14
竹彦たちが乗った汽車が、故郷の福岡へ到着した。
そして、竹彦は実家へ戻ったのだが……、
竹彦の両親は予期せぬ息子の帰宅を快く思わなかった。奉公に行った者が帰って来るなんて、村の恥さらしの何者でもなかった。
ここに竹彦たちの居場所はなくなった。一晩実家に泊まり、次の日の朝には家を出て行った。竹彦は、カヨを心配させまいと、必死に仕事を探し、大工の職を見つけた。
その夜、竹彦たちは久留米でラーメンを食べ、就職祝いをした。
毎月仕送りをしていた竹彦には貯金などほとんどなく、当面の生活費などなかった。故郷に戻れば何とかなると思っていた自分が甘かったのだ。竹彦は、将来に不安が募っていき、大好きだったラーメンも、あまり美味しくなかった。
「これ美味しいね。うち、ラーメン初めて食べるの」
まだ17歳のカヨが、あどけなく喜んでいる。知らない土地に来て自分より不安だろうに、カヨは全くそんな顔を見せなかった。申し訳なさで竹彦はつい謝ってしまう。
「カヨちゃん、ごめんな。苦労かけてしまって」
「うち、すごく幸せよ。だって竹しゃんが傍にいるもん。あ、チャーシュー食べないんだったら頂戴」
と、カヨは竹彦の器に箸を伸ばす。
カヨを見ていると竹彦も自然と微笑んでしまう。好きな人と一緒にいる幸せを感じていた。
カヨは自分の顔をジーっと見ている竹彦に、
「どうしたの。うちの顔に何か付いてる?」
「ううん、なんでもない」
竹彦の将来への不安などいつの間にか消えていた。
「あ、そうだ。竹しゃん、これ使って」
と、カヨは真斗との結婚指輪を外した。
「ダメだよ。それを使うことは出来ないよ……」
「いいの、真斗さんも許してくれるわ」
と、カヨにはなんのためらいもなかった。
指輪を質に入れたお金で借家を借り、そこで喜太郎が生まれ、2年後に美世子が生まれた。家族四人のささやかな生活が続いた。
そして、カヨが20歳の誕生日を向かえたある日。竹彦はカヨを町に連れ出した。
「竹しゃん、どこ行くの?」
「いいから、付いておいで」
と、カヨの手を引っ張って、久留米の町を走った。
カヨは、竹彦が足を止めた店を見て、
「ここは……」
と、つぶやいた。
その店は、カヨが指輪を質に入れた店だった。
竹彦は少しずつ貯めたお金を持って、指輪を買戻しに来たのだった。
「竹しゃん、私の為に?」
「カヨの大切な指輪だからね。必ず買い戻すと決めていたんだ」
カヨは、竹彦の優しさが嬉しかった。
「……ありがとう」
と、浮かない笑顔を作った。二人は店に入って行く。店内を見回すカヨの表情はなぜか寂しそうだった。竹彦は店主と話していた。
「ああ、あの指輪ならもう売れちまったよ」
と、店主は無愛想に言った。
気落ちして店を出て来る竹彦。その後をカヨが付いて来る。
「しょうがないね!」
と、カヨが軽い口調で言う。
「ごめん……カヨちゃん」
竹彦が謝る。するとカヨは笑顔で、
「なら、別の指輪を買ってよ」
「あの指輪と同じ物をお店で買うなら、今、持ってるお金じゃ全然足らないよ」
と、竹彦がため息混じりに言った。
「安くてもいいの。私は竹しゃんのお嫁さんなんだから、竹しゃんからの結婚指輪が欲しいの」
その言葉を聞いて竹彦の考えが変わった。カヨはこの地に来た時から、ずっと自分だけを見ていてくれたのだ。あの指輪も質に入れた時から、過去を捨ててあなたに付いて行きますと言う、カヨの覚悟の表れだったのだ。竹彦は自分が恥ずかしくなっていく。やっとカヨの気持ちを理解した。
「分かった。じゃあ、今から買いに行こうか」
「うん」
と、カヨは笑った。
その後、竹彦は必死に働いた。久留米に小さな自分の家を建て、カヨと子供たちと四人で幸せな人生を過ごした。カヨは竹彦のおかげでやっと手に入れることが出来たのだった。
