第11話:子どもに見せる答え(上)
夕方、青藍が部屋を出ていって、しばらくして戻ってきた。
「明日、資料室に行っていいって」
「オリベが?」
「うん。一緒に来てくれるって」
「やった」
鶸がテーブルから言った。図鑑を抱えたまま、椅子の上で少し跳ねた。
「だからそれは古い大事な本だって言ってるだろ」
「あ、そうだった」
鶸はテーブルに図鑑をそっと戻した。深緋はその仕草を見ていて、鶸が本当にこの図鑑を気に入っているのだとわかった。
「コキアも行くだろ?」
「行く」
「うん」
窓の外が暗くなり始めていた。深緋の手はしばらく止まっている。
「ヒワ」
「なに」
「明日見たい本、決めてあるの?」
「決めてない。けど、なんかある気がする」
「気がするだけ?」
「気がするだけ」
青藍が呆れた声を横からかけてくる。
「お前、いつもそれだな」
「だっていつもそうだもん」
深緋は紋様集を閉じた。蔓の渦巻きは、まだ少ししか塗っていない。続きは資料室から戻ってきたあとで、と。
*
翌日、織部の付き添いで、また中央棟の資料室に行った。
昨日と同じ渡り廊下を歩いて、同じ階段を上って、同じ扉を開けた。古い紙の匂いがした。日が高いせいか、昨日より部屋が明るかった。
「自由に見ていいですよ」織部が言った。
「貸し出しはまた私を通してくださいね」
昨日とほとんど同じ言葉だった。深緋はそれが少しおかしくて、けれど安心もした。
青藍はすぐに地誌の棚に向かった。昨日と同じ区画だが、今日はもっと奥の方の棚を見ている。背表紙を一冊ずつ目で追っていた。指でメモの紙を持っていて、ときどき確認している。
深緋は紋様の棚の方に行った。昨日は受付で受け取った冊子を持って帰っただけだったが、今日は棚そのものを見たかった。異国の意匠を集めた本がいくつか並んでいる。背表紙の言葉が読めないものもある。
深緋は分類の札を一つずつ見ていった。北部諸島系、東部高地系、と書かれたものがある。下の段に、南区画旧集落系、というのがあった。深緋はそこから一冊抜き出して、めくってみた。植物と、獣と、よくわからない記号のような文様が交互に並んでいた。蔓の先の小さな渦巻き。獣の角の渦巻き。形は少しずつ違ったが、渦巻きの流れが、深緋の紋様集と似ていた。
深緋は少し手を止めた。それから本を棚に戻した。
鶸は最初、青藍の方についていった。それからすぐに飽きて、棚の間をぶらぶら歩き始めた。
「コキアー、こっち見たことない本ある」
「声がでかい。静かにしろ。で、どこ」
「奥」
慌てて小声で鶸が答えた。
深緋は鶸の指す方を見た。資料室の一番奥に、壁に沿って並んでいる棚があった。普通の棚と少し違って、ガラスの扉がついていた。中に本が並んでいるのが見える。背表紙が、どれも古そうだった。
鶸はガラスの扉に手をかけた。
「待ってください、鶸」
受付の大人が、すぐに気づいて声をかけた。怒った声ではない。穏やかだったけれど、きちんと止める声だった。
「そこは、鍵のかかっている場所ですよ」
「えー? そうなの?」
「その棚は少し古い資料が多いので、壊さないように確認が必要なんです」
「確認って?」
「子どもに出せるものと出せないものがあって、読むときには必ず、私たち職員の確認が必要なだけですよ」
受付の人はそう言って、にっこり笑った。怒られたわけではないとわかったので、鶸は少しほっとした顔をした。
「見たいやつあったら、言ってくださいね。確認できるものはお出しします」
「はあい」
鶸はガラスの扉から手を離して、深緋のところに戻ってきた。
「コキア、なんかあった、あれ」
「あったね」
「古いって言ってた」
「うん」
深緋は、ガラスの棚をもう一度見た。
光が反射して、中の本がよく見えなかった。背表紙の色だけが、ぼんやりとわかる。深緋はそれ以上近づかなかった。
青藍が地誌の棚から戻ってきた。手に何冊か抱えている。表情はいつもより少し硬い。声を潜めて報告してくる。
「南区第七、別の本にも出てきた」
「あった?」
「あった。でも、やっぱり記録が短い。同じところで切れてる」
「同じところって?」
「同じ年で。三冊とも」
青藍は、抱えていた本を机に置いた。
深緋は何も言わなかった。
鶸が机の上の本を覗き込んで、「ふうん」と短く言った。それから、奥のガラスの棚の方をちらっと見た。
「あの中にはあるのかな」
「わからないけどな」
「聞いてみる?」
「聞いても、見せてもらえるかはわからない」
「聞くだけなら怒られないよ」
「そうだけど」青藍は答えて、「うーん」と言った。
青藍は少し考えてから、受付の方に行った。深緋と鶸は机の前に残った。
しばらくして青藍が戻ってきた。
「南区第七で並んでるやつは、いま出せるかわからないって」
「なんだそれー」
「確認しますって言われた。返事は次に来るときでいいかって」
「次っていつ?」
「わからない」
青藍の答えに鶸が「ふうん」と言って、机の上に頬杖をついた。
深緋はその横に座って、青藍が借りる本を見ていた。地誌が二冊と、集落の記録が一冊。さっきよりは少なかった。
*
部屋に戻ったのは夕方だった。
鶸はベッドに上がって図鑑をまた開いた。けれど、ページをめくる手が少しずつ遅くなって、それから止まった。気づくと、鶸は図鑑を抱えたまま、横向きに丸まって寝息を立てていた。
「またあいつ、図鑑抱えて寝てる」
「いつものことだね」
「布団かけてやれよ」
「セイランがやって」
「お前の方が近い」
「同じくらいなのに」
結局、深緋が椅子から立って、鶸にブランケットをかけた。鶸は寝たまま、図鑑をぎゅっと抱え直した。深緋はそれを少し見てから、自分の机に戻った。鶸の図鑑はあとで青藍が取り上げてくれるだろう。
その青藍は机に向かっていた。今日借りてきた本を一冊開いてしおりを挟んで閉じ、それからメモ用の紙に何か書いた。鉛筆の音が静かに響く。
「セイラン」
「ん」
「なんかわかった?」
「わかってない」
「ふうん」
「でも、調べたいことが増えた」
「それはわかったって言わないの?」
「言わない」
青藍は笑い含みで言う。
深緋は少し迷ってから、紋様集を引き出しから出して、机の上に広げた。昨日の植物の文様の続きを塗る。葉の付け根の小さな渦巻きのところで、深緋は色を一つ替えた。鶸の図鑑の獣の角の色に、少しだけ近い色だった。
はっきり同じ色ではないけど。なんとなく、近い色を選んでみただけ。
深緋はその一筆を入れて、それからまた別の場所を塗り始めた。
鶸の寝息が聞こえている。青藍がメモの紙にしおり代わりの線を引いた音がした。窓の外で風が出てきたのか、ガラスが小さく鳴った。
部屋の中は静かだった。
明日も似たような一日になる、と深緋は思った。
たぶん。
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