case039:傷
5件目の事件は、それまでとは少し違っていた。
事件が起きたのは、イベント会場ではない。
午後9時過ぎ。
仕事を終えた眞壁芸能事務所所属のアイドルが、自宅へ帰る途中だった。
最寄り駅から十分ほど歩いた住宅街。
人通りも少なくなったところで、前方から一人の男が歩いてきた。
黒いジャンパーに、深く被ったキャップ。
どこにでもいそうな中年の男だった。
少女は特に気にも留めず、そのまますれ違おうとした。
その瞬間だった。
「――え?」
男の右手が上がった。
街灯の光を反射する何かが見えた。
刃物。
そう認識したときには、もう遅かった。
「きゃっ――!」
男の腕が振られる。
右のこめかみ付近に、焼けるような痛みが走った。
そのまま刃は斜め下へ走り、右の口元付近まで皮膚を裂いた。
「あああああっ!」
少女がその場に崩れ落ちる。
右頬を押さえた手が、みるみる赤く染まった。
だが、襲った男もまた、その場で動きを止めていた。
「……え?」
男の手から刃物が落ちる。
乾いた音が、静かな住宅街に響いた。
「え……?」
血の付いた刃物。
倒れている少女。
自分の右手。
男はそれらを順番に見た。
「違う……」
一歩、後ずさる。
「違う……俺じゃない……」
「助けて……! 俺じゃない!」
少女の悲鳴に反応して、近隣住宅の明かりが次々とついた。
男はその場から逃走した。
しかし、周辺の防犯カメラから身元を特定され、その日のうちに警察によって身柄を確保された。
そして、その男もまた、これまでの4人と同じことを口にした。
『犯行時の記憶がない』
◇
~警視庁・捜査本部~
「右頬?」
一宮が大型モニターを見ながら首を傾げた。
「はい。今回は右側です」
担当刑事が答える。
画面には、5件の事件の概要が並べられていた。
1件目――左頬。
2件目――左目付近から左口元。
3件目――左頬。
4件目――左目付近から左口元。
そして。
5件目――右こめかみ付近から右口元。
「初めてパターンが崩れましたね」
風祭が言った。
「しかも今回はイベント会場ではない。帰宅途中です」
雨宮も資料を確認する。
「模倣犯かな?」
「その可能性も含めて調べています」
担当刑事が答えた。
「今回の被疑者も薬物検査は陰性。精神疾患の診断歴も確認されていません。本人は犯行を全面的に否認しています」
「また記憶がないって?」
一宮が聞く。
「はい。被害者とすれ違う直前までの記憶はある。しかし次に覚えているのは、血の付いた刃物を持って立っている自分だったと」
「じゃあ、そこは同じか」
「ただ……」
刑事がモニターを見る。
「これまで左側に集中していた傷が、今回は右側です」
「浜山の模倣から外れた……?」
風祭が腕を組む。
「タダのマネしただけカモ」
「それも考えられるな」
シサイの推測に屋敷が答える。
それぞれが意見を交わす中、マリリンだけは黙ってホログラムを操作していた。
机上へ投影した資料を何度も切り替えている。
被害者の傷。
犯人の立ち位置。
現場見取図。
供述調書。
そして――
「……右利き」
小さく呟いた。
「え?」
風祭が振り返る。
「この人、右利きなんですよね?」
マリリンの質問に、担当刑事が資料を確認する。
「ええ。右利きです。防犯カメラでも刃物を右手に持っていることが確認されています」
「被害者とは正面から?」
「はい」
「そのまま近づいて、右手で切った?」
「そうなります」
「……変じゃない?」
マリリンが立ち上がった。
「何がだ?」
屋敷が尋ねる。
「右頬ってことじゃなくて」
マリリンは大型モニターへ第五被害者の傷を表示した。
右のこめかみ付近から、右の口元へ、斜め下へ走る一本の傷。
「この向き」
「向き?」
「犯人は右利き。被害者と正面から向かい合ってる」
マリリンは右手に刃物を持つような格好をした。
「普通に振りかぶって――」
右腕を外側から内側へ、斜めに振り下ろす。
「こうでしょ?」
雨宮が頷く。
