第13話:薄い写し(上)
朝、鶸が珍しく自分から起きた。
深緋が顔を洗いに行こうとしたところで、鶸はもうベッドの上に座っていた。寝癖はいつもの通りだったが、目は半分くらい開いていた。
「今日、資料室?」
「うん」
「いくーボクもいくー」
「珍しいな」
青藍が本を閉じながら言った。
鶸はベッドから降りて、片足だけ部屋着のズボンに通して、もう片足は引きずったまま洗面所の方へ歩いていった。
「ヒワ、ズボン」
「あー」
「履いてから歩け」
「うん」
鶸は歩きながら、器用に両足を通した。鏡の前で寝癖を撫でつけて、それでもあまり直らなかった。水をちょっとつけてゴシゴシしているのでよけい逆立っているようにも見える。
久しぶりに潤の付き添いで、朝食は食堂で手早く済ませた。鶸はパンを二つ取って、片方をポケットに入れようとしたところを青藍に止められた。
「あとで食べるからー」
「食堂で食え」
「えー」
「持ち出すな」
「うん」
鶸はその場でもう一つも食べた。
*
中央棟はなぜか、いつもより静かだった。
南棟から中央棟への渡り廊下に出たところで、すぐにわかった。普段は廊下の途中で、南棟の子と何人かすれ違うのだが、今日は半分くらいだった。
代わりに、廊下の角を曲がったところで、白衣の大人が二人歩いていた。一人はファイルを抱え、もう一人は手ぶらだった。医療フロアの方向から来ていた。付き添いの潤に気づくと、軽く会釈をしただけで、そのまま通り過ぎていった。
「今日、検査の日?」
鶸が小声で言った。
「みたいだな」
「ふうん」
「全検査じゃないか?」
「わー……」
鶸が腕をさすってそっと見ている。
深緋は廊下の奥の方を見た。医療フロアへ向かう通路は、中央棟の二階で別れていた。三階の資料室へ行く分には、その通路を通らずに済んだ。
階段の踊り場で、誰かが座り込んでいた。
鶸より少し小さい子だった。たぶん北棟か東棟の班だろうが、深緋には覚えがなかった。隣に大人がついていて、子どもの背中に手を当てていた。子どもはうつむいて、口元を片手で押さえていた。大人が小声で何か言って、子どもがゆっくり頷いた。
南一班はそのまま階段を上がった。座り込んでる子を見ないようにした。
「だいじょうぶかな」
鶸が階段の途中で振り返ろうとしたが、青藍がその肩を軽く前に押し戻した。
「行くぞ」
「うん」
「大丈夫。鶸、大人がついていますよ」
潤はさあさあと三人を急かし、三階に着いた。廊下の奥に、資料室の入り口が見えた。
*
資料室は、いつも通りの空気だった。
受付の大人が、南一班と潤に気づいて、軽く会釈をした。鶸はまっすぐ受付に向かった。深緋と青藍は少し後ろからついていった。
「あの、けもの図鑑の続き!」
「続き、ですか」
「うん、まえ借りたやつの、次の巻ね、ガラスのところに入ってるやつ借りたいです!」
受付は、少しだけ間を置いた。顎に手を当てて考えて、「ああ、あれですね」と穏やかに頷いた。立ち上がって、奥の棚の方へ歩いていった。鶸は受付のカウンターに肘をついて、爪先立ちで奥を覗き込んでいる。
奥の壁際にガラスのケースがあった。背の高い棚で、上の方の段はガラス扉で施錠されている。鍵で扉を開けて中から、暗い色の表紙の本が一冊取り出された。
受付の大人は戻ってきて、その本をカウンターに置いた。鶸は手を伸ばそうとした所を「あ」と小さく言って制止される。鶸の手が宙に浮いた。
「待って。鶸、これは直接お渡しできないんです」
「えー」
「持ち出し用の写しを作りますね」
「写し?」
「はい。少しお時間いただきます」
「いいよー」
鶸は写しが何かよくわかっていない顔だった。受付の人は本を抱えて、奥の作業机の方へ歩いていった。途中で、別の職員に小声で何か伝えていた。
青藍がカウンターから少し離れて、近くの机に座った。深緋もその隣に座った。鶸はカウンターから、奥の作業室をなんとか見ようとしていたが、しばらくしてこちらに戻ってきた。
「セイラン、写しってなに」
「中身を機械で別の紙に写して閉じてくれる」
「ぜんぶ?」
「だといいな」
「すぐに読めないの?」
「だから時間いただきますって言われただろ」
「あー」
鶸は椅子に座って、机にぺったり頬をつけた。さっき食堂で食べたパンの匂いが、まだ少し袖から残っていた。
写しを作る間、南一班は資料室の机で時間を潰した。
青藍は地誌の本を一冊棚から取ってきて、開いた。以前に来た時にも手に取っていたものだ。深緋は本を取らずに、机の上に肘をついて、棚の背表紙をぼんやり眺めていた。
しばらくして、鶸が立ち上がった。
「ちょっと、廊下」
「どこ行くんだ」
「窓のとこ」
「遠くに行くなよ」
「うん」
鶸は答えて、資料室の外に出た。潤が、そっと鶸の後を追いかけて入口の方へ向かった。
深緋は少しだけ目で追って、それから棚に視線を戻す。
青藍は本のページをめくった。今日は前回の続きから読んでいるようだった。
深緋は立ち上がって、奥の棚の前に行った。前にも一度立ち止まった棚だった。紋様のところで少し立ち止まる。幾何学的な紋様集の本がある。今のが終わったらこれもいいなと思った。そして隣の地誌の棚を、背表紙だけ眺めた。集落記録の棚は、その奥にあった。何冊かは途中がない。きっと上の段のガラス扉だった。手は伸ばさなかった。
机に戻ると、青藍が短く目を上げた。
「何か借りるか?」
「ううん」
「そっか」
青藍はまた本に戻った。深緋は机の木目を見ていた。
しばらくして、潤に連れられて鶸が戻ってきた。
「コキア、廊下から見えた」
「ん?」
「中央の階段のとこ、誰か運ばれてた」
「運ばれてた?」
「うん。寝ちゃってた」
「そうか」
「ねーねー、そういえば西棟の方から検査室、行く子っていないね」
鶸は隣の椅子に座った。深緋は鶸の方に少しだけ顔を向けた。潤や資料室の大人の視線が、こちらに向いている気がした。
「セイランは知ってるー?」
「ん」
「西棟の子、検査どこで受けてるのかなあ」
「別ルートなんじゃないか」
青藍は本のページから顔を上げずに、短く答えた。
「ふうん」
「あっち、棟の中で完結してるのかもしれないし」
「あー、そっか」
鶸はそれきり黙った。机に頬をつけて、奥の作業机の方をぼんやり見ていた。受付の人がこちらを見ているような気がしたが、視線を向けると手元で何か書いていた。
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