第16話:新しい靴(上)
午後の南棟は、出発前の少しだけ落ち着かない空気だった。
昼食のあと、織部が部屋まで来た。袋に入った支給品を置きながら、いつもの少しゆっくりした口調で話した。
「南一班は午後出発になりました。発現が確認された子がいるので、その確保です」
「場所は」
青藍が聞いた。
「現場の近くまで移動してから、状況合わせてで詳しい指示が出ます。医療班に引渡し後、すぐに帰れますからね」
「うん」
「気をつけていってらっしゃい」
織部はそう言って、鶸の方を一度見て、笑いながら釘を刺す。
「鶸、忘れ物しないように」
「はーい」
「ちゃんと大人の注意を守るのよ」
「はーい」
返事は二回とも軽かった。織部は深緋にも優しくにこやかに笑いかけた。そして「気をつけて」と短く言って、部屋を出ていった。
ドアが閉まると、鶸が伸びをした。
「発現ね」
「うーん」
「どのくらいの子だろ? 暴走しちゃってるのかな」
「行ってみないと、わからないな」
「めっちゃ強いかな? ボクより?」
「ヒワみたいなレベルが、そんな簡単にいてたまるかよ」
鶸は褒められたと思ってちょっと嬉しかったようで、ニヤニヤしている。いつも通り床に支給品と持ち物を並べ始めた。その後、任務バッグに荷物を放り込み始めた。タオル二枚、上着、何かの紙、もう一枚タオル。
「ヒワ、それ何枚タオル入れんだよ」
「あったほうがいいかなって」
「予備一枚でいい」
「えー」
「絶対あとで他のもの入らないだろ、それ」
青藍は呆れて、鶸の袋の中身を半分ほど取り出して、いるものといらないものに分けていた。鶸はそれを横でぼんやり見ていた。自分で支度するつもりはなくなったらしい。
「いい加減、自分で任務バッグくらい作れるようになれよ」
「めんどくさいんだもん」
深緋は自分の任務バッグを膝に置いて、上着を一枚と、水筒と、薄手のタオルを入れた。念のため予備のシャツも。それで終わりだった。あとは支給品の方で揃う。
窓の外は曇り始めていた。風はそこそこある。
青藍は自分の任務バッグの準備も手早く終えると、立ち上がって、自分の机の下に置いてあった箱を引き寄せた。中から、新しい靴を出した。
深緋は、それに気づいたが黙って見ていた。
青藍は床に座って、今まで履いていた方の靴を脱いだ。靴下を一度直して、新しい靴に足を入れた。少し立ち上がって、踵を床に軽くつけて、爪先の余りを確かめた。座り直して、紐を締めた。きつくしすぎないように一度緩めて、また締め直した。
鶸が顔を上げた。
「あっ、新しい靴じゃん!」
「ああ」
「いつ変えたの?」
「朝のうちにもらってきた」
「いいなー」
「お前は、まだ履けるだろ」
「うん。でも新しいのいいなー」
鶸はそれだけ言って、ほぼ青藍に作ってもらった任務バッグのフタを閉じて、ベッドの上に放った。
青藍は紐を結び終えて、立ち上がった。何歩か歩いた。床の上を、二、三歩。普通に歩いた。
「どう?」
鶸が聞いた。
「普通」
「普通ってつまんない」
「いいんだよ、普通で」
青藍は笑って、もう一度座って紐を少しだけ緩めた。
深緋は、自分の任務バッグのフタを閉じた。青藍が靴紐を締め直す指が、いつの間にか骨ばってきていたことに気付いてしまった。
靴擦れが痛くなくなって良かった、と思った。先週、青藍が廊下を歩くときに少しだけ踵をかばうようにしていたのを、見ていた。痛そうだったから心配だった。だから嬉しいはず。
なのに、深緋のバッグを閉じる手は、途中で止まった。そっと深呼吸して、もう一度中身を確認して、丁寧に閉じた。
窓の外の曇り空が、また少し低くなっていた。
*
車両に乗り込んだのは、午後の中ごろだった。
移動車両にはもうひとつ別の班が先に乗っていた。初めて組む班かもしれない。鶸が「あ、よろしくねー」と軽く言って、向こうの一人が「よろしく」と返した。
車内は敷物の上に毛布が畳んで端に積まれていた。ボトルと簡易食が壁際の棚に並んでいる。いつもの配置だった。
鶸は座るとすぐに毛布を一枚引き寄せて、くるりと包まった。
「寒い?」
「寒くないけど、気持ちいいから」
「赤ちゃんかよ」
「うん」
「おい……」
青藍は折り畳んだ資料を膝に広げた。地図と、移動経路の指示書と、現場周辺の簡易図。順番に見ていった。地図の上で指を動かして、二本の線の合流点で一度止めた。それから、待機位置と思われる小さな印のところまで指を滑らせて、また止めた。
顔を上げて、窓の外を一度見た。それからまた地図に戻った。
「セイランー」
鶸が、毛布の中から声を出した。
「ん」
「今日の子、どれくらいの強さで出てるって書いてある?」
「初発、らしい」
「あー」
「囲い込みだけで足りる範囲だと」
「じゃ、ボクあんま飛ばなくていい?」
「上から周回して見るだけでいい、たぶん」
「らくー」
鶸はそれで満足して、また毛布を引き上げた。
囲い込みなら、青藍の防御壁と、深緋の炎で済む話だった。魔法発現したばかりの子は、自分の力を止められないことが多い。近づきすぎれば危ないし、普通の人なら大怪我では済まない。暴走した子どもを怖がる大人は、珍しくなかった。
深緋たちのような使い手ならば、そのまま近くまで寄って、外側から少しずつ力の通り道を絞っていけば、当人もやがて疲れて、止まる。止まったら落ち着かせて、押さえに来た医療側に安全に渡す。そういう流れだった。
深緋たちは、何度もやってきた慣れた任務だった。
深緋は窓側に座っていた。
ガラス越しに、外の景色が流れていく。施設の門を出てしばらくは、整備された道だった。やがて、道の幅が少し変わって、両側に低い植え込みが続くようになった。植え込みの色は、よく見えなかった。曇っているせいだった。
車両が一度、緩やかに揺れた。
青藍の地図の上で、指がほんの少しずれたが、すぐに元の位置に戻った。
鶸は早くも目を半分閉じていた。
「ヒワ、もう寝るのかよ」
「まだー」
「まだって」
「もうちょっと起きてる」
「無理だろ、それ」
「起きてるー……」
鶸の声は、最後の方ですでに細くなっていた。三分も経たないうちに、寝息に変わっていた。毛布を巻きつけたまま。こんな形の虫がいたよな、と深緋は思った。
青藍は立ち上がって、鶸の毛布のほどけた所をきれいに巻きつけてやっていた。
深緋は、それを横目で見ていた。
慣れた動きだった。前にも、何度もしていた動きだった。
ただ今日は、その動きの後ろに、新しい靴があった。
深緋は窓の方へ顔を戻した。流れていく景色の中で、一本だけ高い木があって、すぐに後ろへ消えた。
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