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神猫の気ままな異世界旅  作者: 趣味の黒兎Z
1章 駆け出し冒険者と黒猫の師匠

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01-04 始めての仕事


 東の空が白み始め、小窓から差し込む朝の光が、狭い部屋を薄青く照らしていた。


 鳥のさえずりと、遠くの大通りから聞こえてくる荷車の車輪の音。街が少しずつ目を覚ましていく中、ルシアはゆっくりとまぶたを開いた。


(……あ、朝だ)


 体を包んでいるのは、清潔なシーツと、昨晩ナイトが仕立ててくれた柔らかな寝間着。


 冷たい土の上でも、硬い床の上でもない。


 安心して眠れる場所がある。


 その当たり前のようで、少し前までは望むことさえできなかった幸せを噛みしめながら、ルシアは小さく息を吐いた。


 ふと隣を見ると、ベッドの端で丸くなっていた黒猫が、ぐっと前足を伸ばしているところだった。


 金色の瞳がゆっくりと開かれる。


《ん……起きたか、ルシア》


「おはようございます、師匠……!」


《ああ、おはよう。よく眠れたみたいだな》


「はい! ぐっすり眠れました!」


《そりゃよかった。……さて、今日は記念すべき初仕事だ。まずは昨日買った作業着に着替えて、朝飯を食いに行くぞ》


「はいっ!」


《仕事前にしっかり腹ごしらえをしておくのも、冒険者の基本だからな》


 ルシアは元気よく頷くと、ベッドから降りた。


 昨日、市場で購入した濃い茶色の麻シャツと、膝や尻の部分が補強された丈夫なズボンに着替える。


 腰には真新しい革のポーチを巻き、首元には木製のギルドカードを提げた。


 最後にナイトを抱き上げれば、準備は完了だ。


「師匠、できました!」


《よし、行くか》


 二人が部屋を出て階段を下りると、一階の食堂から焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂ってきた。


「おはよう! よく眠れたかい?」


 女将のマーサが、いつもの豪快な笑顔で出迎えてくれる。


「おはようございます、マーサさん! はい、ぐっすり眠れました!」


「そりゃよかった! 今日は初仕事なんだろ? しっかり食べていきな!」


 テーブルに並べられたのは、焼きたての丸パンと温かいミルク、それに干し肉と豆を煮込んだスープだった。


「ありがとうございます! いただきます!」


 ルシアはパンをスープに浸しながら、夢中になって食べ進めた。


 ナイトも用意してもらった小皿のミルクを、ぺろりと飲み干す。


(うむ。朝から温かい飯が食えるのはいいな)


 満足げに喉を鳴らすナイトの隣で、ルシアもすっかり朝食を平らげた。


「ごちそうさまでした!」


「はいよ! 怪我しないように気をつけるんだよ!」


「はい! 行ってきます!」


 マーサに見送られ、二人は宿を後にした。



 ◇ ◇ ◇



 朝日に照らされた石畳を歩き、二人は再び冒険者ギルドへとやってきた。


 朝のギルドは、昨日訪れた夕方とはまた違った活気に満ちていた。


 これから魔物の討伐や素材の採取へ向かう冒険者たちが、装備の点検をしたり、仲間と依頼について話し合ったりしている。


 重い鎧を身につけた戦士や、大きな杖を背負った魔法使いが忙しなく行き交い、フロアのあちこちから威勢のよい声が聞こえてきた。


 ルシアはナイトを胸に抱き、屈強な冒険者たちの間をおずおずとすり抜けていく。


 向かった先は、壁一面に広がる大きな依頼掲示板だ。


 掲示板にはランクごとに依頼票が分けられているが、その端には『制限なし』と書かれた区画が設けられていた。


 そこに貼られているのは、ランクに関係なく誰でも受けられる、街の中での雑用や手伝いの依頼である。


「ええと……誰でも受けていい依頼は、この辺りですね……」


《ああ。焦らず、端から順番に見ていこう》


 ルシアはナイトを抱き直すと、依頼票を一枚ずつ確認していった。


『北通り・側溝の泥上げおよび清掃作業』

 報酬:一区画につき大銅貨三枚


『東区・食糧倉庫の荷降ろし補助』

 報酬:大銅貨四枚


『民家の裏庭・雑草むしりと庭石の移動』

 報酬:大銅貨二枚


(ふむ……側溝掃除は一区画で大銅貨三枚か)


