13
タクシーの窓からずっと見えている富士の山が、少しずつ大きくなっていく。車は表富士宮五合目で止まった。運転手の人から頂上まで5時間くらいかかると聞いた。カヨはゆっくりと車から降り、その見えない頂を見上げた。保奈美と誠治は怖じ気づいて、これから挑もうとしている過酷さだけが頭を過ぎていく。
「お婆ちゃん、諦めるなら今よ」
「そんな気はさらさらないよ。さあ、行くよ」
カヨは杖を持ち、歩き始めた。
この日をどれだけ望んでいたか……。約束した場所。自分が生きているうちに叶えたかった最後の願い。それが今、目の前にある。必ず登ってみせる。カヨの全身から力が溢れていく。カヨは一歩ずつ踏みしめて歩き始めた。自分のペースを感じながら何度も休憩を取り、時間をかけて登って行った。
この上に何があるのか。それは登った者しか知ることが出来ない。だからそれを確かめに行く。カヨの中でそこは……日本で一番天国に近い場所だった。
3時間が過ぎ、夕日を見ながら八合目の山小屋まで辿り着いた。早めに夕食を済ませ、翌朝3時にはここを出発する予定だ。
「えー、お風呂ないのー」
「当たり前だろ。ここでは水は貴重なんだよ」
「髪が洗えない日があるなんて考えられないよ」
保奈美たちの次元の低い会話を無視してカヨは先に床についた。
しかし、なかなか寝付けなかった。明日、頂上へ行くと思うと密かに興奮しているのだろう。
ぐっすり眠る誠治の横で保奈美もまた寝付けずにいた。横で寝ているカヨがまだ起きているのに気づいた。
「お婆ちゃん……寝れないの?」
「この日をずっと待っていたからね……」
「ただの山だよ」
「私には特別な山だよ。お兄ちゃんとの約束の場所なんだよ」
「そうか、やっと願いが叶うんだね」
「お前たちには感謝してる。もし私一人だったら少し不安だったからね」
保奈美は周りで寝ている他の登山者を見て、
「何でみんな富士山に登るのかな?頂上には何があるんだろうね」
「さあね」
少し沈黙になる。保奈美が勇気を出して話し出す。
「私ね。……妊娠してるの。誠治の子……」
「ああ……分かっていたよ」
別に驚いた様子を見せずに、カヨは返事をした。
「うそ!」
「これでも経験者だからね。……で、どうする気だい?」
「分かんない。お母さんに話そうと思っているんだけど、激怒するのは間違いないね。家を追い出されるかも……」
「バカじゃないのかい?もう人生が終ったみたいに言うんじゃないよ」
「だって……」
「親はどうでもいいから、保奈美はどうしたいんだい?」
保奈美は小声で、
「……産みたい」
と、言った。
「なら、産みな」
「いいの?」
「お前は、親の人生を歩いているのかい?他の者が反対しても自分の人生は、自分が決めていいんだよ」
「うん」
保奈美の顔に笑みが浮んだ。
「昔はみんな生きる事に必死だったよ」
「そう言えば、お婆ちゃん……。藤崎家を出た後はどうなったの?」
「フフ。あの後、牢屋に入れられたよ。もう、生きる気力なんか全くなかったね。でも……人の人生なんて生きている限り終わりなんてないんだ」
カヨは天井を向いたまま、思い出の続きを話し始めた。
薄暗い牢屋の隅で、17歳のカヨは冷たい壁に力尽きたように凭れていた。精神的にボロボロになり、半分開いた目は生きることを放棄しているようだった。雨音は止み、とても静かだった。カヨは吸い込まれるような睡魔に包まれ、そのまま身を任せて瞳を閉じた。
やがて朝が訪れた。床に倒れ込むように寝ていたカヨは、窓から差し込む日差しに起こされた。眩しさに目を開ける。そこへ看守がやって来て釈放を知らせ、扉が開けられた。
カヨはドロドロに汚れた服を着たまま、廊下をふらふらと歩いて行く。釈放というより、警察からも追い出されたという感じだった。体中のスイッチが全部切れてしまったような脱力感。カヨは出口に向かってただ歩いた。しかし、出口に辿り着いたとしても……。何もかもなくしたカヨは、どこへ行けばいいのだろう……。
廊下の先にある長椅子に座っていた人が、こっちを見て立ち上がった。今のカヨには人ですら灰色の風景の一部にしか感じてなかった。ただ歩いているだけのカヨ。
