第11話:子どもに見せる答え(下)
数日後、織部が部屋を訪ねてきた。
午前の訓練が終わって、昼食までの少し空いた時間だった。鶸は床に脚を伸ばして座って、青藍が借りてきた地誌をぱらぱら見ていた。中身を読んでいるわけではない。ただ、絵が描いてあるところで止まるだけだった。深緋は机に向かって、何をするでもなく頬杖をついていた。
「失礼しますね」
扉が二度ノックされて、織部が顔を出した。手に薄い紙の束を持っている。
「青藍、こないだ受付で聞いてくれた件、少しだけ整理して持ってきました」
「あ、はい」
青藍が机から立ち上がった。深緋は頬杖を解いた。鶸が床から顔を上げて、「南区第七集落?」と聞いた。
「そうです。あと、紋様のことも少しね」
織部が机の上に紙を置いた。何枚かに分かれた、印字された紙だった。手書きではなくて、きれいに整えられている。深緋はそれを見て、誰かが子ども向けに書き直したものだと思った。
「みんなで読んでいいですよ。難しい言い方は外してありますから」
「ありがとうございます」
織部は少し笑って、「ゆっくりでいいですからね」と言って、扉を閉めた。
三人で机を囲んだ。鶸は青藍の隣に立って、紙を覗き込んだ。
『南部地域、過去の獣害記録』と一枚目の見出しに書いてあった。
「獣害?」
「獣の害」
「うん、それはわかる」
鶸は頷く。
青藍が一枚目をめくった。深緋はその横から覗き込んだ。
書いてあることは、思ったよりはっきりしていた。南部の旧集落地帯では、過去にある獣の群れによる大規模な被害が出た時期があったらしい。獣の特徴の欄に、「成獣の角は根元から先端にかけて緩く渦を巻く」と書かれていた。深緋はそこで一度、目を止めた。
「これ」
「うん、あれだな」
二枚目には、被害を受けた集落の名前がいくつか並んでいた。壊滅、深刻被害、移転、と分類されている。南区第七集落は、その中の一つだった。
三枚目に、紋様の話があった。
南部一帯では、その獣の渦巻く角を象った意匠が、獣除けや魔除けとして広まったらしい、と書いてある。植物の蔓に重ねられたり、家の入口の上に掛けられたりしたという。
「あー」
「答えあったねー」
鶸が大きく息をついた。深緋は何も言わなかった。
「え、こわ。獣の群れって。何匹くらい?」
「書いてないな」
「えー、知りたかった。でも、まあ、ボクらなら勝てると思う」
「お前、図鑑の絵見て怖がってたじゃないか」
「あれは絵がかっこよかったの!」
鶸が膨れた顔をした。青藍は短く笑って、紙をもう一枚めくった。
「まあ、そういうことだったんだろうな」
青藍はそう言って、紙を揃えた。納得した、というよりも何となく解けた程度だった。
深緋は、紙の一枚目に戻った。
わかりやすい資料だった。被害の規模も、獣の特徴も、紋様の由来も、過不足なく書かれていた。
深緋はそれを読みながら、机の引き出しをちらりと見た。中に紋様集があった。検診の後にだけ開く、あの薄い冊子。最後に塗ったページの、蔓の渦巻きには、図鑑の獣の角の色に近い色を、一筆だけ入れていた。
あの線が似ている、と気づいて、似ているかもしれない、と思って、自分で手を動かした、あの一筆。
答えは、もう紙の上にあった。
「コキア?」
鶸がじっと深緋を見つめる。
「読まないの?」
「読んでる」
「ふうん」
鶸はそれ以上は聞かなかった。深緋は紙の二枚目を手元に寄せた。集落の名前を、一つずつ目で追った。
青藍が紙を一つにまとめて、机の端に置いた。
「あとで、もう一回ちゃんと読む」
「ボクも!」
「お前、絵がないと読まないだろ」
「読むよ!」
「嘘つけ」
鶸がムキになる。青藍が笑う。
