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case024:正義か悪か


 夜。

 部屋の明かりはついていない。カーテンも閉められている。ただ、外の街灯の光だけが、薄く室内を照らしていた。


 日比谷美波は、静かに床に座っていた。

 何もしていない。ただそこにいる。


 手には黒いノート。夫が残したものだ。

 何度も開いた跡がある。

 どのページに何が書いてあるかは、ほとんど覚えている。

 それでもまた開く。同じところを何度も何度も。

 これ以上なんの手がかりもないのに。


 半グレの名前。金の流れ。定金合同会社。そして、その先。


 書かれていない“空白”。そこにあるものを、美波は知っている。

 証拠はない。だが感じている。それだけで、十分だった。

 ふと視線が動き、何もない空間を見る。


 “いる”


 確かに。微かに。遠く。

 バラバラに。いくつも。胸が締め付けられる。

 完全な形ではない。もう戻らない。それでも――


 “存在している”。その事実に美波の肩が、わずかに震える。


――美波、すまない、一誠が……――

 

 鮮明に再生される夫の最後の声。


「……許さない」


 誰に向けた言葉かは分からない。


 そのとき。スマートフォンが震える。

 着信だ。静かな部屋を満たすように着信音が鳴り響く。

 表示された名前を見て、美波は一瞬だけ目を細めた。

「……もしもし」


『俺だ』

 低い男の声。


「……課長」

 組織犯罪対策部の課長。誠の上司。

 そして――

 唯一、まだ繋がっている“警察側の人間”。


『一課の平岡係長から聞いた。特対庁も止められたな』


 美波は何も答えない。


『……すまん』


 その一言に、ほんの一瞬だけ表情が揺れるが、すぐに消える。

「いいえ。課長にはよくしていただきました。少しだけ、気が晴れました」


 絶望に支配された小さくか細い声。気など晴れていない。ただトカゲのしっぽを切っただけだ。


「最初から、分かっていました」

 嘘ではない。最初から、どこかで分かっていた。正しく終わらないこと。


『メールでデータを送った。今回の件の真相だ。今開けるか?』

 美波はメールホログラムを立ち上げて、添付データを開いた。


 大量の簡易的な報告書。


「どうやって捜査を……? 警察も止められたはずじゃ……」


『アンタの旦那は人望があってな。日比谷のためならって、クビ覚悟で多くの者が協力してくれた』


 報告書には刑事だけでなく、生活安全、交通、公安、自動車警ら隊や機動隊にいたるまで、多くの警察官個人の名があった。


「今……見てます。ありがとうございます……」


『真相はそれ通りだ。岡本ケミカルの岡本正義が、OL……の皮を被った外国産業スパイに醜態を晒し、それを脅しに金と情報をすっぱ抜かれた』


『産業っていっても裏稼業だけどな。臓器売買と違法薬物だ。この情報が抜かれたことが知れれば岡本一族もタダじゃ済まない』


『で、耐えきれなくなり半グレに殺させた。それを諦めずに捜査してたのが日比谷だ』


「課長はどうされるんですか?