その人がカヨの意識に入った時、足が勝手に止まった。
「おはよ、カヨちゃん」
……聞き覚えのある声。
その人は、別れた時と何も変わらない懐かしい笑顔をしていた。
全ての感情をなくしたカヨの瞳から涙が流れ、小さな声でつぶやいた。
「竹しゃん……」
カヨは目の前まで来た竹彦に、すがり付くように抱きついた。枯れ果てたはずの涙が止まらない。カヨは竹彦の腕の中で子供のように泣いていた。
昨夜、警察の連絡を受けた浅間伝次郎が、竹彦と一緒にカヨを迎えに来ていたのだった。急いで車を走らせた伝次郎は、疲れて車内で寝ていた。
「さぁ、帰ろう」
と、竹彦がやさしくカヨに言った。
もう帰る場所がなくなった私を、連れて帰ろうとしてくれている。
「竹しゃん……私どうしたらいいの?」
「何を迷ってんの?」
「私、もう生きていくのに疲れちゃった……」
その言葉を聞いた竹彦は微笑んで、
「だったら話が早いね。カヨちゃんの残りの人生を僕にくれませんか?」
「え?」
「カヨちゃんと一緒に暮らしたいんだ」
その言葉を聞いても驚きはしなかった。昔から竹しゃんの気持ちは知っていた。ただ、甘えていいのか迷ってしまう。もう何も残っていないこんな私と、竹しゃんは結婚したいと言ってくれている。絶望の中で泣いている私に、温かく手を差し伸べてくれる。私はいつも誰かに助けてもらってばかり……。
カヨは、恐る恐る聞き返す。
「私なんかでいいの?」
「カヨちゃんが出て行ってからも、ずっと忘れることが出来なかった。僕は、カヨちゃんじゃなきゃダメなんだ」
お兄ちゃん……、真斗さん……。私の思うように生きてもいいよね。
「……不束者ですが、よろしくお願いいたします」
と、カヨは頭を下げた。
竹彦はカヨの手を握り、
「じゃあ、行こう」
と言って、歩き出した。
駐車場に行くと伝次郎が目を覚まし、車から出て来た。
「久しぶりですね、カヨ。思ってたより元気そうだけど、なんかいいことでもありましたか?」
「旦那様、お世話をかけました」
「この世にお世話のかからない人なんかいませんよ。さあ、車に乗って。……帰りましょうか」
竹彦が、改まって話し出した。
「旦那様。カヨと故郷に帰って暮らしたいのですが……」
「やっとカヨに自分の気持ちを打ち明けたのですね。でも、こっちで暮らしてはダメなのですか?」
「両親に紹介したいのです」
「しかしね、奉公に来ている者が、自分から辞めるなどご法度ですよ。そんなことを認めたら、私は鶴子に殺されてしまいます」
竹彦は、言葉を詰まらせた。
伝次郎は、晴天の空を見上げた。
「今日はとてもいい天気だ。こんな日に私はよくぼうとしてしまうんですよ。例えば……駆け落ちする二人を見逃してしまうこともある」
「だ、旦那様……」
「あれ、竹彦は知らないんですか?浅間伝次郎と書いて……」
カヨが笑顔で、
「『お人よし』と読むのでしょ」
と、付け加えた。三人の笑みがこぼれる。
「そんなに心配することはない。旅館のみんなは、竹彦とカヨの幸せを願っているのだから」
「ありがとうございます」
二人は伝次郎に深々と頭を下げた。
「それにお前たちが結ばれることは、天国の太一だって望んでいたことだろう」
「太一もですか?」
「あの時……。太一が亡くなる前に竹彦を呼んだって言ってたろ?太一はお前にカヨのことを頼もうとしたんじゃないのかな。私はそう思っているんですけどね」
「お兄ちゃん……」
「さぁ、乗りなさい。駅まで送りますよ」
伝次郎は竹彦とカヨを乗せ、車を走らせた。
「お前たちがいなくなったと知れば、鶴子も泣いてしまうだろうな」
「女将さんが泣くなんて、想像出来ないですよ。なぁ、カヨちゃん」
「ええ、いつも毅然として、何事にも動じないって感じだし……」
伝次郎は微笑みながら話した。
「お前たちはあいつを女将さんとして見ているだろ?私は一人の女として見ているです。あいつは人知れず泣きますよ」
車内に重い空気が漂う。伝次郎は、しまった……っというような表情で話を変えた。
「カヨ、そんな汚れた服を着て行ったら、竹彦の両親もびっくりしますよ。お祝いに服を買ってあげますよ」
と言って、町へ向かったのだった。