それは、小さい頃から憧れ続けていた……「家族」という幸せ。
こうして、カヨの物語は今に至たる。
まだ暗い山小屋から登山客が次々と出て来る。
「お婆ちゃん、大丈夫?無理しないでね」
その中に保奈美たちの姿もあった。
空気は薄く高齢のカヨにはとても苦しかった。足がとても重たい。体がフラフラする。カヨは軋む足を必死に前へと出す。何人もの人が自分を抜いて行く。その人たちの後姿がどんどん遠ざかっていく。みんなとのペースの違いは、自分が無理なことに挑戦していることを知る。そんなことは最初から分かっていた。カヨはその苦しさを味わってでも、行ってみたかったのだ。
辺りが薄明るくなっていく。急がないと……気持ちばかりが焦っていった。どんどん息が荒くなっていく。次の一歩を出した時、カヨは倒れ込むようにしゃがんでしまった。すぐに保奈美が駆け寄って来た。
「お婆ちゃん!もういいからここで休みましょう」
カヨはゆっくりと顔を上げた。頂上が微かに見えた。遠い福岡から足を運んで、やっとあの場所が見える所までやって来たのだ。あと少し……あと少しなのだ。あそこに行ったらお兄ちゃんに会える。その思いが、折れてしまいそうなカヨの気持ちを奮い立たせる。
カヨは杖を立てた。震えながらも必死に立ち上がろうとする。……が、もう足に力が入らず、また崩れるように腰を着いてしまった。
すると、誠治がカヨの前にやって来た。そして、背中を向けてしゃがんだ。
「俺の背中に乗って……」
頼もしい声が聞こえた。
「誠治……お婆ちゃん、結構重いよ」
「大丈夫。日の出にはまだ間に合うから、早く」
「お前の世話になるとはね」
「人はいろんな人に助けられて生きているって言ってたじゃないですか」
笑みをこぼしたカヨは、誠治の背中に倒れ込むように身をゆだねた。そして、三人は頂上を目指し歩き出した。
時間が迫っていた。急ぐ誠治の背中から、カヨは東の空をずっと眺めている。
その時は来た。赤く輝く空と黒い大地の境から無数の細い光の矢が一斉に放たれた。ゆっくりと、ゆっくりと神々しい輝きが生まれていく。その姿を見た夜の闇たちは次々と浄化され、世界に本来の色彩が戻っていった。その頂きに集う人々の至福の瞬間だった。
誠治の足が頂上に辿り着く。眩しさに目をかすめる保奈美。
カヨはその光に吸い込まれそうになっていた。
目の前に広がる広大な景色。全てのものがとても小さく見えた。人の心や悩みさえ、とても小さく些細なことに思えてくる。大自然の上に立つと、人もただの動物だと改めて感じさせられる。
ご来光に輝くカヨの瞳。
「お兄ちゃん、うちここまで来たよ」
と、カヨがつぶやく。
カヨは4歳の時、汽車に乗ってこの地へ初めて来た日を思い出していた。
伝次郎に連れられ旅館まで行く道中に、太一とカヨは遠くに立つ富士山を一緒に見ていた。
太一が指差してカヨに話しかける。
「カヨ、見てみろ。あれが日本で一番高い山だ」
「お父たちが暮らしている天国に近いね。ねぇ、あそこならお父たちに会えるかな?」
幼いカヨの質問に、太一は困ってしまう。
「……ああ、会えるよ。いつか一緒に行って確かめてみような」
「うん!」
カヨは、期待でいっぱいの笑顔を太一に見せる。
あの頃の純粋な心はもうない。ただ、お兄ちゃんならたった一人でもここへ確かめに来るような気がした。
「カヨ、先に行っとくぞ」
と、お兄ちゃんならそう言うに決まっている。大好きだった人たちはもう自分の傍にはいなくなった。カヨはここに家族みんなが待っている気がしていたのだ。
太一が死んで、これからは一人でがんばるんだと心に決めたあの日から太一の思い出を心の奥に仕舞い込んだ。いくつもの思い出の場所へ立ち寄って行くうちに、少しずつ封印が解けていった。カヨの胸に太一の思い出が次々と甦ってくる。
