12
カヨが藤崎家に嫁いで数ヶ月が過ぎた。
甘い新婚生活など程遠く、使用人以上に働かされていた。
「申し訳ございませんでした」
と、シズに頭を下げる毎日。
しきたりを重んじるシズの性格はとても厳しく、叱られない日はなかった。
それでもカヨは愚痴など一言もこぼさなかった。ただ、真斗が自分の所為で恥じを掻かないようにと、一日でも早く藤崎家の妻になるべく必死にシズの教育に従った。
辛いばかりではなかった。優しさで自分を包んでくれる真斗の存在と……、自分のお腹に宿った我が子の存在が、カヨの生活を幸せにしてくれた。苦労も苦労と感じなければ苦労でなくなる。ささやかな幸せはカヨの辛い日々を和らげてくれた。
そんな頃、日本は第二次世界大戦に参戦し、ラジオから戦況が毎日流れていた。人々の家には召集令状が次々と配られていった。
そして、赤紙は……真斗のところにも届けられた。
忠道は泣き崩れるシズを宥めながら、真斗の決意を受け入れたのだった。
軍服を着た真斗は、家の門前でカヨとの別れを惜しんでいる。
「カヨ、僕がいなくてもしっかりがんばるんだぞ」
「あなたは体が弱いですから、身体検査で引っかかって帰ってまいりますわ」
真斗は気まずそうに、
「悪い、あの話は母をかばうためにウソをついてしまった」
「え?では……」
「もう帰って来れないかもしれない」
「そんな……」
「カヨを愛している気持ちにウソはないよ。これからもずっと一緒に暮らしたかった。戦争さえなければ……」
「……真斗さん」
「カヨ、これからはお前の思うように生きなさい」
と言って、しがみ付いているカヨをやさしく離し、真斗は家を出て行った。
それから数ヵ月後、病院の廊下で忠道とシズが心配そうに待っていた。突然、廊下に響く赤ん坊の泣き声に二人はハッとする。
元気な男の子が産まれたのだった。のちに龍平と名づけられた。真斗と自分との間に生まれた最愛の命。カヨは、龍平の中に真斗の面影を見ていた。
「お父さんは、きっと帰って来ますからね」
と、カヨは微笑んだ。
カヨの傍に近づく忠道とシズ。シズが疲れきっているカヨの手を握り、
「カヨさん、よくがんばりましたね」
と、初めて褒めてくれたのだった。カヨの目から涙がこぼれた。
しかし、龍平が生まれたその日……。
その日、藤崎邸には軍服を着た若者が数名訪れていた。使用人が集まる玄関先で、真斗の戦死の報告を読み上げていった。
帰宅した忠道たちが真斗の報告を知ると、シズはその日を境に豹変してしまった。我が子の死の悲しみはとても深く、その溝を埋めるのは真斗の血が流れている龍平だけだった。シズは龍平を必要以上に溺愛していった。そして、龍平に乳母を付け、カヨから引き離してしまったのだ。
「お母様、龍平は私の子です。私に育てさせてください!」
シズは、とても冷たい視線でカヨを見ている。
「カヨさん、あなたはまだ若いわ。ここを出て人生をやり直したらいいと思うの」
「な、何をおっしゃっているのですか?」
「あなたを自由にしてあげると言ってるの。もともと、この藤崎家には向いてなかったようですし」
「私、ここを出ても帰る所などございません。ここにいさせてくださいませ!」
カヨの言葉など気にも止めず、
「誰か、楠木カヨさんのお帰りですよ。門まで送ってさしあげて」
「イヤでございます。龍平の傍にいさせてくださいませ。お母様、お願いいたします!」
頭を下げるカヨを、体格のいい使用人の男が無理やり引きずって行く。カヨはシズの後姿に叫び続けた。無情にもシズは振り返ることはなく、龍平を抱いたまま奥の部屋へと行ってしまった。
夜遅く雨の降る中、藤崎邸の門からつまみ出されるカヨ。びしょ濡れになりながらも閉ざされた門にしがみ付く。
「お願いでございます!龍平をお返しください。私の子を返して……くださいませ……」
カヨは、声が枯れながらも、門の前で泣き叫び続けた。
シズは冷めた表情で警察に電話をかける。
「藤崎ですが。家の外で不審な女性が騒いでおりますの。早く逮捕してくださいませ」
「龍平!龍平―」
と、何度も叫ぶカヨ。最愛の人は次々と自分から離れていく。最後の龍平という絆を引き裂かれようとしている。我が子を思う母の悲痛な叫びは龍平に届くことはなかった。
カヨは駆けつけた警官に取り押さえながらも必死で抵抗をした。引きずられながらも叫び続けた。我が子の名前を叫び続けた。
「龍平―」
抵抗しながらもパトカーに乗せられるカヨ。
二度と藤崎家に帰ることはなかった。
喫茶店で保奈美たちが、重い空気のカヨと龍平の二人を見ている。
店員が龍平の前に珈琲のお替りを運んで来た。目の前に座るカヨは涙ながらに龍平を見ている。
