case025:美波の覚悟
警察ではあわただしく捜査員が右往左往していた。
警察官による殺人事件と、誘拐事件。二つの重大事件を並行して進めていたのだ。
「被疑者から入電です!」
岡本ケミカル社長、岡本正義は警察の合図で電話を取った。
「もしもし……」
『岡本正義、あなたの娘を無事に返してほしければ、今から送る座標に来なさい。会社の投稿フォームに送る。あんたの父親と一緒に2人で来なさい。そうすれば娘は必ず返す。警察や特対庁を近く寄こせば、娘を殺す。早く来なければ、娘が衰弱するぞ。待ってる』
「待ってくれ……!」
一方的に要求を言われると、電話は切れた。
入電の内容は特対庁にも共有され、特務隊も知ることとなった。
内容を聞いた嵐司は何度も美波に電話をかけるが、コールのみで応答はなかった。
「中津川教官……!」
ほどなくして、誘拐された少女は目を覚ました。
岡本ケミカル社長の娘、岡本麗。小学4年生。大物政治家、岡本幸次郎も溺愛する孫。あの岡本親子でも孫や娘の命がかかれば、自らの罪を認めるだろう。
美波は母親だからこそ、子供が人質に取られることの重さを理解していた。
麗は異常な状況に、涙が溢れている。
「ママ、パパ……」
小さな声で震えている。美波はそれを見下ろす。何も言わず、ただ見ている。
麗の目には、美波が悪魔のように見えているだろう。
「パパが来れば、あなたをママのもとに返してあげる」
優しさなどない。冷酷な声だった。
「パパに何かするの……?」
「あなたのパパはね。悪いことをしたの。だからお仕置きを受けないといけないの」
「パパは悪くないもん!! パパは悪いことなんてしてない!!」
麗は叫ぶ。子供だから仕方がない。父親や祖父の悪行など知る由もない。
しかし、その訴えは美波にとっては非常に聞き心地の悪いものだった。
「うるさい!! あんたの父親やじいさんは、最低の人よ! 人の子や夫を殺して!」
怒鳴る美波に、麗は泣き出した。
我に返る美波は、子供相手に怒鳴ったことに対し、頭を抱え自責する。
「ごめんね。怒鳴って。でも、あなたのパパやお爺さんは、私の大事な子供とそのパパを殺したの。だから悪いことをしてるの。あなたのパパがくれば、あなたはお母さんのところに返してあげるから」
「……パパの……あさって、たんじょう日なの……」
少女が言う。言葉が途切れる。
「おすし……食べるの……」
泣きながらも必死に続ける。
「ヒサギクのおすし……パパ好きなんだもん……おじいちゃんもいっしょに食べるの」
美波の手が、わずかに震え始める。
「パパやおじいちゃんに……ひどいことしないで……」
その言葉で。何かが止まった。
時間が、止まったように。
麗の顔が、自分の大事な存在の顔と重なる。
美波は動かない。ただ、その場に立っている。
目の前の少女を見ている。
そして。ゆっくりと。息を吐いた。
「……そう」
小さく呟く。声はほとんど消えそうだった。
美波は一歩下がって距離を取る。
そして目を閉じ、電話をかけた。
「投降する」
その瞬間、何かが戻った気がしたと同時に、何か大事なものが崩れ落ちた感覚に陥った。
「行きなさい……」
麗は、恐る恐る立ち上がると、後ずさりをしながら入口に向かい、一気に駆けだしていく。
どれくらい経ったかは分からないが、サイレンの音が遠くから聞こえてくる。
美波は動かない。
ただ、その場にへたり込んで、天を仰ぐ。全てが終わった。全てが……
やがて、閃光弾が炸裂する。
気づけば、美波は組み伏せられていた。
そこからの記憶はあいまいだった。全てが幻想のように、夢の中のように、スローモーションで、耳にフィルターがかかったかのように、感覚の全てがぼんやりとしていた。
なされるがまま。彼女は逮捕された。
翌日の警察署。美波は取調室ではなく、別の部屋にいた。
異様な空気だった。対面に座る女性刑事。美波と同じくらいの年齢だ。
彼も動揺しているように見えた。彼としてもこんなことは初めてなのだろう。
美波は無言で座っているが、手錠は外されている。
「……今回の件だけど、相手方は大事にはしたくないらしい。被害は取り下げ」
岡本正義は、娘の誘拐事件を訴えれば、その背後にある事情も探られると思ったのか、示談を申し出たのだ。
しかも、被害を受けた岡本側が美波に多額の金を渡す形で。明らかな口封じだった。
「娘が無事ならそれで十分だ。訴えは出さない。弁護士を通して示談する」