 ナイトは頭の中で簡単に計算する。


 宿代は食事付きで一泊銀貨一枚。


 大銅貨に換算すれば十枚だ。


 三区画こなせば大銅貨九枚。四区画なら十二枚になる。


 もちろん、初仕事のルシアがどれほど作業できるかは分からない。


 だが、報酬が作業量に応じて増えるというのは悪くない条件だった。


(最初はこういう仕事で体力と経験を積ませるのがいいだろうな。Fランクに上がって薬草採取なんかを受けられるようになるまでは、地道にやっていくか)


《ルシア、今日は側溝掃除にしよう》


「はい、師匠!」


 ルシアは背伸びをすると、北通りの側溝掃除の依頼票を丁寧に剥がした。


 それを両手で握りしめ、受付カウンターへ向かう。


 ちょうど昨日、登録手続きをしてくれた受付嬢のマリアがいた。


「おはようございます! この依頼を受けたいです!」


 ルシアが依頼票を差し出すと、マリアは書類から顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。


「あら、ルシアちゃん! おはようございます。ふふ、さっそくお仕事ですね」


「はい!」


「そういえば、宿はちゃんと見つかりましたか?」


「はい! 紹介してもらった宿、すごくよかったです!」


「それはよかったです!」


 マリアは嬉しそうに微笑むと、依頼票へ視線を落とした。


「ええと……北通りの側溝掃除ですね。この依頼は少し特殊で、一区画終わるごとに依頼主の確認をもらい、最後に作業した区画数に応じて報酬を精算する形になります」


「なるほど……!」


「道具は現地で貸してもらえますから、持っていく必要はありませんよ」


 マリアは手際よくギルドの台帳へ記録をつけ、ルシアの木製ギルドカードに受注の印を押した。


 続いて、依頼の控えを一枚差し出す。


「場所は北通りの商店街を抜けた先、八百屋の裏手辺りです。依頼主のオットーさんにこの控えを渡してください」


「はい!」


「作業が終わったら、何区画分終えたかを確認してもらい、サインを受け取ってきてくださいね。汚れ仕事ですから、怪我には気をつけて」


「分かりました! 行ってきます!」


 ルシアは元気よく返事をすると、依頼の控えを大切にポーチへしまった。


 そして、ナイトを抱き直してギルドを後にした。



 ◇ ◇ ◇



 中央広場を抜け、北へ延びる通りを進んでいく。


 朝の北通りは、開店準備をする商店や、荷車を引く商人たちで賑わっていた。


 店先に並ぶ商品や看板を眺めながら歩いていくと、やがて色鮮やかな野菜が積まれた大きな八百屋が見えてきた。


《あの八百屋の脇にある路地だな。裏手へ回るぞ》


「はい!」


 ルシアは八百屋の軒先を曲がり、建物の裏手へと続く細い道へ足を踏み入れた。


 表通りとは打って変わって、そこには湿った土と淀んだ水の臭いが漂っていた。


 建物の陰になった路地の端には、石組みの側溝が掘られている。


 しかし、その底には黒ずんだ泥や落ち葉が大量に溜まり、水の流れがひどく滞っていた。


「うっ……すごい臭い……」


《まあ、側溝だからな。これを綺麗にするのが今日の仕事だ》


 ナイトが平然と答える。


 側溝の傍らには、木箱に腰掛けて煙管をくゆらせる初老の男がいた。


 使い古された作業着に、日に焼けた顔。


 深い皺の刻まれた顔つきは、いかにも頑固そうである。


 その傍らには、泥上げ用の鉄製スコップと、頑丈な木製のバケツがいくつも積まれていた。


 ルシアは少し緊張しながら近づくと、依頼の控えを両手で差し出した。


「あ、あの……冒険者ギルドから来ました、ルシアです。側溝の清掃依頼を受けたのですが、オットーさんでしょうか……?」


