10
朝もやの中、天昌寺と書かれた門が見える。
規則正しく並ぶお墓を通り過ぎると、敷地の片隅に頭くらいの石が置いてあった。周りの雑草はきれいに掃除されて、火を点けたばかりの線香の煙が静かに昇っていく。
合唱しているシワだらけの手。カヨが石の前に屈み、目を閉じている。その後ろにはセツと利津子が手を合わせていた。
カヨは、ただ一言、
「ただいま……、お兄ちゃん」
と、涙をこぼした。
腰を上げるカヨに、セツが話しかける。
「カヨ、藤崎邸には行かないのかい?」
「……」
藤崎……。カヨはその言葉を聞いて取り乱さないように自分を抑えた。
「もうあんたも、いい年だ。最後に一目会ったとしても、バチは当たらないと思うよ」
カヨが、ためらいながら尋ねる。
「……まだ元気でいるのかい?」
「昔のまま、今も伊豆で暮らしているそうよ」
と、利津子が言う。
セツが歩み寄り、カヨの肩に触れる。
「どんな事情があろうと、あんたが腹痛めて産んだ子だろ?龍平にしたって、母親はこの世であんた一人なんだよ」
カヨは、ゆっくりと目を閉じた。
「あの子は、私を許してくれるかね?」
「あんたに悪いと思う心があるなら、自分で謝んな!」
「私、帰って車を用意して来るね」
と、利津子は先に帰って行った。カヨは揺らぐ心に戸惑いながら、太一の墓を見ていた。
旅館前で利津子の車に乗り込むセツとカヨ。
「ちょっとお婆ちゃんを借りるからね。すぐ帰って来るよ」
と、セツが見送っている保奈美と誠治に言った。
カヨは決心して、それを声に出した。
「保奈美、誠治。あんたたちも乗りなさい!」
「カヨ、何言ってんのさ?」
「いいんだよ。この子たちには、私の全てを教えたいんだ」
保奈美たちは何も分からず同乗して、重たい空気のまま車は走り去った。
伊豆に入ると、利津子は一軒の喫茶店に車を止めた。
車を降りたカヨは、足を止め、道路向かいの邸宅に視線を向けた。
「カヨ、行くよ」
と、セツがカヨを促した。
カヨはその視線を惜しむようにみんなと喫茶店へと入って行った。
席に着き、利津子が人数分の飲み物を頼む。保奈美がフレンチトーストを追加する。誠治が保奈美の図々しさにため息をつく。
そんなやり取りなど気にも止めず、カヨは窓から先ほどの邸宅をずっと見ていた。
カヨの向かいに座るセツが話し出す。
「利津子が言うには、午前中はここの喫茶店によく顔を出すそうだよ」
保奈美は話の内容が分からず、カヨに尋ねる。
「誰を探しているの?お婆ちゃんの知り合い?」
利津子が代わりに答える。
「あんたのお婆ちゃんはね、あそこに見える藤崎邸に嫁いでいたんだよ。そこで一人の子供を産んでね……」
「ええー、お婆ちゃんバツイチだったの?なかなかやるねぇ」
保奈美の楽観的な性格にセツが呆れる。
「カヨ、ほんとにあんたの血を分けた家族かい?」
「苦労を知らないと、こういう性格に育つんだよ」
と、カヨが微笑む。
カラン、コロン……
店のドアが開く。60過ぎの男性が一人、入って来た。カヨたちの横を通り過ぎる。隣のテーブルのカヨの真後ろの椅子に腰を降ろした。背中合わせになるカヨと男性。
セツがその男性を覗きながら、ささやく。
「……藤崎龍平だよ」
深呼吸をして、カヨは高鳴る鼓動を落ち着かせる。
そして、カヨは立ち上がった。
珈琲を啜りながら新聞を読んでいる龍平にカヨは声をかけた。
「相席してもよろしいですか?」
龍平は、新聞を閉じてカヨを見た。店内を見回すと他にも空いている席はあった。と言うことは、この女性は自分に用事があるのだと思いつつ、不信感を出さないように、
「ええ……、かまいませんよ」
と、龍平は物静かに言った。
