9
それから数日が過ぎた。
カヨはセツと大浴場の掃除をしていた。
「カヨ、今日渡すの?」
「うん」
「カヨは、いいなぁ。肉親が近くにいてさ。うちの里は富山だよ。遠くて帰れないもん」
カヨはただ微笑むだけだった。セツが床をこすりながら、富士を眺めて口ずさむ。
「春の富士を見るたびにー、故郷思うて涙するー。
夏の富士を見るたびにー、家族思うて涙するー。
秋の富士を見るたびにー、仕事つろうて涙するー。
冬の富士を見るたびにー、ひとり寂しゅう涙するー」
「民謡?」
「違う。うちが作った歌なんよ。お父に会いたい、お母に会いたいという気持ちがよく出てるでしょ?」
「なら、うちの前では二度と歌わんで。そんな泣き虫の歌は聞きとうないから」
セツは思い出した。カヨには両親がもういなかったのだ。会いたくても、もう会えなかったのだ。
「ごめんよ、カヨ……」
「もういいよ。さぁ、早く片付けよ」
「まいどあり」
うどん屋の暖簾をくぐって客が帰って行く。昼時ともあって、混雑している店内。
その中に太一の姿もあった。ニコニコしながら注文を待っていた。隣のうまそうにうどんを食べている客を見ている。
汁を飲み干す客。
それを見て、太一が信じられないと言うような驚きの表情になる。
「太一、おまちど」
と、店のおばちゃんが目の前にどんぶりを置いた。
「おお、来た来た」
と、ワクワクしながら、どんぶりを覗く太一。汁は半分位しかなく、短いうどんも3本しか入ってなかった。
「えー、これだけ?おばちゃん、もっとサービスしてよ」
「太一、客の残り物でも、もらえるだけありがたいと思いな。文句があるならそれを食べた客にもっと残せって怒りな!」
「もう、いいよ。食べるよ。……いただきます」
と、手を合わせ食べ始めた。
カヨは昼休みに旅館を抜け出し、太一に会いに向かった。手にはこの前、町で買ったお土産を大切に持ち、小走りに急ぐ。
太一が喜ぶ顔を想像しながら、カヨが微笑む。
道の向こうからやって来る人影にカヨはハッとした。それは、信照たちだった。友達を引き連れて歩いて来る。
「あ、この前の泥棒だ」
信照がニヤ付きながら、
「今日は一人か?」
「おい、こいつ何か持ってるぞ」
「まさか、盗んだもんか?見せてみい」
信照たちはカヨの持っていた小包を奪おうとする。
「ダメ……これはダメ!」
必死に拒むカヨ。だが、信照に取られてしまう。
「お願い、返して!」
他の少年二人がカヨを抑える。
信照が包みの紐に手をかけた時、近くにいた仲間の友達が叫び声とともに倒れ込んだ。
「え?」
と、信照は不思議そうに倒れた友達を見た。そして、もう一人の友達も蹴り倒された。
信照がゆっくりと目を向けた先には太一が立っていた。
カヨが叫ぶ。
「お兄ちゃん!」
「妹に手を出す奴は、絶対に許さん!」
と言って、信照たちに襲いかかっていった。五人が相手でも野生児の太一には敵ではない。
あっという間に信照たちは地面にはいつくばっていた。
太一はうごめく信照を跨いでカヨに近づいて行った。
「カヨ、大丈夫か?」
と、取り返した小包をカヨに手渡した。
「どうしてここが分かったの?」
「たまたま、そこのうどん屋で昼飯食ってたらさぁ、外が騒がしくなってきたのよ。見てみるとお前がいるじゃねぇか。慌てて走って来たんよ」
「ふふ、いつも助けてもらってばかりだね」
「当り前だろ。ほら、旅館まで送ってやるから帰ろう」
「これ、お兄ちゃんに」
と、小包のお土産を太一に渡した。
「何だこれ?」
「誕生日プレゼント」
太一は、驚きながら聞き返す。
「俺にか?今日、俺の誕生日なのか?」
「うん。今日で12歳だよ」
「おおおおー、開けていいのか?」
太一は興奮するように喜ぶ。
「うん、高価な物じゃないけど」
「何だろうなぁ。ドキドキするなぁ」
と、太一が包みの紐を解こうとした。
その時……、信照が太一の後ろから襲いかかった。
「うぅ!」
