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第15話:靴擦れ(下)

 夕食を食べ終える頃には、鶸はもう半分眠そうだった。部屋へ戻ると、そのままベッドへ倒れ込む。


「ヒワ、歯磨けよ」

「あとで……」

「絶対寝るだろ」

「ねない……」


 その声の途中でもう怪しかった。

 青藍は呆れた顔で、机へ本を置いた。深緋はお茶を淹れて、マグカップを青藍の机に置いた。

 鶸は毛布を半分だけ抱え込んで、すぐに寝息を立て始めた。


「早」


 青藍が小声でぼそっと独り言のように呟く。

 部屋の灯りを少し落とす。 窓の外はもう暗くなっていた。風だけがまだ続いている。

 青藍は机へ戻って、本を開いた。けれど、あまりページは進んでいなかった。

 深緋は横で自分のお茶を飲みながらしばらく黙っていた。それから、小さく言った。


「……靴、変えなよ」


 青藍は、本から目を上げた。


「ん?」

「もうきついんでしょ」

「まあ」

「足痛めるし、怪我するよ」

「まだ履ける」

「履けてないから靴擦れしてる」


 青藍はしばらく黙っていた。そしてお茶を一口飲んだ。

 ベッドの方では、鶸の寝息が規則正しく続いていた。


「……そのうち替える」

「うん」


 深緋はそれ以上言わなかった。青藍も、本を横に置いて何か書きつけている。窓の外では、風がまだ続いていた。枝が揺れる音が、ときどき窓まで届いている。

 鶸は完全に眠っていた。片腕だけ毛布の外へ出ている。


 「おやすみ」と声をかけて、深緋は先にベッドへ入った。 毛布を肩まで引き上げて、壁側へ向く。


 しばらく、部屋は静かだった。

 鶸の寝息と、青藍の本のページの音だけがあった。

 ベッドの上で鶸が寝返りを打つ音がした。鶸は寝相が悪い方だった。たまに毛布を全部蹴飛ばしてしまうことがあった。

 今日は、毛布ではなく、ベッドの外側へ大きく手を伸ばしていた。


 青藍がそろそろ寝ようと立ち上がって、鶸の毛布を直しに寄った、その時だった。

 鶸の手が、青藍の部屋着の裾のあたりを、ぎゅっと掴んだ。

 寝ぼけていた。目は閉じて口もうっすら開いていた。ぐっすり眠っている顔だった。ただ、指だけが、しっかり青藍の服を握っていた。


 青藍は、ベッドの脇で、一瞬だけ止まった。すぐには、その手を外さなかった。毛布を直す途中の手も、止まっていた。

 深緋は、ベッドの上で目を開けていた。ベッドの位置から、青藍の背中が見えた。前よりもやけに広くなった背中は、ほとんど動いていなかった。


 しばらくして、青藍の手が、ゆっくり動いた。

 自分の服を掴んでいる鶸の指に、自分の長い指を添えた。強く外そうとはしなかった。

 指を一本ずつ、優しくゆっくりほどいた。途中で、鶸が眉を少しだけ寄せた。それでも、目は覚めなかった。全部の指がほどけたあと、青藍はその手を、鶸の毛布の中へ静かに戻した。その毛布を、肩のあたりまで引き上げた。

 それから、青藍は鶸のベッドの脇に少しだけ立っていた。


 深緋は、ベッドの中で息を潜めて動かなかった。

 青藍は、しばらくして、自分のベッドの方へ歩いていった。途中で、机の端の本を、軽く整え直した。栞は、もう挟んであった。

 布団に入る音がした。

 部屋の明かりは、もう落としてあった。窓のあたりだけ、廊下の灯りが薄く入っていた。

 鶸の寝息は、規則正しく続いていた。深緋は天井の方を見ていた。眠くはなかったが、目を閉じた。

 しばらくして、青藍の方の寝返りの音がした。一度だけだった。あとは、また静かになった。


    *


 翌朝、鶸が起きるのは、いつもより少しだけ早かった。


 深緋はもう起きていて、洗面所から戻ってきたところだった。青藍は机のところで、本を一度だけめくっていた。鶸はベッドの上であくびをして、寝癖を片手で押さえつけた。


「セイラン、おはよ」

「おはよう」

「足、だいじょうぶ?」


 鶸が、思い出したように言った。青藍は本のページから目を上げた。


「平気」

「ほんと?」

「ほんと」

「あとで見せて」

「自分で見るからいい」

「えー」

「いい」


 鶸はそれ以上は言わなかった。ベッドから降りて、よれよれと洗面所の方へ歩いていった。

 青藍は本を閉じた。それから、棚の引き出しのいちばん下の段を、もう一度だけ開けた。靴下の段だった。今度は手前のものをそのまま取って、椅子に座って履いた。

 靴を履くときに、踵のあたりを軽く指で押し直した。絆創膏は、まだ貼ってあった。靴は、いつもの靴だった。

 深緋は、それを横目で一度だけ見て、何も言わなかった。


 窓の外は、今日も晴れていた。植え込みの花は、朝の光の中で、色がはっきりしていた。風は、まだ動いていなかった。

 朝食の時間まで、もう少しだった。


「ヒワ、急げよ」


 青藍が、洗面所の方へ声をかけた。


「うんー」


 鶸の返事は、いつも通りの間延びだった。

 深緋は、昨日仕上げた課題をまとめてファイルに突っ込んで、訓練着をベッドにそろえておいた。


(了)

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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毎日お昼12時過ぎに最新話を更新しています。

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