岡本の言った言葉に、刑事も、弁護士も顎が外れるほど驚愕した。
「……ただし」
岡本の目が、わずかに細くなる。
「二度と関わらないようにしてくれ」
低い声。圧がある。
「これ以上、妙な動きをすれば――」
そこで言葉を切る。言わなくても分かるということだ。強烈な圧だった。
数秒。やがて、岡本は視線を外した。
「……見舞金を渡してやれ。金額は相手の言い値でいい」
弁護士に命じると、岡本は美波のいる部屋へと向かった。刑事は止めるが、岡本が目で無言の圧をかけると、刑事は引き下がった。
うつむく美波。そこにズカズカと岡本が入っていく。
「夫を亡くして大変だろう」
その言葉には棘があった。本当にそうは思っていない。
「お前の言う額でいい。くれてやる。生活の足しにでもしろ」
岡本は白紙を投げるように机に置いた。
「後でうちの弁護士に渡せ。振り込ませる」
それ以上でも、それ以下でもない。
美波は動かない。手は伸ばさない。ただ見ている。その視線はどこか虚で遠い。
「これで終わりだ。もう関わるな。何も言うな。行方不明の夫と子供に犯罪者の家族という汚名を着せたくないだろう」
あくまでも“行方不明”。岡本はそれだけ言って、部屋を出ていく。
ドアが閉まると静寂が支配した。さすがの刑事も憤っていた。犯行の背景は分かっている。
美波は、しばらく動かなかった。
やがて。ゆっくりと白紙に手を伸ばす。その瞬間。
ほんのわずかに、震えた。白紙を持ち上げる。
そして――
一気にぐしゃぐしゃに丸めると、壁に叩きつけた。
そして静かに、泣いた。悔しさと怒りでこみあげた涙があふれ続ける。
女性刑事は、何も言わず、彼女の背中をさすった。
「日比谷さん……自分を……自分を大事にね」
特務隊も麗を聴取した刑事から、内容を聞いた。
美波は、麗の“パパとおじいちゃんと一緒に誕生日にお寿司を食べたい”という言葉で、犯行を思いとどまったと。
心優しい美波の心情を推し量るだけで、胸が締め付けられた。
なぜ、心優しい母親がこんな目に。そして、権力を前に何もできない自分たちの不甲斐なさを憎んだ。
翌日。
特対庁に一本の連絡が入る。電話は警視庁捜査一課の平岡からだった。
「日比谷美波の所在が確認できない」
押収した証拠品を返却する予定だったが、指定した日時に美波が来なかったのだ。
連絡もつかない。自宅にもいない。特対庁人事部に連絡がいったのだが、彼女は昨日付けで懲戒免職となっている。人事部でも所在は分からなかった。
そこで、美波と接触があった特務隊に連絡がきたのだ。
事情を聴いた屋敷は、嵐司に連絡を取るよう命じた。
嵐司はホログラムを起動させ、美波に連絡を取る。誰もが得も言われぬ不安に包まれていた。
長いコール音。スピーカーにして、皆に聞こえるようにしていた。
約1分近いコール音の後、電話がつながった。
嵐司は恐る恐る声をかける。
「中津川教官、嵐司です……大丈夫ですか?」
応答はないが、背後には、人の声が多く聞こえる。街中だろうか。
「今、どこですか? みんな心配してます」
沈黙の後、消えそうな声が聞こえた。
『……もう無理だ』
短い言葉。その瞬間、空気が変わる。
『生きているのが、苦しいんだ』
『あの子と、あの人がいない世界は……考えられない』
声が、震えている。
『納得できないんだ』
嵐司も、他の誰も何も言わない。
ただ聞いている。
『……すまないな。こんな、ダメな教官で』
「そんなこと……ありません……教官は強い人です…! 一度会って話しましょう』
通話の向こうで、微かな雑音。人の気配。遠くのざわめき。
「教官」
『……今までありがとう。みんなにもそう伝えてくれ』
その言葉で通話は切れた。
ツーツーと無機質な音が残る。
雨宮が叫ぶ。
「教官、まさか……!」
皆が最悪の事態を予想した。
「行くぞ! 絶対に死なせるな!」
屋敷の力強い声で皆が動き始める。
「私は、旦那さんたちが転倒して流されたって場所行きます!」
雨宮がそう言って走り出すと、風祭も続いた。
「僕は、自宅へ!」
残りの面々もそれぞれ思い当たる場所へと向かう。
一人残された嵐司。
思い出していた。さっきの美波の声。背景の音。
そして――
今日の日付。今の時間。
「……違う」
小さく呟く。
そして嵐司は顔を上げ、走り出した。
向かう先は、わかっていた。
あの場所。あのとき聞いた言葉。点と点が線になる。




