなった。
鶸が、もう一度寝返りを打った。今度は青藍の方に顔を向けて、片手を毛布の外に出した。指先が、ベッドの縁から少しだけ落ちていた。鶸は起きなかった。
深緋は、それを見ていた。前髪の隙間から、ほんの少しだけ目を上げて、見ていた。
鶸の毛布の縁が、寝息に合わせて、また少し揺れた。
深緋は深く息をついて、顔を、ほんの少しだけ上げた。
部屋は、いつもの南一班だった。
毛布を蹴って寝ている鶸も、机の端の閉じた本も、手元灯の光が落ちていない方の暗がりも、全部、いつものままだった。
ただ自分の手が、シーツを握っていた。握ったまま、まだ離せていなかった。
青藍は、何も言わなかった。
深緋も、何も言わなかった。
手元灯の光が、机の上で、少しだけ揺れたように見えた。
たぶん、気のせいだった。
(了)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。
毎日お昼12時過ぎに最新話を更新しています。




