case023:最後の希望
〜特務隊執務室〜
「タイチョー」
先に執務室に入り、自席へと歩いていく屋敷。マリリンは彼を背後から呼んだ。
その声色はいつものように明るいものではなく、刺々しさを感じるようなものだった。
先ほど国会議員の岡本から受けた脅しに特対庁が引き下がったことについて思うところがあるのだろう。
しかし屋敷は無視して座席につく。
すると次は、屋敷の席の真ん前に立ち、彼に問いかけた。
「タイチョーってば、さっきのなんなんです?」
それでも屋敷は何も言わない。眉間に皺を寄せて目を閉じている。
「オイコラっ、タイチョー、あんたビビってんじゃねえわよ!」
マリリンは声を荒げて屋敷のデスクを思い切り叩いた。
彼女の行動に、屋敷も鋭い目を向ける。
一触即発の雰囲気。
普段から信頼関係が厚い2人だからこそ、周りの空気は凍りついた。
「鞠子、落ち着きな」
マリリンの肩に手を置いてなだめたのは、一宮だった。
「ありゃどうしようもない。私らは公務員。上の承認がなきゃ何もできないのさ」
「紀乃さん……そりゃ分かってるけどさ……」
一宮の指摘に、マリリンは肩を竦めた。
だが彼女は引かなかった。ゆっくりと力強く拳を握りしめる。
「じゃあ、教官はどうなるんですか」
誰も答えない。
「旦那さんと子供を殺されて、犯人も分かってて、上に揉み消されて、それで終わり? “公務員だから”? “上の承認がないから”?」
「鞠子」
一宮が低く名を呼ぶと、マリリンは口をつぐんだ。
「僕たちはなんのために特対庁にいるんですかね」
風祭の言葉に、執務室の空気が沈む。
「僕たちは能力犯罪に特化してはいるものの、人を守るため、治安を守るためにやってるんじゃないんですか?」
しばらくの沈黙を経て、屋敷は静かに口を開いた。
「仲間を守るためだ。今動けば、平岡さんも狙われる。中津川も狙われる。お前たちもだ」
「俺は特務隊の長として、仲間の命を最優先にする」
屋敷は俯いたまま、静かに言った。
「だから今回の件はここまでだ」
それでも雨宮は納得がいかなかった。
「でもっ……」
「雨宮、今回の件はここまでだ」
屋敷の声が、初めて強くなった。
「相手は、俺たちが正面から殴って倒せる相手じゃない。政治家、警察上層部、大企業、反社。その全部が繋がってる。今の俺たちが動けば、正義ごと潰される」
雨宮は唇を噛んだ。何も言い返せなかった。
屋敷の言っていることが間違っていないと分かっていたからだ。
だが、納得などできるはずがない。
「……クソですね」
雨宮が呟く。
「ああ、クソだ」
屋敷は短く答えた。
その言葉だけが、執務室に残った。
同じ頃。
日比谷美波は、特対庁本庁舎の廊下を歩いていた。
足取りは静かだった。
表情も乱れていない。
だが、その顔には血の気がなかった。
向かった先は、監察部門。
警察がダメなら、特対庁に頼るしかない。
特対庁は能力犯罪を取り締まるだけではない。
警察と同じように、他の公的機関の不正を取り締まる役割も持っている。
彼女が頼るのは特対庁の中でも、内部組織の不祥事には目を光らせている監察部門。
特対庁が今回の片棒を担いでいるわけではないが、不祥事が特対庁にまで波及することを恐れ動くだろう。
これほどの大きい案件。監察部門の実績にもなるはずだ。
彼女だけの力では、黒幕まで行き着くことはできない。
政治家の岡本が庇っている何者か。それが今回の元凶。それを見つけ出すには、捜査機関を頼るしかない。
そしてその元凶を見つけ出せば……
彼女の手には、黒いノートと、端末にまとめた資料があった。
夫が残した手帳。
半グレの連続殺人。
定金合同会社。
和田壮太。
警視庁組織犯罪対策部参事官。
そして、岡本一家。
まだ証拠としては弱いが、繋がりはある。
少なくとも、調査を始めるには十分なはずだった。
「……日比谷さん」
応接室に通された美波を待っていたのは、監察部門の職員ではなかった。
特対庁長官補佐官。
そして、見覚えのない男が二人。
スーツ姿。弁護士か、あるいはそれに近い立場の人間だろう。
美波は、すぐに理解した。
話は、もう通っている。
「座ってください」
「いえ。このままで結構です」
美波は資料を差し出した。
「夫の事件について、再調査をお願いします。事故ではありません。警察内部の人間と、外部組織が関与しています」
補佐官は、困ったように眉を下げた。
「日比谷さん、お気持ちは分かります」