 男は煙管の灰を空き缶へ落とすと、ルシアをじろりと見つめた。


「……ああ、俺がオットーだ」


 そして、小柄な少女の姿を上から下まで眺め、眉をひそめる。


「ギルドから寄越されたのが、こんなちっこい小娘とはな。見習い登録したばかりってところか?」


「は、はい! 昨日登録しました!」


「ふん……」


 オットーは短く鼻を鳴らした。


「側溝の泥上げが、どれだけ腰にくる重労働か分かってんのか?」


 その言葉に、ルシアは一瞬だけたじろいだ。


 しかし、すぐに背筋を伸ばし、真剣な表情で答える。


「一生懸命やります! よろしくお願いします!」


 オットーはしばらくルシアを見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。


「……まあいい。口先だけじゃないといいがな」


 そう言って、側溝を顎で示す。


「この前の大雨で、通り中の土砂やゴミが一気に流れ込んじまってな。底に泥が溜まって、水がまともに流れなくなってるんだ」


 オットーは立ち上がると、路地の先を指さした。


「放っておけば水が溢れて、店先の商売にも影響が出る。だから、できるだけ早く片づけたいってわけだ」


「なるほど……」


「作業範囲は、石畳十枚分で一区画だ。あそこの角までが一区画目になる」


 オットーは続けて、積んであった道具を示した。


「スコップで底の泥を掻き出して、バケツに入れろ。溜まった泥は、指定の集積場まで運ぶんだ」


「はい!」


「底の石が見えるまで綺麗にしろよ。手抜きしてヘドロを残したら、終わったとは認めねえからな」


《聞いての通りだ、ルシア。まずは一区画、確実に終わらせよう》


「はい、師匠!」


 ルシアはスコップとバケツを受け取り、作業用の手袋をはめた。


 ナイトを汚れの届かない場所へ下ろすと、側溝の前にしゃがみ込む。


 そして、スコップを握りしめた。


「……よしっ!」


 ザシュッ!


 湿った重い音が路地に響いた。


 ルシアはスコップを側溝の底へ突き立て、黒い泥をすくい上げる。


「……っ、お、重たい……!」


 見た目以上に、泥はずっしりと重かった。


 水分を大量に含んだ泥はスコップにまとわりつき、持ち上げるたびに腕や手首へ負担がかかる。


 それでもルシアは、すくった泥をバケツへ移し、再びスコップを突き立てた。


 ザシュッ、ザシュッ。


 数回繰り返しただけで、腕がじんじんと熱を持ち始める。


 腰にも嫌な張りが走った。


「はぁ……っ、はぁ……!」


 まだ作業を始めて間もないというのに、額には汗が浮かんでいた。


 小柄なルシアにとって、泥の詰まったスコップを何度も持ち上げる作業は、想像以上の重労働だった。


《ルシア、腕の力だけで持ち上げようとするな》


 少し離れた場所で見守っていたナイトから、念話が届く。


《昨晩の訓練を思い出せ》


「……魔力、ですか……?」


《ああ。昨日の今日ですぐにうまくできるとは思わんが、魔力を練る感覚は少し掴めたはずだ》


 ナイトは落ち着いた声で続けた。


《へその下に意識を集中して、固まった魔力を揉みほぐす。それを腰や腕へ、少しずつ巡らせてみろ》


「はい……っ!」


 ルシアは一度スコップを置き、大きく息を吐いた。


 そして、お腹の奥へ意識を向ける。


 そこには、昨晩と同じように重たく滞る魔力があった。


(昨日、師匠に教えてもらった通りに……)


 固いパン生地を、少しずつ温めてほぐしていく。


 そんなイメージを頭の中に描いた。


 最初は、うまく動かない。


 しかし、何度か意識を向け直しているうちに、魔力がわずかに動き始めた。


(……あっ!)


