第19話:戻ったはずなのに(下)
午後は地下訓練場に集合した。
深緋は壁際の長椅子に座っていた。左腕は固定されたまま。膝の上には、水のボトルが置かれている。包帯の奥が、じくじくと熱を持っていた。今日は見学だ。
高い天井の白い照明が等間隔で並び、乾いた光を床へ落としていた。
中央では、青藍が訓練用マーカーを並べている。鶸は、その横で準備運動みたいに軽く飛び跳ねていた。
「コキア、痛い?」
鶸が聞いた。
「別に」
「ほんと?」
「平気」
答えながら、深緋は青藍を見ていた。
青藍は床へしゃがみ込み、マーカーの位置を少し直している。いつも、こういう細かい位置調整が青藍は正確だ。
訓練監督の朽葉が壁際から短く言った。
「始めるぞ」
鶸が地面を蹴る。そのまま身体が軽く浮き上がり、低い高度で旋回を始めた。床の上を流れる影に合わせるように、青藍が壁を立ち上げる。
空気が揺らぎ、透明な壁が斜めに立った。向こう側の景色がわずかに歪んで見える。
以前より、狭い。
深緋は見た瞬間に、それがわかった。
青藍は広く貼っていなかった。必要な場所だけを切り取るみたいに、角度を絞って壁を置いている。
「維持」
朽葉の声が飛ぶ。
壁は数秒その形を保っていたが、輪郭が一瞬だけ薄く揺れた。青藍はすぐに魔力を流し直し、揺らぎは元へ戻る。
けれど以前なら、こんな揺れ方はしなかった。
「切り替え」
壁が一度消える。消えた直後、少し角度を変えた位置へ、新しい壁が立ち上がった。
以前の青藍なら、消さずに動かしていた。深緋は、ボトルを握る指へ力が入るのを感じた。壁を維持したまま位置を滑らせる方が速い。隙間もできない。今は、一度切る。その方が、硬く保つ。
鶸が低空から戻りながら、気軽な声で聞いた。
「前の貼り方しないの?」
「保たないから」
青藍は普通の声で答えた。
「今の方が抜かれにくい」
「あー」
鶸はそれで納得したようだった。
訓練は続く。鶸が前へ出て影で誘導し、その後ろで青藍が壁を切り替えていく。以前より狭い範囲を、短く、何枚も繋ぐみたいな貼り方だった。
深緋は、その切り替えを見ていた。壁を張る時の腕が、以前より長くなっている気がする。
一枚。
消える。
次。
また消える。
以前より、ほんの少し遅い。
そのほんの少しを、深緋は知っている。
「青藍、遅い」
朽葉の声が飛ぶ。
次の壁が立ち上がるまで、一瞬だけ間が空いた。訓練用の誘導灯が、その隙間を抜ける。鶸がすばやく高度を落とし、青藍の手前に光の膜を被せて押し戻した。
「青藍、今のが実戦なら壁を抜けてる」
「……はい」
「次の位置を先に決めろ。貼り替えで迷うな」
「はい」
朽葉はそれ以上責めなかった。ただ、次の配置を指で示す。
「今度は北側から」
「はい」
「鶸、誘導角度を浅くしろ」
「はいせんせー」
鶸は軽く返事をして、また飛び上がった。
深緋は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。
青藍は普通だった。怒られても、焦ってもいない。できないなら、次のやり方を試すだけみたいに見える。
それが深緋には、たまらなく嫌だった。
訓練が一度止まり、短い休憩が入る。鶸が汗を拭きながら、長椅子の近くまで戻ってきた。
「つかれたー」
「まだ半分だろ」
「えー」
「サボるの?」
「サボんないよ」
鶸は笑って、そのまま床へ座り込んだ。
青藍は壁際の端末で、次の配置を確認している。その横顔を見て、深緋は視線を逸らした。
昨日、壁を抜かれたばかりだった。なのにもう、次の貼り方を覚えている。深緋には、それが理解できなかった。
怖くないのか、と少し思った。
怖くないわけがない、とも思った。
訓練再開の合図が鳴る。
青藍が立ち上がる。新しい靴の底が、乾いた床を小さく鳴らした。深緋は、その音を聞きながら、またボトルを握り直した。青藍の肩幅は、前より広く見えた。
*
訓練のあと、部屋に戻った。
鶸が先に部屋に入って、ベッドにそのまま倒れた。「つかれたー」と言って、すぐに毛布を引き寄せた。鶸はいつも、訓練のあとはこれだった。
青藍は、机に資料を戻していた。今日の訓練のメモを、もう書き足している。鉛筆の音だけが、しばらく続いた。
深緋は、自分の机の前に座った。
引き出しから、残りが少なくなった紋様集を出した。色を選ぶでもなく、今まで塗ってきたページをめくっていた。
青藍が、机の方からこちらを一度見た。見たが、何も言わなかった。
深緋は今日は何も言われたくなかった。青藍は、それを察したのか何も言わずにそっと目を逸らした。それが優しさだった。
「ねーコキア」
「ん」
「コキア、まだ怒ってる?」
「ぼく怒ってないよ」
「ねえ」
「ヒワ」
「うん」
「あとでね」
「うん」
鶸は、それ以上は聞かなかった。毛布の縁を、口のあたりまで上げた。
深緋は塗り終えたページを、もう一枚めくった。
*
夕方、織部が来た。
ドアを軽くノックして、いつものゆっくりした歩調で入ってきた。手には紙が一枚と薄い封筒。
「まずは任務お疲れさまでした」
そう言ってから、深緋の左腕の包帯の方を、軽く見た。
「コキア、傷の具合は? まだ痛むかな」
「だいぶましです」
「あまり動かさないようにね」
「はい」
「無理しなくていいですからね。今週いっぱい、訓練は見学で」
「はい」
織部は頷いた。
頷いてから、机の方へ、紙を一枚置いた。
「それと、明後日ね」
「はい」
「全検査ですよ」
声はいつもの穏やかな調子で。普段の連絡と同じ温度だった。
「三人ともです」
「あー……」
「朝から一日がんばりましょうね」
「わかりました」
鶸が、毛布の中から、半分だけ顔を出した。
「全検査かー」
「鶸、前からこの日程は決まってましたよ」
「覚えてなかったもん」
「前の日は早めに夕食済ませてね」
「はーい」
織部はちょっと困ったように笑った。
それから、深緋の方を、もう一度見た。
「コキア、傷のことは、向こうにも伝わってます。検査は、無理のない範囲で進めますからね」
「はい」
「困ったら、言っていいんですよ」
「はい」
織部は薄い封筒を、青藍の机の端に置いた。検査の段取りなどのいつもの封筒だった。
織部は、ドアの前で一度振り返って、もう一度「お疲れさまでした」と言って、出ていった。
ドアが閉まった。
部屋の中は、織部が来る前とほとんど同じ静けさに戻った。ただ、さっきまでみたいな張りつめ方ではなく、三人ともなんとなく明後日のことを思って黙っていた。
鶸が、毛布の中から、もう一度顔を出した。
「全検査だってさー」
「だな」
「あー、やだなあ」
「水分はしっかり取っとけよ」
「うん」
「明日の夜は食いすぎるな」
「うん……」
鶸は、毛布をまた口のあたりまで戻した。
窓の外は、もう暮れかけていた。白い花の植え込みは、今日もよく見えなかった。
深緋は、紋様集をもう一枚だけめくった。
めくった音だけが、部屋の中にしばらく残っていた。
(了)
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