「一般的には、そうなるでしょうね」
「そうすると、相手のどっち側に刃が入りやすい?」
「……左側」
風祭が答えた。
「だしょだしょ?」
マリリンはモニターを指した。
「今までの4件は、それで説明できるんだよ。全員右利き。正面から右手で振って、被害者の左側を切ってる」
そして第5件目の写真を見る。
「でも、こいつだけ顔の右」
「手元が狂っただけの可能性もあるだろ」
嵐司が言った。
「私も最初そう思ったんだけどさ」
マリリンは右腕を身体の内側へ寄せた。
そこから外側へ向かって斜め下へ振る。
「この傷作るなら、こうじゃない?」
先ほどとは逆方向。
身体の内側から外側へ抜くような、不自然な動きだった。
「……確かに」
風祭も同じ動きを真似してみる。
「やりにくいですね」
「でしょ?」
「ですが、不可能ではありません」
雨宮が言う。
「もちろん。普通にできるよ」
マリリンはもう一度、内から外へ腕を振った。
「でもさ。人を襲うときに、わざわざこんな切り方する?」
「右頬を狙ったからでは?」
「だったら右手で切ったんだから、顔の内から外にかけての傷にならない?」
「あ……」
「右頬を傷つけたいだけなら、もっと自然な切り方はいくらでもある。なのにこの人は、わざわざ内から外へ振って――」
マリリンは写真を拡大する。
「右の目元から、右の口元まで切ってる」
これまでの被害者の傷を横に並べた。
「……あ」
風祭が声を漏らした。
左右は違う。
しかし傷の形そのものはよく似ていた。
目の横から始まり、斜め下へ走り、口元へ到達する。
「左右逆になったのに、傷の走る方向は変わってない」
一宮もティーカップを置いて、モニターを見る。
「じゃあ、偶然右側を切ったんじゃなくて……」
「多分――」
マリリンが傷を指でなぞった。
「顔の右側にこの形の傷をつけたかった」
「犯人が?」
「うーん……」
マリリンはその言葉を濁した。
全員の視線が集まる。
「これ、操ってる奴が能力者だとしてさ」
マリリンの表情から、いつもの軽さが消えた。
「そいつ、言葉で命令してないのかも」
「『右手で刃物を持て』『この子に近づけ』『左頬を切れ』みたいに、一個ずつ命令してるんじゃない?」
マリリンは自分のこめかみを指差した。
「もっと直接的に、頭の中へ入れてる」
「精神干渉……」
「うん。でも言葉じゃなくて、イメージとか、意識とか」
捜査本部が静かになる。
「例えば」
マリリンは第五被害者の写真を指した。
「『この顔を、こうする』」
目元から口元へ指を動かす。
「完成した状態を頭の中に流し込む。操られた人間は、そのイメージを実現するために身体を動かす」
「だから、今回の被疑者は……」
雨宮が第5被害者の写真を見る。
「右利きでありながら、内側から外側へ刃物を振った」
「そう」
マリリンが頷いた。
「操ってる奴は今回、右側を狙わせたかった。でも…」
2件目と4件目の写真を見る。
「頭の中にある『顔を切る』ってイメージは、これだった」
目の横から口元へ斜めに走る傷。
「だから右側に変えても、傷の形までは変わらなかった」
「能力者本人のイメージが、操られた側の動作に反映された……」
風祭が呟く。
「私はそう思う」
「でも、なんで今回は右に変えたんです?」
「そこまでは分かんない」
マリリンは腕を組んだ。
「ただ――」
5件の資料を見渡す。
「五回も続けて同じ場所を狙えば、警察だってパターンに気づく」
「捜査を撹乱するため?」
「かもしれない」
屋敷がマリリンを見る。
「つまり、お前は第5件目も同一の能力者による犯行と考えているんだな」
「むしろ私はこれ見て、その可能性が上がりました」
「わざわざ変な腕の動きしてまで右を切ってる」
マリリンは目を細めた。
「犯人本人の頭の中に、ものすごく強い『傷のイメージ』がある気がする」
屋敷は何も言わなかった。
マリリンも、それ以上は踏み込まなかった。
この時点では。
それが誰の記憶から生まれた傷なのかまでは、分からなかった。