 昨晩よりも、少しだけ感覚を掴みやすい。


 ルシアはその流れを逃さないよう、慎重に魔力を練っていった。


 やがて、ほぐれた魔力が腹から腰へ、そして両腕へとゆっくり流れ始める。


 じんわりとした温もりが、手足に広がった。


「……できた、かも……!」


《よし。そのまま、もう一度スコップを持ってみろ》


 ルシアはスコップを握り、泥へ突き立てた。


 そして、ゆっくりと持ち上げる。


「……あれ?」


 先ほどよりも、軽い。


 もちろん、泥そのものが軽くなったわけではない。


 しかし、腕や腰にかかる負担が明らかに減っていた。


「すごい……! さっきより、ずっと持ち上げやすいです!」


《うまく魔力が巡ってるな》


 ナイトは満足げに頷いた。


《ただし、まだ不安定だ。無理に大量の魔力を流そうとするなよ》


「はい!」


《それと、今は魔力を動かすだけでも集中力を使う。作業に夢中になって、限界を見失わないようにな》


「分かりました!」


 ルシアは再び作業を始めた。


 ザシュッ、ザシュッ。


 先ほどよりも、スコップを動かす手つきが軽やかになっている。


 魔力を巡らせることで身体の動きを補助しながら、泥を掻き出していく。


 バケツがいっぱいになれば、指定された集積場へ運び、再び側溝へ戻る。


 地道な作業の繰り返しだ。


 それでも、魔力の使い方を少しずつ掴み始めたルシアの作業速度は、確実に上がっていた。


 やがて、一区画目の大まかな泥上げが終わった。


「や、やった……!」


 ルシアは額の汗を拭いながら、嬉しそうに声を上げた。


 まだ底には薄く泥が残っているものの、大量に溜まっていたヘドロはほとんど取り除かれている。


《よし、いい調子だな》


「はい! このまま次も頑張ります!」


 手応えを感じたルシアは、勢いそのままに二区画目の作業へ取りかかった。


 しかし――。


 二区画目を三割ほど進めた頃だった。


「……っ!」


 突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。


(あれ……?)


 視界がわずかに揺れる。


 魔力を練り、体内へ流し続ける。


 その作業は、慣れていないルシアにとって、想像以上に集中力を消耗するものだった。


 さらに、魔力で補助しているとはいえ、肉体労働による疲労も確実に蓄積している。


 そして、ついに集中力が限界を迎えた。


「う……っ!」


 体内を巡っていた魔力の流れが乱れる。


 それまで軽く感じていたスコップが、急に重くなった。


 カランッ!