カヨは向かいの椅子にゆっくりと座る。
「失礼ですが、藤崎龍平さんですよね」
その言葉に龍平は、新聞を折りたたみ、老眼鏡を外した。
「新聞記者……では、なさそうですね。はて、どこかでお目にかかったことがありましたかな?」
と、軽く尋ねて、珈琲を口に運ぶ。
「私も若くないですから最近忘れっぽくてね。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
と言って、珈琲を一口啜る。
「松木カヨ。旧姓、楠木カヨと申します」
その名前を聞いた龍平の手が止まる。カップをゆっくりとテーブルに置き、カヨを見た。見たというより、流すようにカヨを見て、視線を逸らした。
龍平は直接カヨの顔を見ることをためらってしまった。
「楠木カヨ……さんですか?」
「はい……」
「こちらには何をしに?観光ですか?」
「生き別れた我が子がまだ生きていると聞き、恥を忍んで会いに参りました」
「……で、会うことは出来ましたか?」
カヨは、その質問には答えず、龍平を見詰めるだけだった。
「自己紹介が遅れましたが、ご存知の通り私は藤崎龍平です。地位や名誉を手に入れて、今まで何不自由なく生きてきました。そんな私でも、どうしても手に入らないものが二つありました。それは……」
龍平は、しっかりとカヨの目を見た。
「……それは父と母の記憶がまったくないということです」
見つめ合う二人。凍りついたような時間が静かに過ぎていく。
「どうやら私たちは境遇が似ているようですね。よろしかったら少しお話しでもしませんか?」
と、龍平が沈黙を溶かした。カヨは窓の外に見える藤崎邸を思い返すように眺めた。
そして、カヨはゆっくりと語り始めた……。
月日は流れ、カヨは16歳になっていた。
お昼の食事時だった。
「急げ、急げ、急げ。ああー、セッちゃんそこどいてー」
カヨは旅館の通路を小走りにお膳を運んでいた。
「カヨ、どうしたの?」
「梅の間と菊の間を間違えたの!」
と叫んで、走り去って行った。
「ドジだねぇー」
その後から少女が小走りにお膳を運んでやって来る。
「セッちゃん!カヨ姉どっちに行きました?」
と、鶴子の娘、利津子も11歳になり女中稽古をしていた。
「そっちに走ってたから、菊の間だね」
「ありがと」
と、利津子はカヨの後を追いかけて行った。
「先生がドジだから、生徒も大変だな。利津子をカヨに付けてほんとに大丈夫かいな?女将も思い切ったことするもんだねぇ」
と言うセツだが、そのカヨを育てたのは自分だということは、すかっり忘れていた。
菊の間の襖が活き良いよく開く。
「大変お待たせいたしました!」
と、カヨが叫ぶ。その後から利津子も入って来る。
そこは鉄工で財を成した藤崎家が宿泊していた。秋の富士を眺めに一周間ほどの滞在だった。
藤崎シズ婦人が口火を切った。
「あまりにも遅すぎるのではありませんか?」
「申し訳ございません。すぐ準備いたしますので」
「シズ、もうよいではないか」
と藤崎家主、忠道がなだめる。
窓際の椅子に座っていた青年がこちらへ歩いて来る。
「そうだよ。母さんが機嫌悪いと料理までまずくなるよ」
と言って、青年は食事が用意されたテーブルに腰を落とした。
「まあ、母親に向かってなんてこと言うの、真斗!」
「いいから食べよ。僕、お腹ペコペコなんだ」
カヨが真斗の前にお茶を差し出す。
「ありがと」
と、真斗はカヨにすがすがしい笑顔を見せた。
藤崎真斗、24歳。これがカヨとの初めての出会いだった。
「ひゃあ、まいったぁ」
カヨは、控え室の椅子に倒れ込むように座った。
「なんで部屋を間違えるかねぇ」
と、横でセツが小言を言う。