「分かるはずがありません。私はもう来るところまで来ています。特対庁も調査をしないのなら……私も覚悟を決めるつもりです」
静かな声だった。
しかし覚悟が宿っていた。
「夫と息子は殺されました……その件は、警察が事故として処理しています。遺体も見つかっていません」
その言葉を待っていましたと言わんばかりに、補佐官の口角が少し上がった。
「その通りです。だからこそ、断定はできません」
「なら、なぜ事故死として処理されたんですか」
「それは警察の判断を元にしているからです」
「特対法違反者が関係しています」
「現時点では、確定的な証拠がありません」
何度も聞いた言葉だった。
証拠がない。
確定していない。
管轄ではない。
判断できない。
人が死んでいるのに。
子供が消えているのに。
これまで何度も聞いたことのある案件。
人が死んだ、子供がいなくなった。
だが、自分の大事な人になった途端に立ち止まることはできなくなった。
「この資料を、長官に上げてください」
「できません」
「なぜですか」
「正式な捜査資料ではないからです」
彼女は補佐官を睨みつけるが、彼は目を逸らした。
その瞬間、美波は理解した。
この人も、怖いのだ。
正義よりも。
真実よりも。
自分の椅子と家族と将来が大事なのだ。
不思議と責める気にはなれなかった。自分も同じだからだ。
「では、私は個人として告発します」
「それもお勧めしません」
それまで黙っていた男の一人が口を開いた。
「名誉毀損、業務妨害、守秘義務違反。場合によっては、あなた自身が刑事責任を問われます」
「私が?」
「はい。あなたは特対庁に在籍した。それは辞職しても変わりません」
男は淡々と言った。
「ご主人の件についても、あまり騒ぎ立てれば、別の見方をされる可能性があります」
「別の見方……?」
美波の声が、少しだけ低くなる。
「旦那さんが警察内部の情報を外部に流していた。半グレと繋がっていた。資金の流れに関与していた。そういった疑いが出るかもしれません」
美波は息を止めた。
「夫に、汚名を着せるつもりですか」
「あくまでも可能性の話です」
男は表情を変えない。
「それに、お子さんについても」
「息子がなんだっていうんですか……」
男はわずかに口元を緩ませる。
「行方不明……ですよね」
その一言で、美波の中から音が消えた。
「死亡が確認されていない以上、いろいろな可能性があります。家出、連れ去り、他にも……親族間の問題。世間は勝手な想像をします」
「裏社会に通じるような父親が、実の息子を手にかけた……なんて」
その言葉に、美波は男に詰め寄った。
しかし、控えていた監察の人間が彼女を制する。
「申し遅れましたが、私、監察部から嘱託されている弁護士の坂井直人と申します。暴力沙汰などなさいませんよう」
その男、坂井は煽るように尋ねた。
「一応確認ですが、実の息子さんでよかったですよね?」
「殺す……!」
美波は震える声でそう言い、坂井につかみかかる。
「やめなさい!」
監察職員が複数人で怒り狂う彼女を抑えた。
「あの人とあの子のこと何も知らないくせに、適当なこと言うな!!!」
抑えられながらも
「何もせず、静かに過ごされた方がいい」
「……」
「ご主人とお子さんの名誉のためにも」
その言葉は優しさの形をしていたが、中身は脅しだった。
美波は組み伏せられながらも資料を握りしめた。
紙が歪み、爪が食い込む。
叫びたかった。
殴りたかった。
泣きたかった。
だが、何もできなかった。
まさに組織の縮図だった。
小さな個は、組織によって潰される。
目の前にいる人間たちは、誰一人として夫を見ていない。
息子を見ていない。
死んだ人間も、消えた子供も、ただの処理すべき、蓋をしておくべき厄介な情報でしかなかった。
「……分かりました」
美波は抵抗を辞めて、小さくそう言った。
すると補佐官が安堵したように息を吐く。
その顔を見て、美波は感じ取った。
この人たちは早く終わらせたいだけなのだ。
誰かに媚びるために。
何もかも。
夫も。
息子も。
自分の人生も。
全部、なかったことにしたいだけなのだ。
庁舎を出ると、外は夕方だった。
空は赤く染まっている。
美波は、しばらく立ち止まっていた。
手には、くしゃくしゃになった黒いノート。
夫が残した唯一のもの。
ふと、足元が揺れたような気がした。
立っているのに、沈んでいくようだった。
誰も助けてくれない。
警察も。
特対庁も。
法も。
正義も。
全て遠かった。