 ルシアは思わずスコップを取り落とした。


「はぁっ……はぁっ……!」


 その場にぺたりと座り込み、肩で息をする。


 腕も腰も、鉛のように重い。


 魔力の補助がなくなったことで、今まで意識していなかった疲労が一気に押し寄せてきたのだ。


《……そこまでだな》


 ナイトが静かに歩み寄ってきた。


「はぁ……っ、すみません、師匠……。急に、頭がぼーっとして……体が、動かなくなっちゃって……」


《そりゃそうだ。慣れない魔力操作を維持しながら、ずっと肉体労働をしてたんだからな》


 ナイトは呆れたように尻尾を揺らした。


《全速力で走りながら、頭の中で計算問題を解き続けるようなもんだ。魔力も集中力も、そろそろ限界だったんだろう》


「うぅ……」


《だが、よく頑張ったな。一区画はほぼ終わってるし、二区画目にも手をつけられた》


 そう言って、ナイトは小さな前足を持ち上げた。


 淡い光がルシアの体を包み込む。


 次の瞬間、作業着にこびりついていた泥も、肌に滲んだ汗も、綺麗さっぱりと消え去った。


「あ……!」


 ルシアは驚いたように自分の服を見下ろした。


「すごい……! また綺麗になりました……!」


《〈洗浄(クリーン)〉だな》


「私も、早く使えるようになりたいです……」


《焦るな。今の状態で新しい魔法を覚えようとしても、まともに集中できんだろう》


 ナイトは空を見上げた。


 太陽はまだ高く、昼には少し早い時間だった。


《まずは休憩だ。魔力と体力がある程度戻ったら、午後の作業の前に教えてやる》


「本当ですか……!」


《ああ。今日は三区画を目標にしてるんだ。無理せず休んでから再開すればいい》


「はい……!」


 ルシアが頷くと、ナイトは彼女の前にちょこんと座った。


《ほら、両手を出してみろ》


「え? あ、はい……」


 ルシアは言われるまま、両手を差し出した。


 ナイトはその手のひらに、小さな前足を重ねる。


 柔らかな肉球から、じんわりと温かい魔力が流れ込んできた。


「……あっ」


 胸の奥に、ほのかな温もりが広がる。


 同時に、淡い緑色の光がルシアの体を包み込んだ。


「なんだか……体の奥が、ぽかぽかします……」


《自然回復を促進する魔法をかけた》


 ナイトは落ち着いた声で説明する。


《〈自己回復促進(リジェネ)〉って魔法だ。体が本来持っている回復力を高めて、少しずつ疲労や傷を回復させる》


「そんな魔法もあるんですね……!」


《ただし、回復には魔力を使う。今のお前は魔力がほとんど残ってないから、発動を助ける分だけ俺の魔力を渡しておいた》


「師匠の魔力……すごく温かいです……」


 ルシアは自分の手を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます……!」


《気にするな》


 ナイトは前足を引っ込めた。


《一瞬で疲労を取り除くような魔法もあるが、毎回それに頼ってちゃ訓練にならんからな》


「訓練……ですか?」


《ああ。自分の限界を知って、適切に休みながら、少しずつ使える魔力や体力を増やしていく。それが大事なんだ》


 ナイトは続けた。


《ただし、限界を超えて無理をすればいいってわけじゃない。倒れるまで頑張るより、余裕を残して続けられる方が、長い目で見ればずっといい》


「……はい!」


《今日は初日なんだ。無茶する必要はないぞ》


 ルシアは素直に頷いた。


《ほら、あそこの木陰で少し休め》


「分かりました……!」


 ルシアは近くの木陰へ移動すると、幹に背中を預けて座り込んだ。


 張り詰めていた気が緩んだのだろう。


 ほどなくして、すうすうと小さな寝息が聞こえ始めた。


 ナイトはその傍らに腰を下ろし、静かに様子を見守る。


(……しかし、吸血鬼ってのは便利な体だな)


 ルシアの体内では、〈自己回復促進(リジェネ)〉の効果と、吸血鬼として備わっている高い再生能力が働いていた。


 消耗した体力が少しずつ戻り、乱れていた魔力の流れも落ち着いていく。


 もちろん、すぐに全快するわけではない。


 それでも、普通の人間より回復が早いのは確かだった。


(これなら、午後にはある程度動けるようになるだろう)