もっと……もっといっぱい話をしたかった。
……もっと傍にいて欲しかった。
……一緒にこの景色を見たかった。
もうろうとする意識の中、眺めている日の光が大きくなっていく。辺りは白い世界に包まれてカヨ一人がそこにいた。霧が覆い、視界が悪い。
ふと、視線の先に二つの人影が見えた。カヨは引き寄せられるように近づいて行く。その人は敬三と絹代だった。微かな記憶に残る両親の姿が目の前にあった。
「お父、お母……」
二人は何も言わず微笑みながらカヨを見ている。カヨは近寄って行く。二人に触れたくて、抱き締めたくて、近寄って行く。両親のいない寂しさに勝てるはずはない。うれしさを我慢出来るはずはない。引き寄せられるように小走りに近づいて行く。
途中、カヨはつまずいて転んでしまう。その姿は6歳の時の幼いカヨになっていた。
「カヨちゃん、大丈夫か?」
横から11歳の竹彦がカヨを支える。
「た、竹しゃん!」
その後ろから……、
「カヨ、転んだくらいでメソメソするな」
と、後ろから別の声がした。それは聞き覚えのある懐かしく暖かい声。カヨの心が高鳴っていく。誰と確認することなく、カヨの涙が溢れ出す。その声に背中を向けたまま、ゆっくりと立ち上がり……、ゆっくりと振り向いた。そこにはカヨが思い描いていた少年が立っていた。
小汚いランニングシャツ……ボロボロの半ズボン……いがぐり頭……。9歳の太一だった。
「カヨ、そのくらいで泣くな!」
「お、お兄ちゃん……」
太一は敬三と絹代の方へ指をさして、
「お前はあっちに行っちゃいけない。来た道を帰れ!」
「でも、お父とお母がいるよ。お兄ちゃんも一緒に行こうよ」
「ダメだ。お前は帰れ」
「どうして?家族が、みんなが……やっと会えたんだよ。もう別れたくないよ」
「お前はお兄ちゃんの分まで生きるって決めたんだろ?」
「……うん」
「だったら来た道を帰るんだ」
カヨは、泣きながら太一に抱き付く。
「どれだけうちがみんなに会いたかったか分かる?もう寂しい思いはしたくないよ」
「お前は強い心を持っているから大丈夫だ。もう少しお兄ちゃんの分まで遊んで来い」
太一がそう言うと、引き戻されるようにカヨの体は太一たちから離れていった。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!待って……」
「心配するな。俺たちはずっとここにいるから。ずっとカヨを待っているから……」
敬三と絹代の姿が霞んで消えていく。次に竹彦がカヨに手を振りながら消えていく。
「ああ……」
それをすがるように見ているカヨ。急いで太一の方へ振り向く。
太一の体が消えかけていた。カヨをやさしく見ている。
「イヤ、行かないで。お兄ちゃん……」
カヨは体を震わせ泣き叫んだ。
「カヨ。次ぎ会う時は、お前の楽しかった話をいっぱい聞かせてくれ」
と言って、太一も消えてしまったのだ。
ハッと、カヨが目を覚ます。自分は誠治に抱えられ横になっていることに気づく。いつの間にか、気を失っていたようだ。自分を囲むようにたくさんの人だかりが出来ていた。そんなに見られると、何だか恥ずかしくなってくる。
「お婆ちゃん!」
傍で不安そうな顔をしていた保奈美が、カヨに抱き付いた。
「おいおい、重いよ。もう大丈夫だよ」
カヨは保奈美を慰めながら、ゆっくりと起き上がった。
富士山の頂上に流れる透き通った空気を深く吸い込む。その冷たさが全身を駆け巡っていく。朝日の暖かさが肌に伝わる。自分がまだ生きていることを実感する。
カヨは太陽を眺めながらつぶやいた。
「お兄ちゃん、80歳も過ぎて、まだ遊べと言うの?」
