第14話:銀鼠(上)
訓練の片付けに少し時間がかかった。
鶸の靴紐が訓練中に両方ほどけていて、青藍が「先に結べ」と言ったのに、「あとでー」と放置したせいだった。鶸が、だらだらといつもの調子で靴紐を結んでいたら、結局、地下訓練室を出る頃には、他の班も大人もみんな先に行ってしまっていた。
訓練室から階段を上がると、中央棟は少し騒がしかった。制服姿の大人たちが、車両部の方角へ何人も歩いていく。書類を抱えたまま、低い声で何か話していた。
「ねえ、今日なんかある日?」
「さあな」
深緋はそのまま少し先まで歩いて、それから何も言わずに外側通路へ曲がった。
「えっ、コキアそっち?」
「この裏道の方が近いし」
「怒られそうー」
鶸は通路の隙間窓に額を寄せて、外の車両部の方を覗き込もうとした。窓からは敷地の半分しか見えなかった。ガレージの屋根の一部と、その手前の通路が見える程度だった。通路を一人、制服姿の大人が歩いていた。書類を脇に挟んでいた。
「あんまりそっち近づくな、ヒワ」
青藍が後ろから言った。鶸は素直に窓から離れた。窓にひっついていた額のあたりが少し赤くなっていた。
向こうから三人ほど、制服姿の大人が歩いてきた。打ち合わせの帰りらしかった。一人が書類を持って、別の一人と低い声で話していた。南一班は端に寄った。怒られるかと肩をすくめていたが、大人は話に夢中であまりこちらを見なかった。
ほっとしたのも束の間、もう一人大人がやってきていた。
深緋は不自然にならない程度に、顔を見られないように俯いたが、鶸の声で顔を上げる。
「あ」
「……あ」
「ムラサキ!」
相手の足が、すれ違った後に止まった。ほんの一瞬だった。
そっと振り返った顔が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。知っていたはずの顔だった。でも、今は違う顔だ。でもほんの少しだけ、その目元が緩んだ。深緋には、その表情に覚えがあった。前に何度か、南棟の廊下ですれ違ったときの顔だった。だが、すっと伸びた身長、少し膨らみのある胸元。大人だった。
ただ、それは本当にほんの一瞬だった。次の瞬間には、もう業務の顔に戻っていた。
制服の胸元には、名札が下がっていた。白い縁の、薄い色の名札。書かれていたのは、別の名前だった。
「銀鼠」
深緋は声に出さずに、字面だけ読んだ。少しだけ目を見はってしまう。
銀鼠は、南一班の方に短く会釈をした。立ち止まることなく、廊下の角を曲がって、車両部の方へ歩いていった。歩き方は、前より少しだけ静かだった。靴も南棟用の柔らかい靴ではなく、今は大人用の底の硬い靴を履いている。重たい足音がしていた。
角を曲がるときまで振り向くことはなかった。ただ見送るしかなかった。
廊下の角の向こうから、別の大人が「銀鼠」と呼ぶ声がした。
「銀鼠」
「あ、はい」
少し低くなった紫の声だった。返事は短く、業務の声だった。
深緋は廊下の壁から少し体を離した。鶸はまだ通路の端に立ったまま、銀鼠が消えた角の方を見ていた。
しばらくして、鶸の口が動きかけた。
「セイ……」
「ヒワ、やめとけ」
青藍が、すぐに静かに言った。
声は低くなかった。怒ってもいなかった。鶸の肩を引いたりもしなかった。ただ、いつもよりほんの少し落ち着いた声で。
「うん」
鶸は短く頷いた。それから、少しだけ俯いた。すぐに顔を上げた。鶸の表情は、いつもとほぼ同じだった。ただ、廊下の角の方を、もう一度だけ目で確認した。
角の向こうからは、もう何の声も聞こえなかった。南一班は食堂へ、歩き出した。
*
食堂までの近道は、いつもより少し長く感じた。
鶸は深緋の半歩後ろを歩いていた。地面に引かれた細い線の上を、靴の先でなぞるみたいに歩いていた。途中で一度外れて、また戻る。いつもなら「落ちたー」などと言うのに、今日は何も言わなかった。
青藍は前を歩いていた。歩幅はいつもと同じだった。途中で振り返らなかった。
食堂の入り口の手前まで来たところで、鶸が小さく言った。
「セイラン」
「ん」
「ボク、ムラサキって呼んじゃった」
「ああ」
「だめだった?」
「いや」
青藍は、入り口の柱の前で少しだけ足を止めた。深緋もその横で止まった。
「だめじゃない。でも、もう向こうは大人の仕事してる」
「うん」
「だから……」
「うん」
「次は、やめとけ」
「……うん」
鶸が頷いた。今度の頷きは、最初のよりも少しだけゆっくりだった。
それから、ぱっと顔を上げて、食堂の中の方を覗き込んだ。
「あ、おさかなの日」
「鼻きくな、お前」
「だってこれはおさかなのにおいー」
「並ぶぞ」
「うん」
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