太一の顔が上を向く。うなりながら半目になっていく。力が抜けるようにガクッと膝を付き、地面に倒れた。
「うう……イテェ……」
カヨは震えながら両手で口を覆い、叫んだ。
「お兄ちゃん!」
「ざまぁ見ろ!」
と、立ち去る信照。手には血が付いたナイフを持っていた。
横たわる太一。押さえている腰からドクドクと血が流れていく。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
太一はやさしい笑顔を作って、
「カヨ、ちょっと竹彦呼んで来てくれ」
「う、うん、分かった」
カヨが急いで立ち上がり走って行く。
「カヨ……」
と、太一が呼び止める。
「何?」
焦るカヨが、慌てながら振り向く。カヨを見ている太一。そこには世界一大好きな妹がいた。太一は、必死にその姿を目に焼き付けていく。
「いや……、なんでもない」
「お兄ちゃん、すぐ戻るからね!」
カヨは走って行った。
太一は手で押さえた傷口を見る。自分はもうダメだと悟った。
周りには近所の人が集まって来る。
「太一!大丈夫か?おい!しっかりしろ……」
しかし、人々の叫び声は、太一の耳には入ってこなかった。
「ああ、学校へ行って勉強したかったなぁ。お父、お母、ごめん……。俺、もうカヨを守ってやれんわ。……あ、そうだ」
力尽きそうな体を無理やり動かし、カヨがくれたプレゼントの包みを開けた。箱には『何でも願いを叶える大仏』と書いてあり、中には手のひらくらいの小さな木彫りの仏像が入っていた。
それを見て太一は声を絞り出した。
「カヨを守ってやってください。あいつを守ってやってください……俺の願いは……それ……だけ……です」
と、涙を流して必死に哀願した。
そして、力尽きた太一の手から仏像が転げ落ちた。
駆け寄ってきた竹彦の声も……、
自分に覆いかぶさって泣き叫ぶカヨの声も……、
もう太一には届いてなかった。
……12歳の命が終わった。
浅間旅館の鶴子のはからいで、太一は近くのお寺の隅に埋葬してもらった。墓などなく、石が何個か積み重ねてあるだけだった。
手を合わせるカヨと竹彦の後ろには、話を聞きつけた町の人々が何十人と集まっていた。みんな太一の死を悲しんだ。
そして、カヨはお墓の前でお兄ちゃんの分もがんばって生きると決心した。
その後、カヨは竹彦に連れられて、ある橋の下へと来ていた。
そこには廃材などで作った汚い小屋があり、カヨは何も分からず不思議そうに見ていた。
竹彦が、話し出す。
「これ……、太一の家だよ。太一はここに住んでたんだ」
「う、うちには、農家の納屋を借りてるって……」
「それはウソだよ。初めから人の世話になんかなる気はなかったんだ」
と言って、竹彦は中には入って行った。カヨも中をそうと覗いた。一畳ほどの小さなスペース。竹彦が下に引いてある御座を捲ると地面がむき出しになっていた。
そこを掘って錆び付いた缶箱を取り出し、それをカヨの前で開けた。中にはたくさんのお金が入っていた。
「今まで太一が貯めたお金だよ。何のお金か分かる?」
カヨは、小さく首を横に振る。
「太一は大きくなったら何かしたいってずっと考えていたんだ。でも、勉強も出来ない、漢字も書けない自分には無理だと言って、夢を変えたんだ」
言葉を詰まらせる竹彦。
「カヨが結婚する時に恥をかかないようにって……、立派な結婚式を挙げてやるんだって……、カヨだけは幸せにしたいって……、それが俺の夢だって言ってた」
竹彦の話を黙って聞いているカヨの目から涙がこぼれる。
「贅沢もせず、必死に貯めてきたカヨちゃんの為のお金だよ」
カヨは差し出された缶箱を強く抱きしめた。
いつも一緒にいてくれて、いつも守ってくれたお兄ちゃんはもういない。最後の家族だったのに……。寂しさがカヨを襲った。
竹彦には、カヨを慰めてあげる言葉が見つからなかった。ただ、カヨと一緒に涙を流した。