「一度出した膳は引けませんからね。梅の間のお客、一番高いあの料理を格安で食ったわけだ。羨ましい」
と、利津子も加わる。
「もう一回作ってくれた料理長の桑名さんには、感謝感謝だよ」
「カヨ。その言い方、全然気持ち入れてないだろ!」
「でも、菊の間のお客、かっこよかったですねぇ」
「ん?そうだったっけ?」
と、カヨはまったく興味なく返す。
「利津子。お前、まだ11歳のくせに、もう男を物色してるのか?ああ?」
「セッちゃんみたいに行きそびれたくないだけですぅ」
「このク・ソ・ガ・キ。こっちはまだまだ希望を抱いて生きてんだよ!」
と、セツは利津子を追いかける。
「きゃあ」
と叫んで、利津子はカヨの後ろに隠れ、セツにアカンベーをした。
そこへ、竹彦が入って来る。21歳になっていた。
「カヨちゃん、米倉の爺さんまた来てるよ」
「うん、分かった」
「あんたが愛想振りまいて、残り物をやるから癖になってんだよ」
「セッちゃん、困ってる時は持ちつ持たれつだよ」
と、カヨは部屋を出た。
勝手口を開けると、米倉のお爺さんがすまなそうに立っていた。70過ぎで仕事もなく、身内もいない。このようなお年よりがこの時代にはたくさんいた。
カヨはその日暮らしをしている米倉のお爺さんをどうしてもほっとけなかった。
「お爺ちゃん、ごめん。今日はこれだけしかなかったの」
袋に入れた余り物を手渡した。
「カヨちゃん、ありがとう。助かるよ」
と言って、米倉のお爺さんは帰って行く。
カヨが、ドアを閉め戻って行くと、料理長の桑名がお客と揉めていた。
「料理は季節の物ばかりですから、無い物はお出し出来ません」
桑名が説明している相手は、藤崎シズだった。
「あら、もう採れる頃よ。こんな小さな宿では、いい物は回ってこないのね」
カヨは、近くにいた料理人に話を聞いた。
「何があったの?」
「あのご婦人が、マツタケが食べたいと言って、今日の夕食に出せって」
「マツタケってまだないの?」
「もう採れる頃だけど、市場に出てこない限りどうしようもないよ」
「相変わらず気難しいおばさんね。絶対にうちとは合わないな」
シズの後ろで、真斗が困り果てている。
「お母さん、もういいから行こう。みんな迷惑してるよ」
そこへ、女将の鶴子がやって来る。
「そちらも無いから出来ないでは、ご納得いかないでしょう。こちらも方々尽くして探してみます。しかし、手に入らなかった時は諦めてくださいよ」
「ええ、いいでしょう。無かった場合は明日で引き上げさせてもらいます」
「ええ、かまいません」
鶴子はみんなに向かって叫ぶ。
「手が空くものは市場に行って探してきな」
旅館から従業員が何人か出て行く。その中にカヨたちの姿もあった。
ふと、カヨは庭の池を眺めている真斗を見かけた。
「セッちゃん、利津子、ごめん。ちょっと待ってて」
と言って、カヨは真斗に近づいて行った。
「ねぇ、そんなとこにマツタケは無いわよ」
「ふふ、厳しいな。僕の母は言い出したら聞かない人だから……。旅館の人たちには悪いことをしたね。ごめん」
「あんなお母さんと毎日一緒だなんて、あんたも大変ね」
「僕は昔から体が弱くてね。母は、体に良い物と聞けば何でも食べさせてくれたんだ。この時期になると必ずマツタケを食べさせてくれる。すごい過保護だろ?」
「……」
「マツタケは無理しなくていいよ。また食べれるしさ。ただ、この旅館にはもう少しいたかったな……」
と、真斗はそこから富士を眺めた。
「僕はもう部屋に戻るよ。じゃあ」
と、軽く手を上げ行ってしまった。
立ち尽くしているカヨに、
「カヨ、早く行くよ」
と、セツが促した。