母と子が互いの辛く長い時間を耐え抜き、今再び顔を合わす。カヨにとってあの時の出来事を思い返すことはとても辛い過去あり、母としての罪悪感で一杯だった。
龍平は目を閉じ、カヨの思い出を自分の体に染み込ませていた。
そして、龍平はゆっくりと目を開け、カヨに話しかけた。
「両親がいなくなり、あなたのお子さんはさぞ辛い人生だったことでしょう」
カヨは震えながら立ち上がり、
「すいませんでした……」
と、龍平に頭を下げた。
「祖母が死んだ後、乳母が教えてくれた話によく似ています。戦争さえなければ、家族揃って幸せに暮らしていたことでしょう」
龍平が席を立ち、カヨに近づく。
「もう叶わぬ願いだと思っていました。いつも幸せな家族を心に描いて、寂しさを紛らわしていました。どうか悲しまずに笑ってください。私がいつも想像していた母は……いつも笑顔を見せてくれていました」
龍平の目から涙がこぼれ、
「ずっと……、ずっとお会いしとうございました……お母さん」
と、カヨをギュッと抱き締めた。
店内のお客が、カヨたちを祝福し拍手を送る。
「よかったねー、お婆ちゃん……」
と、保奈美たちも泣きながら、拍手をする。
喫茶店の前で車に乗り込むセツたち。見送る龍平が最後に残ったカヨに別れを告げる。
「長い時間が過ぎてしまい、それぞれの人生は大きく外れてしまいました。また一緒の人生に戻すのは難しいことでしょう」
「ええ、一目合えただけで充分です」
「お元気で、お母さん……」
カヨはゆっくりと車に乗り込み、浅間旅館へと向かい出発した。
龍平が空を見上げた。
「きれいな空だ。昨日と何も変わらない同じ空を見ているのに、気持ちひとつでこれほどすばらしく感じることが出来るものなのか。私もまだまだ人生の楽しみ方を知らないものだな」
と、微笑んだ。
浅間旅館に着くと保奈美は出発の準備を済ませ、母親に電話をしていた。
「これから富士山に登りに行くよ。……お土産?そんなのないよ。代わりにいっぱい写真を取って来るから」
いつものありふれた会話が続く。保奈美が深く息を吸い込み、
「あのね、お母さん……」
と、改まった口調になる。
「……帰ったら、話したいことがあるんだけど。聞いてくれるかな?……うん、ありがとう。じゃあ、帰ってからね。バイバイ」
と言って携帯を切ると、ため息をついた。早くお腹の子供をどうするか決断しないといけない。少しずつ将来の不安が現実になっていく。親には話を聞いてもらう約束だけで精一杯だった。世間体だけの両親は必ず反対して、大揉めになるだろう。保奈美は気落ちした様子で、カヨを探しに行った。
そのころカヨは、旅館の中を惜しむように歩き回っていた。厨房や女中たちの控え室を懐かしく覗いた。みんな忙しそうに働いている。最後に利津子の部屋へ行き、伝次郎と鶴子の仏壇に手を合わせた。
「女将さん……ちゃんと挨拶もせずに、この地を離れてすいませんでした。ここで過ごした時間はとても温かく、ここの人たちは本当に私の家族でした」
利津子が入って来て、カヨの横へ座り鶴子の写真を眺めた。
「口ではいつも厳しい事ばかり言ってたけど、お母さんはカヨ姉のことを一番心配してたよ」
カヨは微笑みながら聞いていた。
「お父さんからカヨ姉たちが九州に行ったことを聞いて、お母さんは素っ気無い返事をしてた。でもね、私を連れて太一さんの墓へ報告しに行った時、『太一、しっかりカヨを見守ってやんなよ』って泣いてたの。あの時、初めてお母さんの涙を見たよ」
カヨは黙って鶴子の写真を見ている。
保奈美がカヨを呼びに、部屋へ顔を出す。
「お婆ちゃん、準備出来たから出発し……よう……」
その場の空気に、保奈美の声が小さくなった。
カヨは、仏壇に向かって、両手を付いて頭を下げた。
「女将さん……お世話になりました」
カヨは、やっと鶴子にお礼を言えることができた。
タクシーの窓を下げて、顔を覗かせるカヨを利律子たちが見送る。風がセツの髪に触れ、悲しみを隠す。カヨが笑顔を作る。
「セッちゃん、お互い老い先短いからもう会うことないけど、……元気でね」
「……あんたもね、カヨ」
と、セツも笑顔を送った。
語りつくせない二人の思い出。懐かしい記憶を笑いながらもっとたくさん語り合いたかった。互いの顔を見るだけで昨日の事のようにこの浅間旅館での日々が思い浮かんでいく。それだけで充分だった。この日の気持ちは忘れることはないだろう。共に同じ時代を生きた二人のいろんな過去の苦労。がむしゃらに必死に生きた時間は二人が再会した時、辛い過去から懐かしい思い出と変わった。
車が動き出す。カヨたちは富士宮口へと向かった。
カヨの横に座る保奈美が、
「温かい人たちだね」
と、言った。
「ああ……」
カヨは振り返ることなく返事をした。