「おばちゃん、何か言った?」
保奈美の頭を撫でながら、カヨは笑顔で言った。
「何でもないよ……。さぁ、家に帰ろうかね」
私の人生が幸せだったのはお兄ちゃんや竹しゃんのおかげだった。どんな時もカヨの味方で、嫌なことがあっても、いつもカヨを笑わせてくれた。竹しゃんが亡くなって一人ぼっちになり、私は生きることから逃げたくなっていた。だけど、これからは自分でたくさん幸せを見つけてやる。お兄ちゃんが羨ましがるくらいの楽しい人生にしてやると、日本一高い場所から太陽に誓った。
そして、カヨは山岳部と名乗る若者を捕まえ、その背中の上に乗って山を下りて行った。
その日の夕方、新幹線は船小屋に到着した。階段を下りる保奈美の足取りが重たい。家が近づくにつれて保奈美の不安が募っていく。気落ちした表情で誠治に話しかけた。
「お母さんたち、私たちのこと許してくれるかな?」
その言葉を聞いてカヨが口を挟む。
「なんだい。お前たちは、一回断られたら諦めるのかい?」
保奈美は、誠治の顔色を伺うように聞いた。
「何回くらいチャレンジしよっか?」
「決まってるだろ。許してくれるまでだ」
と、誠治は平然と言った。
「それでいい。何回とか考えてる時点でダメなんだ。本当に自分たちがしたいなら、許してくれるまで諦めないことだよ」
「それでさぁ、許してもらったらすぐ結婚しような」
と言った誠治のことを、なんて気の早い奴だと思いながらも保奈美は、
「うん」
と、笑顔でうなずいた。つないだ手から互いの緊張が伝わっていた。
「さあ、今度はどこへ遊びに行こうかね」
と、カヨが笑った。
「今、くたびれて帰ってる途中なのに、もう次の旅行の話ですか?」
「お婆ちゃん、とりあえず、お腹空いたから何か食べようよ」
「それなら、お店に入って次の旅行をどこにするか決めようかね」
「俺もう山は無理。当分行きたくない」
「男のくせにだらしない奴だね」
「俺が山恐怖症になっているのは、お婆ちゃんの所為なんですけど……人をおんぶして登るなんてありえないでしょ」
「あ、私、遊園地がいい。絶叫マシン大好き!」
「何を言ってんだい?保奈美は子供産むまで旅行は無しだよ。行くのはお婆ちゃんと誠治の二人だけ」
「えー、うそー」
「ラッキー」
誠治の無責任なはしゃぎように保奈美が切れた。
「誠治、何のんきに喜んでんの?あんたも子供が生まれるまで旅行なんて許さないわよ。その前に仕事見つけて結婚資金貯めなさいよ」
「ちぇ、……分かってるよ」
誠治は残念そうに返事をした。
カヨが、手を叩いて叫んだ。
「よし、私は決めたよ!」
「何?どうしたの?」
「お婆ちゃんね、あんたたちの新婚旅行に付いて行くよ」
「ははは、それは楽しそうだな、保奈美」
「ふふ、いんじゃないの、三人一緒でも……正確には四人かな」
と、保奈美は自分のお腹をさすった。
「なら、決まりだね。場所はどこにしようかね……」
と言いながら、カヨたちは近くのラーメン屋に入って行った。
しばらくすると、保奈美が店の外に出て来て、携帯を掛け始めた。
「お母さん……。今、船小屋に着いたから、お婆ちゃんとご飯食べて帰るね。それとお母さんのことが大好きだから、元気で長生きしてね。バイバイ」
それだけ言うと、保奈美は携帯を切って急いで店に戻って行った。
カヨは今まで、家族にも相手にされず、一人ぼっちの寂しさで悲しむばかりだった。人生の終わりをただ待っている。そんな日々だった。
でもこれからは違う。
お兄ちゃんにたくさんの土産話を聞かせてあげると約束をした。その為にはもっとたくさん人生を楽しまないといけない。
カヨは残りの人生が忙しくなりそうだとラーメンを食べながら微笑んだ。
…終…
読んでくださってありがとうございました。