二人がいつものやり取りをしていた。窓の外で、雲が動いていた。
*
昼食の時間になっても、深緋は少し口数が少なかった。
鶸はパンを二切れ食べて、ホットサラダのにんじんを全部青藍にあげていた。青藍は「お前、にんじん残すなって言われてるだろ」と言いながら、結局食べていた。深緋はスープを飲んで、パンを半分残した。
「コキア、残すの?」
「ちょっとお腹いっぱい」
「ふうん」
鶸はそれ以上聞かなかった。代わりに、自分の食べたパンの話を始めた。今日のは少し固かったとか、昨日のほうが好きだとか、でもスープにつけるなら固いほうがいいとか、そういう話だった。青藍が「じゃあ固い方がいいんじゃないか」と言うと、鶸は「そのまま食べるならやだ」と答えた。深緋は聞いているふりをして、窓の外を見ていた。いつもと同じ話をしているのに、自分だけ少し取り残された気がした。
午後、部屋に戻って、それぞれが別のことを始めた。
青藍は午前にもらった紙を、もう一度開いていた。今度はメモを取りながら読んでいる。鶸は床に図鑑を置いて、角の渦巻きのページを開いていた。指でなぞって、「これかー」と一人で呟いていた。それから「実物いたらどのくらい大きいかな」と言った。青藍は紙から顔を上げずに、「図鑑に書いてないか?」と答えた。鶸は読みもせず「ボクなら勝てると思う」と言って、床の上で少しだけ転がった。図鑑の角がめくれそうになって、青藍が「こら」と言った。
深緋は、自分の机に肘をついて座っていた。机の上には何も広げていなかった。引き出しに紋様集があるのは知っていた。けれど、出す気にはならなかった。
頭の中に残っているのは、紙の手触りだった。さらさらしていて、きれいに印字されていて、読みやすかった。怖い言葉は少なかった。難しい言い方もなかった。獣のことも、集落のことも、紋様のことも、順番に並んでいた。
優しい資料だった。
だからたぶん、これでよかった。南区第七集落のことも、獣のことも、渦巻きのことも、ちゃんとわかった。もう調べなくてもいい。
深緋は机の端を爪で引っかきながら、机の上にだらりと突っ伏した。
優しさが、少し嫌だった。何が嫌なのかは、うまく言えなかった。言うほどのことでもない気もする。ただつまらないな、という言葉がぐるぐるとする。
青藍が紙をめくる音がした。鶸が床で足をばたつかせる音もした。鶸は図鑑の説明文を途中まで読もうとして、すぐに「長い」と言った。青藍が「自分で読むって言っただろ」と返す。鶸は「絵は見た」と言った。
深緋は笑おうとした。でもうまく笑えなかった。
引き出しの中の紋様集を思い出した。蔓の先の渦巻きに、一筆だけ、獣の角に似た色を入れた。あの色はもう要らないなと思った。数日前のことだ。
深緋は引き出しに手をかけて、やめた。
今日は、もう開かなくていい。必要がない。
窓の外で、雲が動いていた。
「コキア、どこか具合が悪い?」
鶸が床から顔を上げて、こちらを見た。
「ううん、違う」
「ふうん」
「なに」
「なんか、机と仲良ししてる」
「してない」
「してるよ。ずっとそこにいる」
「ヒワはずっと床にいるね」
「床は広いからねー」
鶸は天井に向かって言って、また図鑑に戻った。青藍が一度だけ深緋の方を見た。何か言いかけたようにも見えたけれど、結局、何も言わずに本を開き直した。深緋は机の上で頬杖をついた。紙はまだ、青藍の手元にあった。紋様集は、引き出しの中にあった。
深緋は、どちらにも手を伸ばしたくなかった。
(了)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。
毎日お昼12時過ぎに最新話を更新しています。




