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太一 と カヨ  作者: 九月 草次
13/14

13

 タクシーの窓からずっと見えている富士の山が、少しずつ大きくなっていく。車は表富士宮五合目で止まった。運転手の人から頂上まで5時間くらいかかると聞いた。カヨはゆっくりと車から降り、その見えない頂を見上げた。保奈美と誠治は怖じ気づいて、これから挑もうとしている過酷さだけが頭を過ぎていく。

「お婆ちゃん、諦めるなら今よ」

「そんな気はさらさらないよ。さあ、行くよ」

 カヨは杖を持ち、歩き始めた。

 この日をどれだけ望んでいたか……。約束した場所。自分が生きているうちに叶えたかった最後の願い。それが今、目の前にある。必ず登ってみせる。カヨの全身から力が溢れていく。カヨは一歩ずつ踏みしめて歩き始めた。自分のペースを感じながら何度も休憩を取り、時間をかけて登って行った。

 この上に何があるのか。それは登った者しか知ることが出来ない。だからそれを確かめに行く。カヨの中でそこは……日本で一番天国に近い場所だった。

 3時間が過ぎ、夕日を見ながら八合目の山小屋まで辿り着いた。早めに夕食を済ませ、翌朝3時にはここを出発する予定だ。

「えー、お風呂ないのー」

「当たり前だろ。ここでは水は貴重なんだよ」

「髪が洗えない日があるなんて考えられないよ」

 保奈美たちの次元の低い会話を無視してカヨは先に床についた。

 しかし、なかなか寝付けなかった。明日、頂上へ行くと思うと密かに興奮しているのだろう。

 ぐっすり眠る誠治の横で保奈美もまた寝付けずにいた。横で寝ているカヨがまだ起きているのに気づいた。

「お婆ちゃん……寝れないの?」

「この日をずっと待っていたからね……」

「ただの山だよ」

「私には特別な山だよ。お兄ちゃんとの約束の場所なんだよ」

「そうか、やっと願いが叶うんだね」

「お前たちには感謝してる。もし私一人だったら少し不安だったからね」

 保奈美は周りで寝ている他の登山者を見て、

「何でみんな富士山に登るのかな?頂上には何があるんだろうね」

「さあね」

 少し沈黙になる。保奈美が勇気を出して話し出す。

「私ね。……妊娠してるの。誠治の子……」

「ああ……分かっていたよ」

 別に驚いた様子を見せずに、カヨは返事をした。

「うそ!」

「これでも経験者だからね。……で、どうする気だい?」

「分かんない。お母さんに話そうと思っているんだけど、激怒するのは間違いないね。家を追い出されるかも……」

「バカじゃないのかい?もう人生が終ったみたいに言うんじゃないよ」

「だって……」

「親はどうでもいいから、保奈美はどうしたいんだい?」

 保奈美は小声で、

「……産みたい」

 と、言った。

「なら、産みな」

「いいの?」

「お前は、親の人生を歩いているのかい?他の者が反対しても自分の人生は、自分が決めていいんだよ」

「うん」

 保奈美の顔に笑みが浮んだ。

「昔はみんな生きる事に必死だったよ」

「そう言えば、お婆ちゃん……。藤崎家を出た後はどうなったの?」

「フフ。あの後、牢屋に入れられたよ。もう、生きる気力なんか全くなかったね。でも……人の人生なんて生きている限り終わりなんてないんだ」

 カヨは天井を向いたまま、思い出の続きを話し始めた。


 薄暗い牢屋の隅で、17歳のカヨは冷たい壁に力尽きたように凭れていた。精神的にボロボロになり、半分開いた目は生きることを放棄しているようだった。雨音は止み、とても静かだった。カヨは吸い込まれるような睡魔に包まれ、そのまま身を任せて瞳を閉じた。

 やがて朝が訪れた。床に倒れ込むように寝ていたカヨは、窓から差し込む日差しに起こされた。眩しさに目を開ける。そこへ看守がやって来て釈放を知らせ、扉が開けられた。

 カヨはドロドロに汚れた服を着たまま、廊下をふらふらと歩いて行く。釈放というより、警察からも追い出されたという感じだった。体中のスイッチが全部切れてしまったような脱力感。カヨは出口に向かってただ歩いた。しかし、出口に辿り着いたとしても……。何もかもなくしたカヨは、どこへ行けばいいのだろう……。

