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第19話:戻ったはずなのに(上)

 朝の南棟は、いつも通りだった。

 起床の鐘が鳴って、廊下の方で他班の足音が聞こえ始める。窓の外は薄く晴れていた。風はあまりない。


 深緋こきあは、自分のベッドの上で目を開けた。開けてから、左腕の包帯の重さを思い出した。施設ホームに戻ってすぐに本縫いをしてもらった。麻酔が抜けたあと、夜中に一度だけ高い熱を持ったが、朝にはもう落ち着いていた。痛み止めが効いているせいか、痛みは鈍い。動かさなければ、痛くない。


 青藍せいらんは、もう起きていた。机の方で、何か紙を整理している音がする。ひわのベッドは、毛布が半分床に落ちていた。鶸はまだ寝ていた。


「コキア」


 青藍が、こちらを見ずに言った。


「ん」

「腕、どう」

「平気」

「動かすなよ、しばらく」

「うん」


 返事が短い。いつもの朝より、少し短くて素っ気なくなる。


 青藍は立ち上がって、鶸の毛布を拾い、鶸のベッドへ放り投げた。それから、いつもの順で洗面の方へ向かった。


 深緋は、ベッドの端に座って、しばらく動かなかった。

 まだだるい。少し熱が残っているのかもしれない。ぼんやりと部屋の中を眺めている。青藍が朝のうちに整理した紙が、種類ごとに重ねられている。今日の座学の資料らしかった。一番上の紙の端が、定規でも当てたみたいに揃っていた。

 深緋は、つい見てしまった目を逸らした。


    *


 食堂は、いつも通り賑やかな朝を迎えている。

 配膳の音、椅子を引く音、誰かの笑い声。鶸は遅れて起きてきたので、寝癖のまま席についた。トマトのシチューに手を伸ばしながら、まだ半分眠っている。


「ヒワ、パンひとつで足りるのか? 一個しか取ってないだろ」

「うん。今日はそれでいい」

「お前にしては少ないな」

「うん……今日はー」


 鶸はそれだけ言って、シチューの芋をもぐもぐしている。

 深緋は、自分の分の白パンを片手だけで割っていた。右手で割って、左手は膝の上に置いていた。包帯の上に上着の袖を下ろしている。あまり目立たない。

 青藍が、深緋の皿の方を一度見た。


「コキア」

「ん」

「ちぎってやるよ」

「いい」

「片手やりにくいだろ」

「平気」

「貸せよ」

「平気だって」


 だんだんムキになってしまう。

 返してから、自分の声の大きさに、自分で気づいた。そして目線を皿に落とした。

 青藍は、それ以上は手を出さなかった。軽く受け流すような短い「ん」だけ返して、自分のパンに戻った。

 鶸が、二人を交互に見た。何か言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。下を向いて苦手なサラダを混ぜていた。

 鶸が黙る朝は、めずらしかった。


    *


 午前は座学だった。


 中央棟の小教室には、まだ朝の静けさが残っていた。窓際のカーテンは半分だけ開いていて、白い光が机の端へ細く落ちている。前方では、作戦指導の褐返かちがえが資料を広げていた。後ろの棚には、過去の現場図や報告用紙がファイルごと並んでいる。

 三人は後方の机を並べて座っていた。青藍が中央、鶸が左、深緋が右。いつもの並びだった。

 深緋の左肩から腕には、厚い包帯が巻かれている。机へ置くと引きつるので、膝の上へ避けていた。

 小教室には南一班と待機班。まだ眠そうにしている子、机へ突っ伏している子、もう資料へ書き込みを始めている子。深夜任務明けの座学は、いつも空気が重い。

 前方で褐返が資料をめくった。


「昨日の回収任務。対象は魔法発現で暴走寸前。誘導優先、刺激回避。南一班はその方針で動いてる」


 現場図が机へ広げられる。半壊した小屋、囲い込み位置、合流地点までの導線。青藍は昨日のメモを読み返しているようだ。昨夜のうちに整理したらしい線と数字が、すでに細かく並んでいる。


「対象が崩れた位置がここ」


 小屋の南側が示された。


「最初の予測では、衝撃は東へ抜ける想定だった」

「カチガエ先生、実際は少し南南東へ逸れてます」


 青藍が資料に目を落としたまま言った。


「理由は?」

「対象が転倒しかけた時に、身体ごと向きが変わったからだと思います」


 褐返は小さく頷き、そのまま自然に青藍の引いた線を指でなぞった。


「なるほど。魔法発現方向ごと引っ張られたか」

「最後、衝撃が抜ける前に、一回軸がぶれてました」

「ああ」

「囲いを閉じるタイミング、もう二秒早くしてもよかったかもしれません」


 褐返は「そうだな」と言って、資料へ何かを書き込んだ。

 待機班の一人が小さく「あー」と声を漏らす。その声へ、青藍が自然に続けた。


「対象が崩れる瞬間って、向き変わること結構あるんです」

「そう、特に恐慌状態だとな」


 褐返が返した。


「はい。今回も、たぶん本人には自覚なかったと思います」


 まるで、最初からそっちがわにいたみたいだった。

 褐返先生の質問に答えて、補足して、整理して、次の修正点を出す。その流れがあまりにも自然で、深緋はずっと資料を睨んでいた。何も頭に入らなかった。

 青藍は昨日まで、一緒に歩いていたはずだった。

 なのに今は、前の机にいる大人たちと同じ速度で話している。

 鶸が資料を覗き込む。


「あー。だから途中で風向き変わったんだ」

「うん。最初の囲い位置のままだと、外へ抜ける可能性があった」

「なるほど」

「最後にコキアが炎の高さを上げた時、誘導自体はかなり安定してました」


 青藍が静かに言った。褐返も頷く。


「炎側の調整は良かったな」

 

 そこで突然、自分の名前が出た。深緋は少し戸惑いながら、小さく「うん」と返した。包帯の下が、じくりと脈を打つ。

 褐返は資料を一枚めくった。


「あと、青藍。壁、後半で少し薄くなってたな」

「……はい」

「自覚は?」

「あります」


 青藍は少しだけ間を置いて答えた。


「……長く維持すると、後半が不安定になります」


 その返答も落ち着いていた。


「前と同じ貼り方は?」

「保ちません」


 教室の空気が、少し静かになった。

 青藍は普通の声で続ける。


「範囲を狭めて、短く切り替えた方が、今は安定します」

「出力配分を変える段階か」

「はい」


 深緋は、机の下で右手を握った。昨日、壁を抜かれたばかりなのに、もう次の修正の話をしている。しかも青藍は、それを前の机の大人たちと同じ顔で話していた。まるで、前から決まっていたことみたいだった。

 鶸は難しい顔で資料を見ていたが、途中で読むのを諦めたようだ。


「つまりさ」

「うん」

「前みたいに、ばーって広く貼ると保たない?」

「そういう感じ」

「あー」


 鶸は納得したように頷いた。深緋だけが、青藍の方を見なかった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。


毎日お昼12時過ぎに最新話を更新しています。

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