case026:星
夕方。午後6時。美波は街中に立っていた。
髪はボサボサで、毟った跡があった。服装は逮捕されたときと同じで、たった数日での変化とは思えないほど、やつれていた。
店の前には、穏やかな空気があった。
柔らかい灯り。暖簾。ガラス越しに見えるカウンター。高級な寿司屋だ。
その前に、一組の家族が通りかかった。
「パパ〜! 今日はここで食べよう?」
少女が父の手を引き、無邪気に笑う。
父親は少し驚いた顔をする。
「どうしたんだ急に?」
「だって今日誕生日でしょ? だからパパの好きなお寿司!」
少女が浮かべた笑顔に、母親が苦笑する。
「この子、お小遣いで出すって聞かなくて。足りない分は私が出すから」
穏やかな会話。幸せそうな家族。
美波にも訪れるはずだった暖かい未来、幸せな光景。
しかし、もうそれは叶わない。
誘拐されたのに、少女はすでに元気を取り戻していた。表面上だけかもしれないが、金にものを言わせて手厚いケアがされているのは間違い無いだろう。
日比谷美波は、耐えられなかった。この世に生きていることが。
彼女の気配は薄い。
ゆっくりとその家族の背後から近づく。
通行人は誰も気に留めない。
父親が暖簾に手をかける。
その瞬間、その父親の白いシャツ――右脇腹あたりが、赤く染まる。
クチャっという液体質な小さな音が鳴った。
粘つくような、嫌な音。
「……?」
父親は右に顔を向ける。理解が追いつかないまま、もう一度音が鳴る。
二度目でやっと理解した。
自分が刺されているのだと。
「なんで私の子と夫を殺した」
一瞬で誰かがわかった。
犯人の女は、日比谷美波。
殺害させた刑事の妻。恨まれているのだと瞬間的に悟った。
「ぐあっ……私は……悪くない! あの事件に…首を突っ込まなければ……」
そして、三度目。
「死ね」
低い声。無機質だが、その奥に怒りが渦巻いている。
美波は止まらない。
腹。胸。首。
何度も、何度も。力の限り、突き刺す。
「死ね、死ね、死ね」
呪いのように繰り返す。
父親は崩れ落ち、足が交差したまま、歪な仰向けになった。
美波は止まらない。倒れた体に乗ると、叩きつけるように刺し続ける。
肉が裂ける音。血が弾ける音。たまに硬い物に当たるようなゴツゴツという音も鳴っていた。
その間約10秒。
「一誠と、旦那を返せ……!」
掠れる声で言う。
「あんたのクソ親父はどこ……? あいつも同罪よ……!」
すぐに悲鳴が上がった。
少女も動けず、ただ惨状を見ている。目の前で起こっている現実を。
腰を抜かす母親だったが、何とか娘を引っ張って、自身の背後に隠そうとする。
しかし少女の足はもつれて倒れ込む。母親は引きずってでも娘を自身の方へと移動させようと必死だった。
「麗ちゃん…! 麗ちゃんこっち!! ダメ! やめて!!」
「なんで……?」
少女の震える声。
「なんでパパが……?」
その言葉に、美波の手が止まる。
そして、少女の方を向いた。少女は見たことのある顔だと気づいた。
しかし、少女が見た時の目とは違う。その目はもう、人のものではなかった。
「こいつが生きてるのが、たまらなく辛い」
美波は壊れていた。
「苦しい……」
美波は、動かなくなった父親の体を踏みつけながら、ふらふらと立ち上がる。
一歩、また一歩と、少女に近づく。母親は失禁しながらも、なんとか自身の体を少女にかぶせて我が子を守ろうとしている。
「こんな人間のクズが、幸せを感じてるのが許せない」
柄まで真っ赤になった包丁が、振り上がる。
「あなたのパパはね。何の罪もない人を殺した」
「それどころか、世のために命をかけた尊い人を殺した」
声が、わずかに震える。
「そして、私達の宝を殺した。金や保身のために」
「許されると思うなああああ!!!!」
一歩、踏み出す。
「お前ら家族も同罪だ」
包丁が振り上げられる。
「やめろ!!」
強い叫び声。嵐司だった。
全力で走ってくるが間に合わない。
「教官!!!」
嵐司の声をしても美波は止まらない。
そして、振り下ろした。
自分の首へ。
右の首筋。
深く。強く。刃の真ん中あたりまで刺した。
血が勢いよく噴き出す。
「……死…ぬ…まで」
血を噴き出しながら、空気が掠れた声が出る。
「苦……め」
視線は少女へ。
「目に……焼き……ろ」
美波は崩れ落ちる。
数日後。
美波も岡本も、回復系特異能力のおかげで一命を取り留めた。
しかし、両名とも植物状態。
心臓がかろうじて動いている。ただそれだけの状態だ。
事件は、殺人未遂で処理された。
報道では、犯行の背景は伏せられた。
当時会合で一緒にいなかった岡本幸次郎がマスコミに手を回したのだ。
後に、殺人で逮捕された課長や、もう一人の刑事の供述から、犯行の全容が明らかとなった。
美波は、接触した人の存在を位置として感じることができる能力を獲得していた。
その能力を使って、半グレを見つけ出して殺し、参事官や和田が接触している場所を突き止め、岡本とのつながりを把握していた。
しかし、法では裁くことはできない。だから、課長たちが美波に変わって、仇を討った。
美波には手を汚してほしくない。それが課長たちの願いだった。
岡本幸次郎は、体調不良として政界から退いた。もちろん火消しのためだ。
結局、巨悪の片割れは裁かれなかった。
夜。病室。
機械の電子音が、規則的に響く。
薄暗い室内。光は最小限。
美波は、ベッドの上にいる。意識は深く沈んでいる。
植物状態の彼女は夢を見ていた。
明るい場所。温かい空気。笑い声。
横には息子と夫がいる。
何気ない会話。何気ない時間。
ふと。夫の姿が霧になって消える。
手を伸ばして掴もうとするが、実体はない。
次に息子が空を見上げる。
そしてゆっくりと浮かび上がる。
「一誠」
息子を呼ぶが、声は届かない。
最愛の息子は上空で眩しいほどに体が光る。
光の粒子となって夜空に霧散する。
大きな光がいくつも世界へと広がっていく。
さらに小さな光が細かく、無数にゆっくりと、美波から離れるように広がっていく。
絵具が水に溶けていくように、世界中に溶けていった。
美波は、それを見上げている。表情は、分からない。
ただ、その光景は美しかった。美波にとってはこの世の何よりも。
そしてどこまでも、残酷だった。
星々は、ゆっくりと輝きを増していく。
静かに、でも確かに世界中で存在している。