 廊下の先にある長椅子に座っていた人が、こっちを見て立ち上がった。今のカヨには人ですら灰色の風景の一部にしか感じてなかった。ただ歩いているだけのカヨ。

 その人がカヨの意識に入った時、足が勝手に止まった。

「おはよ、カヨちゃん」

 ……聞き覚えのある声。

 その人は、別れた時と何も変わらない懐かしい笑顔をしていた。

 全ての感情をなくしたカヨの瞳から涙が流れ、小さな声でつぶやいた。

「竹しゃん……」

 カヨは目の前まで来た竹彦に、すがり付くように抱きついた。枯れ果てたはずの涙が止まらない。カヨは竹彦の腕の中で子供のように泣いていた。

 昨夜、警察の連絡を受けた浅間伝次郎が、竹彦と一緒にカヨを迎えに来ていたのだった。急いで車を走らせた伝次郎は、疲れて車内で寝ていた。

「さぁ、帰ろう」

 と、竹彦がやさしくカヨに言った。 

 もう帰る場所がなくなった私を、連れて帰ろうとしてくれている。

「竹しゃん……私どうしたらいいの?」

「何を迷ってんの?」

「私、もう生きていくのに疲れちゃった……」

 その言葉を聞いた竹彦は微笑んで、

「だったら話が早いね。カヨちゃんの残りの人生を僕にくれませんか?」

「え?」

「カヨちゃんと一緒に暮らしたいんだ」

 その言葉を聞いても驚きはしなかった。昔から竹しゃんの気持ちは知っていた。ただ、甘えていいのか迷ってしまう。もう何も残っていないこんな私と、竹しゃんは結婚したいと言ってくれている。絶望の中で泣いている私に、温かく手を差し伸べてくれる。私はいつも誰かに助けてもらってばかり……。

 カヨは、恐る恐る聞き返す。

「私なんかでいいの?」

「カヨちゃんが出て行ってからも、ずっと忘れることが出来なかった。僕は、カヨちゃんじゃなきゃダメなんだ」

 お兄ちゃん……、真斗さん……。私の思うように生きてもいいよね。

「……不束者ですが、よろしくお願いいたします」

 と、カヨは頭を下げた。

 竹彦はカヨの手を握り、

「じゃあ、行こう」

 と言って、歩き出した。


 駐車場に行くと伝次郎が目を覚まし、車から出て来た。

「久しぶりですね、カヨ。思ってたより元気そうだけど、なんかいいことでもありましたか?」

「旦那様、お世話をかけました」

「この世にお世話のかからない人なんかいませんよ。さあ、車に乗って。……帰りましょうか」

 竹彦が、改まって話し出した。

「旦那様。カヨと故郷に帰って暮らしたいのですが……」

「やっとカヨに自分の気持ちを打ち明けたのですね。でも、こっちで暮らしてはダメなのですか?」

「両親に紹介したいのです」

「しかしね、奉公に来ている者が、自分から辞めるなどご法度ですよ。そんなことを認めたら、私は鶴子に殺されてしまいます」

 竹彦は、言葉を詰まらせた。

 伝次郎は、晴天の空を見上げた。

「今日はとてもいい天気だ。こんな日に私はよくぼうとしてしまうんですよ。例えば……駆け落ちする二人を見逃してしまうこともある」

「だ、旦那様……」

「あれ、竹彦は知らないんですか?浅間伝次郎と書いて……」

 カヨが笑顔で、

「『お人よし』と読むのでしょ」

 と、付け加えた。三人の笑みがこぼれる。

「そんなに心配することはない。旅館のみんなは、竹彦とカヨの幸せを願っているのだから」

「ありがとうございます」

 二人は伝次郎に深々と頭を下げた。

「それにお前たちが結ばれることは、天国の太一だって望んでいたことだろう」

「太一もですか?」

「あの時……。太一が亡くなる前に竹彦を呼んだって言ってたろ?太一はお前にカヨのことを頼もうとしたんじゃないのかな。私はそう思っているんですけどね」

「お兄ちゃん……」

「さぁ、乗りなさい。駅まで送りますよ」

 伝次郎は竹彦とカヨを乗せ、車を走らせた。

「お前たちがいなくなったと知れば、鶴子も泣いてしまうだろうな」

「女将さんが泣くなんて、想像出来ないですよ。なぁ、カヨちゃん」

「ええ、いつも毅然として、何事にも動じないって感じだし……」

 伝次郎は微笑みながら話した。

「お前たちはあいつを女将さんとして見ているだろ?私は一人の女として見ているです。あいつは人知れず泣きますよ」

 車内に重い空気が漂う。伝次郎は、しまった……っというような表情で話を変えた。

「カヨ、そんな汚れた服を着て行ったら、竹彦の両親もびっくりしますよ。お祝いに服を買ってあげますよ」

 と言って、町へ向かったのだった。


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