第10話:消えた集落記録(下)
「コイツ、かっこいくない?」
「変なやつ」と深緋が言った。
「変じゃないよ、かっこいい」
「両方じゃないか」と青藍が言った。
鶸は角の部分を指でなぞっていた。
「ねえコキア、これさ」
「うん」
「ボク前にどっかで見た気がする」
「どっかって」
「わかんない。なんか、似てる気がする」
「なんかのマーク?」
「壁かなあ……壁の絵かも」
鶸は首を傾げた。本気で考えているような、いないような顔だ。鶸の「気がする」は、いつもそんなに正確ではない。深緋はそれを知っていたから、聞き返さなかった。
深緋は図鑑の角を見て、それから自分の机に開いた紋様集へ目を落とした。蔓の先の渦巻きと、少しだけ似ている気がした。
でも、深緋は何も言わず、色鉛筆を持ち直した。
*
昼食のあと、深緋は朝から机に広げていた紋様集の続きを塗っていた。鶸は丸テーブルで、図鑑の別のページを開いている。
青藍が地誌の方をめくりながら「うーん」と呟いた。
「セイラン、なんか悩んでる?」
「悩んでる、っていうほどではないけど」
「歯切れ悪いね」
青藍は地誌を一冊閉じた。別の一冊を開き、それからまた最初の一冊を開き直す。机の上にメモ用の紙を出して、何かを書き写した。
「地名が二つ出てきてさ。同じ地区のはずなんだけど、こっちの本とこっちの本で表記が違う」
「変わったとか?」
「たぶん変わった。けど、いつ変わったかが書いてない」
「ふうん」
深緋は紋様集の続きを塗っていた。話を聞いているけれど、口は出さなかった。青藍の調べ物はだいたいそうやって始まる。一つ気になって、二つ気になって、それから紙にメモを取り始める。いつもの調べ方、いつものやり方。
「集落の記録の方も、途中で終わってる」
「終わってる?」
「ある年で記録が止まってる。次の年から別の地区の記録になってる」
「移転してるってこと?」
「うーん、書いてない」
青藍は少し眉をひそめた。
深緋は、それが何か知識と記憶の中を彷徨っている時の青藍の顔だと知っていた。
鶸は、さっきの獣のページへ戻っていた。丸テーブルに頬杖をつき、片足をぶらぶらさせながら、もう一度その絵を眺めている。
「あ」
「また何か見つけた?」
「うん。なんか書いてある」
「書いてある?」
青藍が机から顔を上げた。鶸は図鑑を持ち上げようとして、重さに負けて少しよろけた。それから両手で抱え直して、青藍の机の隣まで持ってきた。
「ここ」
鶸が指したのは、獣の絵の端だった。
紙の余白に、薄い書き込みがあった。最初は汚れかと思った。けれどよく見ると、細い文字だった。古い鉛筆で書かれたような、かすれた字。
南区第七集落跡。今でいう南区第七地区だ。
薄く、小さく書き込まれていた。
「これ、書き込みだよね」
「誰かがあとから書いたんだろうな」
「南区第七ってどこ?」
「ちょっと待て」
青藍は地誌を引き寄せた。さっきまで見ていた本ではなく、もう一冊の方を開く。目次を見て、指で文字を追っていく。
鶸は机の横に立ったまま、青藍の手元をじっと見ていた。こういう時は、急に黙る。
「ある?」
「名前はある」
青藍が答えて、ページをめくる。
「南区第七集落。今とは違う旧名が載ってる。……でも、記録が短い」
「短いって?」
「場所と人口の記録だけ。あとは何もない。産業とか、移転の記録とか、そういうのがない」
「ふうん」
鶸はわかっているのかいないのか、曖昧な返事をした。
深緋は机の上の紋様集を見下ろした。朝から塗っていた植物の文様。蔓の先に、小さな渦巻きがついている。
南区第七。
その名前に聞き覚えはなかった。
ただ、紋様集の表紙裏に貼られていた分類票の文字が、ふと目に入った。受付で写しを作る時に付けられたものだろう。細い紙片に、資料室の整理番号と、いくつかの項目が印字されている。
異国植物文様写し。南区画旧集落系。
深緋は手を止めた。
「コキア?」
「ううん」
深緋は首を振った。
「なんでもない」
「なんか隠した顔してるー」
「そうかな」
「そうだよ」
鶸が言いながら寄ってくる。青藍も深緋の手元を見た。
「何かあったか?」
「うーん……この紋様集の分類に、南区画旧集落系って書いてある」
「南区第七集落と同じかはわからないな」
「うん。わからない」
深緋は答えて、分類票をそっと指した。薄い冊子は指の下で少しだけしなった。
鶸は図鑑の余白をもう一度見ている。
「じゃあさ」
「うん」
「資料室行ったら、もっとわかる?」
青藍はすぐには答えなかった。地誌のページを見て、図鑑の書き込みを見て、それから深緋の紋様集を見た。
「わかるかは知らない」
「でも見る?」
「見る」
「じゃあ行こうよ」
「許可が出たらな」
「出るよ、たぶん」
「たぶんで動くな」
青藍はそう言いながらも、机の端に置いていた紙に、南区第七集落跡、と書き写した。
深緋はその文字を見ていた。
黒い鉛筆の線は、図鑑の余白に残っていたものとは違って、はっきりしていた。
深緋は少しだけそれを見てから、紋様集へ目を戻した。
遠征前に途中まで塗って、そのまま置いていた冊子だった。続きを塗るだけのつもりだったのに、気がつくと朝からずっと開いている。
蔓の先の渦巻きだけは、まだ白いままだった。
何色にするか決められないまま見ていると、なんだか謎めいていて、少しドキドキした。
(了)
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