 ほんのわずかな沈黙。だが、それで十分だった。

『俺たちは俺たちでケリをつけようと思う……それがせめてもの償いだ』


『定金の和田の場所は分かるか?』


「……はい」

 迷いはない。美波は課長に場所を伝えた。


 課長は小さく息を吐く。

『……なら、俺たちは動く』


 その言葉に、初めて美波の目が揺れた。

「……本当にいいんですか?」


『いいわけないだろ。俺にも元木にも家族がいる』

 即答だった。


『けど、このまま終わらせる方が、もっと良くない。俺にとっても日比谷は大事な部下だった。一誠君はその大事な部下の子だ』


『これは俺たちの……正義の味方としての最後の抵抗だな』

 その言葉に美波の目から涙がこぼれ、頬を伝う。


『君は生きろ』

 短く、強い言葉。


 美波はゆっくりと目を閉じる。

 そして……

「課長、無理はなさらずに……」

 その声は、静かだった。




 翌日の夕方、定金合同会社の和田と、警視庁組織犯罪対策部参事官の安岡祥一は刺殺体として警視庁本部の車両内から発見された。


 逮捕されたのは、警視庁組織犯罪対策課の課長である山木司と、警部補の元木宏次朗だった。


 警視庁本部に2人で自首。刃物を提出し、遺体の場所として、捜査用車両のトランクを示した。


 2人の言う通り、後部座席からは参事官が、トランクからは和田が発見され、一見しただけでも滅多刺しにされたのが分かるほど凄惨なものだった。


 2人は緊急逮捕され、その様子は一般来庁者にも目撃されることとなり、すぐさま大きく報道された。


 美波はというと、魂が抜けたように夕陽に照らされながら住宅街に立っていた。

 買い物帰りの親子、母親と子供が手をつないで歩いている光景が、美波の視界に嫌でも多く入ってくる。

 彼女は歩みを再開した。



 まだ幼い女の子。ランドセルを背負い、母親と手を繋いで歩いている。

 何度も確認していた。帰宅時間。通る道。

 周囲の人の流れ。

 全て頭に入っている。

 完璧だった。


 あとは――やるだけ。体がわずかに動く。

 だがそのとき。ふと足が止まる。


 視界の中の少女が無邪気に笑っている。何かを話している。母親がそれに応えている。ただの、どこにでもある光景。

 それが妙に遠く感じる。


 美波は一瞬だけ目を伏せた。


 次の瞬間にはもう迷いは消えていた。


 歩き出し、人の流れに紛れる。

 自然に、何気なく距離を詰める。

 母親と少女の後ろについて、タイミングを測る。

 角を曲がり人通りが減る。その瞬間、美波は動いた。


 少女の口元に麻酔薬を含ませたハンカチを当てて、意識を失わせる。


 母親が振り帰る。

 母親が声を上げるよりも先に、美波は低く言った。

「騒がないでください。動けば娘さんを刺し殺します」


 静かな声だった。女児の首元には反射して光る刃物があった。

「私はすでに一人殺しています。脅しじゃありません」


「あなたの夫が私の言うことを聞けば、この子に危害は加えません」

 母親の顔が青ざめる。声が出ず足も動かない。

 その一瞬で十分だった。

 美波はそのまま少女を抱え、角の先へ消える。

 姿が消えて数秒後、母親は腰を抜かして倒れ込んだ。


 美波は走らない。しかし、素早く付近に停めていた車に乗り込む。


 そこからは、目的地に向けてただひたすら走った。



 特務隊執務室でも、警察官2名による刺殺事件のニュースが流れていた。


「屋敷……」

 一宮は、持っていたコーヒーを静かに置いた。


「ああ。警察も分かってるんだろう。これ以上は手出しできないと。だから強硬手段に出た。憎しみを晴らすために」


「日比谷のために、仇を討ったってわけね……」


 風祭は誰に問うでもなく、言った。

「これでいいんですかね……?」


「言い分けないでしょ……!」

 雨宮は怒りをにじませながら答える。


「ビビったタイチョー、マジでムカつく」

 マリリンはそう呟いた。


 すると、屋敷に連絡が入る。

「はい、どうしました?」

 少し間を置いて、屋敷は鋭い目つきとなった。


「それは……まだ終わってないということですか?」

 その言葉に皆が勘付く。一連の事件のことだと。


「わかりました。こちらも向かいます。場所は追って送ってください」

 通話を終えると、屋敷は皆に指示を出す。


「平岡さんからだ。岡本ケミカル社長の奥さんと娘さんが何者かに誘拐されたそうだ」


 嵐司は立ち上がる。

「まさか……」

 屋敷はその先の言葉をわかっていた。

「それはまだ分からん。とにかく、車で移動してるらしい。警察も動いてるが、滅多刺し事件もあって捜査一課も大忙しらしい。俺たちも出るぞ」


 その言葉に皆立ち上がると、急いで準備を始めた。


 嵐司は気が気でなかった。犯人は……

 そう考えるだけで、胸が締め付けられる。これ以上最悪の状態になってほしくない。そう願うばかりだった。

 


 郊外。周りには田んぼや畑のみで、民家も少なかった。その中にポツンとたたずむ廃墟。

その廃墟の中で、美波はぐったりと倒れた少女を下ろした。

「ごめんね……」

 美波は小さくつぶやいた。



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