太一を刺した信照は、親の根回しで全ての筋書きが動いていた。今回の件は、悪意のない子供のじゃれ合いに、興奮状態で乱入してきた太一の過度の暴行に対する正当防衛と主張。
……それだけでこの件は終ったのだった。
数日後、浅間旅館へ信照と両親がお供を連れて、カヨにお悔やみを言いに来ていた。手には札束が入った風呂敷を持っている。
カヨは旅館の広い玄関に一人で背筋を伸ばし、毅然な態度で座っていた。その視線は、目の前の信照を睨み付けていた。
旅館の者たちが物陰から経緯をうかがっている。
信照の父、岸本甲斐蔵が口を開く。
「この度は、どうも。肉親を亡くされてさぞお辛いことでしょう。このお金は、これからの足しにしなさい」
と言うと、お付の者が風呂敷包みをカヨの前に差し出した。その間、信照はカヨと目を合わせず、不満げな表情をしていた。
「そんな物いりません。お引取り下さい」
と、カヨは冷たくあしらった。甲斐蔵は生意気な小娘だと眉をゆがめながら更に見下す。
カヨは甲斐蔵から目を逸らさず、
「それと、もし次にご子息がうちの前に姿を現したら、うち、何をするか分かりませんから、よく教えておいてください」
甲斐蔵は、凄みを効かせ、
「なんだと、小娘。調子付いてんのか!」
と、大声で叫んだ。周りのざわめきが一瞬で静まり返る。
そこへ、
「あら、これは岸本の旦那、お久しゅう」
「つ、鶴子……」
鶴子が出て来ると、妻の顔色を伺いながら甲斐蔵の顔がしぼんでいく。鶴子はカヨの横まで歩くと、立ったまま腕組みをした。
「なんかうちの若い子と揉めてるみたいですけど、何かあったんですかね?」
「い、いや、話は終った」
「おや、お帰りですか?またのお越しを楽しゅうにしとりすわ」
渋々、引き上げる岸本たちに鶴子が感情を抑えるように話しかける。
「あ、岸本はん。この子が言った言葉は、うちの言葉でもありますさかい。次にご子息を見かけた時は、本気でどうななるか知りませんよって」
震えながら振り返る信照を、鶴子が睨み付けて大声で怒鳴った。
「みんな―、このクソガキのツラをよう覚えときな!」
「へいっ!」
鶴子の後ろに並ぶ旅館の従業員が、一斉に大声で返事をした。
岸本たちが帰って行くと、セツが玄関に塩を撒いた。
「けっ、ざまみろー」
鶴子がみんなを促す。
「さあ、仕事に戻りな」
そして、鶴子はカヨの前にあぐらをかいた。
「カヨ、なかなか様になってたじゃないか」
カヨは力が抜けていくような深いため息をした。
「いいかい。ここにいる者はみんなあんたの家族なんだ。あんたが苦しい時はみんなが助けてくれる。だから、何も心配することはないよ」
「ありがとうございます」
「分かったら、しっかり働いておくれよ」
「はい」
カヨの顔にやっと笑顔がこぼれた。
その後、風の噂で聞いた話しだが、信照は東京の親戚の家に引っ越しをしたそうだ。
カヨには、太一の誕生日にあげた木彫りの仏像が、形見として残ったのだった。
草津誠治は朝起きると窓際の椅子に座り、そこから富士山を眺めた。
庭の木々に止まる鳥が、さえずりながら飛び立つ。
やがて、寝ていた保奈美が目を覚ました。
「ううう……」
布団から体を起こして目をこすりながら、室内を見回す。カヨたちの姿はなかった。誠治が保奈美に気づく。
「起きたか?」
「ねぇ、誠治。お婆ちゃんたちは?」
「俺が起きた時には、もういなかった」
「そう……」
誠治はまた外を見ながら、口を開いた。
「保奈美のお婆ちゃん、すごい人生だな。好きな人を守るって、ハンパなことじゃないんだよな」
「だよね。真似できないね」
「俺、1年前お前と付き合う時、保奈美のことを俺が守るって言ったよな」
「7月15日だよ。いい加減に覚えろ」
「絶対幸せにするからな」
保奈美は微笑みながら誠治に近寄って行った。誠治は保奈美のお腹を優しく触った。
「私は気長に待つけど、この子は待ってくれないからね」
と言って、保奈美は誠治に覆いかぶさるようにキスをした。




