第01話:外された名札(下)
廃墟にも見える建物の前で車両が止まった。
雨は弱まっていたが、まだ降っていた。地面が濡れていて、足元が暗くぬかるんでいる。深緋は周囲を一度確認してから建物に向かった。
「入るとこ、あのドア?」
「そうです」と車内のスタッフが示した。
扉が半開きになっていた。蝶番が錆びている。中は暗かった。
鶸が先に入る。扉を開く手に躊躇がない。中が安全だと感じ取れているようだ。深緋はその後に続き、青藍が最後に入った。
内部は倉庫のようながらんとした建物だった。天井が高くて、床にガラクタや埃がそのままになっている。雨漏りがしていた。そしてひどくかびた匂いがした。
奥の方で、何かが動いた音。
深緋は立ち止まった。鶸も止まっている。音を聞いている。
もう一度、動く気配があった。積まれた荷物の陰。
「いた」鶸が静かに言った。
「うん」
深緋は荷物に近づいた。急がず、足音を立てすぎないように。怖がって逃げてしまわないように。
荷物の陰に、子どもが三人いた。
一番大きいのが八歳か九歳くらい。あとの二人はもっと小さい。三人とも汚れた服を着て、膝を抱えていた。深緋たちを見上げて、動かない。痩せて怯えた目がこちらを見ている。
「大丈夫だよ」
深緋は、声を低く、ゆっくりにした。
「助けに来ただけ」
誰も動かなかった。深緋の赤髪と目を交互に見ながら縮こまっている。
青藍が前に出た。深緋より少し背が高くて、それが今は有利だった。しゃがんで、子どもたちと目の高さを合わせる。
「外に車がある。暖かい場所に俺たちと行こう」
一番上の子が青藍を見た。次に深緋を見た。
暗がりの中で少し紫がかった目を大きく見開いた子。
深緋を見た後、鶸を見ている。青藍より頭ひとつ小さい鶸は、その後ろでニコニコ笑っていた。意図してそうしているんじゃなくて、自然と滲んでいる笑顔だ。
紫色の目の上の子は、膝をそっとほどいた。
外に出ると、車両の中で待機していた医療スタッフがすぐに寄ってきた。
「対象に怪我はありますか?」
「見た感じではないです。でも診てあげてください」と青藍が言った。
医療スタッフが頷いた。子どもたちに近づいて、声をかけながら一人ずつ確認していく。
深緋は少し離れたところで立っていた。
建物の前の道路に、水たまりができていた。雨粒が落ちるたびに、波紋が広がって消える。
鶸が深緋の横に来た。
「他にいなかったねー」
「今回は三人だけだね」
「ボク、もっといると思ってた」
「そうだね」
鶸が水たまりを眺めて、バシャ、と水たまりに足を突っ込んだ。大人に怒られるぞ、と思ったが深緋は黙っておく。
「でもさー、とりあえず三人、ちゃんと連れてこれてよかったよねー」
深緋は返事の代わりに、車両の方に目をやる。
車両では、医療スタッフが小さい子どもにブランケットをかけていた。深緋たちが声をかけた子は、青藍の横で不安そうに手を繋いで立っていた。青藍は懐かれたのか、どうやら手を離してもらえなそうだ。何か話しかけられていたが、ここからは聞こえない。藍色の頭が少し困ったように動いているのが見えるだけ。
保護された子どもたちは暖かい場所に行くことになる。暖かい寝床、雨漏りのしない天井。教育も、食事も、医療も整っている。大人たちが丁寧に見守ってくれる。
深緋はそれを知っていた。
知っていたから、空を見た。雨がまだ降っていた。薄い雲が広がっていて、どこに太陽があるのかわからなかった。
*
帰りの車両の中は静かだった。
子どもたちは後続車に乗っている。こちらには深緋たちだけが戻った。
鶸はすぐに眠ってしまった。シートに寄りかかって、規則正しく息をしている。緊迫した任務の後でも、こういうところが鶸だった。ちなみに泥水だらけにした靴はしっかり怒られていた。
青藍がぼんやり窓の外を見ていた。
「戦闘にならなくてよかったな」
「うん」
呟くような青藍に、深緋は短く返事をした。
車両が施設の道に入ると、よく整備された街灯が戻ってくる。道が広くなる。建物が新しくなる。
前方にごつごつした門が見えた。施設の南門は、外側から見ると立派だった。大きくて、頑丈で、きれいに塗装してある。
深緋はそれを見て、目を窓から外した。
鶸が寝息を立てていた。青藍はまだ窓の外を向いていた。
雨がゆっくりと弱まっていた。
施設まで戻ると、廊下で三十代くらいの穏やかな女性がにこやかに出迎えた。織部だ。
「お疲れ様でした。南一班全員が無事で、よかった」
「ただいま、オリベ」
「保護した子どもたちはこれから受け入れ手続きをします。南一班は今日はもうゆっくりしてください。夕食はいつも通りでいいですね?」
「うん」
織部は、少し早足で先に廊下の奥に消えた。代わりに南棟まで大人の潤が、後ろからついてきた。
鶸が大きく伸びをした。
「お腹すいたー!」
「夕食まで待ってなよ」
「食堂でなんかもらえないかな」
「夕食が入らなくなるだろ」
「えー、入るもん!」
鶸が食堂の方に歩いていく。深緋と青藍は顔を見合わせた。
「ぼく、部屋で着替えたいんだけど……」と深緋が言う。
「おい、ヒワ」
「鶸、先に部屋に戻って着替えますよ」
潤が鶸の襟元を掴んで引き戻す。
「ボク、お腹すいたのにー!」
だだをこねる鶸を引き連れて、廊下を歩いた。中央棟から南棟までは、五分ちょっと歩く。毎日歩くこの渡り廊下はいつも清潔だった。いつでも床が磨かれていて、天井の照明が均一に光っている。壁に季節の絵が飾ってある。今月は青い花だった。
食堂の方から、夕食の匂いがしていた。
鶸が跳ねながら先を歩いていた。潤の秘蔵のオヤツをもらう約束をしたらしい。
深緋はその後ろを歩いた。
南棟に入ったところで、曲がり角の先が少し見えた。織部が部屋の札を外していた。銀色の札の端に、『紫』の一字が光った。
深緋は目をそらして、鶸の後を追った。
(了)
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