 ナイトは満足げに頷くと、尻尾を体に巻きつけた。



 ◇ ◇ ◇



「……ん……」


 木漏れ日の眩しさに、ルシアがゆっくりと目を覚ました。


 しばらくぼんやりと瞬きをしていたが、やがて自分の体を確かめるように手を握ったり開いたりし始める。


「……あれ?」


 先ほどまで鉛のように重かった手足が、ずいぶん軽くなっていた。


 頭の痛みも、ほとんど消えている。


「すごい……! あんなに疲れてたのに、だいぶ楽になってます……!」


《起きたか》


 隣で丸くなっていたナイトが顔を上げた。


《吸血鬼の再生力とリジェネのおかげだな。魔力も半分以上は戻ってる》


「そんなに……!」


《ああ。だが、全快したわけじゃないからな。午後も無理は禁物だ》


「はい!」


《さて……約束通り、〈洗浄(クリーン)〉を教えるか》


 その言葉に、ルシアの表情がぱっと明るくなった。


「はい! お願いします、師匠!」


 ナイトは立ち上がると、午前中に泥上げを終えた一区画目へ視線を向けた。


《まずは、あそこに残ってる泥で練習してみろ》


「側溝の泥で、ですか?」


《ああ。どうせ綺麗にしなきゃならない場所だ。魔法の練習にもなるし、一石二鳥だろ》


「なるほど……!」


 ルシアは側溝の前へしゃがみ込み、底に残った薄い泥を見つめた。


《〈洗浄(クリーン)〉は、対象についた汚れを取り除く魔法だ》


 ナイトは説明を始める。


《まず、綺麗にしたいものを意識する。今回は側溝の石だな》


「はい」


《その表面に、薄い魔力の膜を広げるイメージを持て。そして、石に付着した泥を異物として捉え、剥がして取り除くんだ》


「魔力の膜……」


《そうだ。石と泥の間に、薄い膜を滑り込ませるような感覚だな》


 ルシアはこくりと頷いた。


 そして、側溝の底へ手をかざす。


 お腹の奥に意識を向け、魔力をゆっくりと練り始めた。


 午前中の作業を経験したおかげか、昨晩よりも魔力を動かしやすい。


 しかし、それを体の外へ放出し、狙った場所へ広げるとなると話は別だった。


「う……うーん……」


 手のひらから漏れ出た魔力が、うまくまとまらずに散ってしまう。


《焦るな。いきなり広い範囲を綺麗にしようとするなよ》


「は、はい……!」


《まずは手のひらの先にある、小さな範囲だけを意識してみろ》


 ルシアは深呼吸をした。


 そして、もう一度。


(石の表面に……薄い膜を張って……)


 魔力を少しずつ伸ばしていく。


(泥だけを……剥がす……!)


 今度は、魔力が狙った場所へと届いた。


 ルシアはその感覚を逃さないように、意識を集中させる。


「――〈洗浄(クリーン)〉!」


 ぱっ、と淡い光が手のひらから放たれた。


 次の瞬間、側溝の底にこびりついていた泥が、さらさらと崩れて消えていく。


 後には、汚れの落ちた石組みが姿を現していた。


「……わぁっ!」


 ルシアは目を輝かせた。


「できました! 師匠、できましたよ!」


《ああ、見事だ》


 ナイトは満足げに頷いた。


《初めてにしては上出来だな》


「えへへ……!」


 ルシアは嬉しそうに笑った。


 しかし、ナイトはすぐに釘を刺す。


《ただし、調子に乗って側溝全体を一気に綺麗にしようとするなよ》


「えっ?」


《範囲を広げれば、その分だけ魔力を使う。今のお前じゃ、すぐに魔力切れになるぞ》


「そ、そうなんですね……」


《ああ。だから、まずはスコップで大まかな泥を取り除く。その後、残った汚れを〈洗浄(クリーン)〉で落とせばいい》


「なるほど……!」


《何でも魔法だけで解決しようとする必要はない。道具と魔法をうまく使い分けるのも大事だぞ》


「はい、師匠!」


 ルシアは元気よく頷いた。


 こうして、午後の作業が始まった。


 スコップで泥を掻き出し、バケツで運ぶ。


 大まかな泥を取り除いたら、最後に〈洗浄(クリーン)〉で仕上げる。


 午前中の経験もあって、作業の手順は少しずつ滑らかになっていった。


 とはいえ、体力も魔力も無限ではない。


 ナイトの指示で何度か休憩を挟み、途中で軽い食事も取りながら、ルシアは地道に作業を進めていった。


 そして――。


 太陽が西へ傾き始めた頃。


「はぁ……っ、はぁ……っ!」


 ルシアは最後の泥を掻き出すと、スコップを杖代わりにして、その場に膝をついた。


「お、終わりました……!」


 目の前には、底の石組みが綺麗に見える側溝が続いている。


 一区画、二区画、そして三区画。


 目標としていた範囲を、どうにかすべて終わらせることができたのだ。


 しかし、ルシアの体力はすでに限界だった。


「はぁ……はぁ……もう……腕も、魔力も……ほとんど残ってません……」


《お疲れさん。よくやったな》


 ナイトが静かに声をかける。


 ルシアは荒い息を整えながら、少し悔しそうに唇を結んだ。


「でも……もっと、四区画くらいできると思ったのに……」


《欲張るな》


 ナイトは即座に返した。


《初仕事で三区画も終わらせたんだ。十分だろ》


「……そうでしょうか?」


《ああ。それに、自分がどれくらい動けるのか分かっただけでも大きな収穫だ》


 ナイトは尻尾をゆっくりと揺らす。


《限界を知らずに無茶する奴ほど、いざというときに動けなくなるからな》


「……はい」


《今日は胸を張っていいぞ》


 その言葉に、ルシアはようやく小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、師匠……!」


 ちょうどそのとき、オットーが煙管をくゆらせながら歩いてきた。


「……おう、終わったか」


「は、はい……! 三区画、終わりました!」


 オットーは返事をせず、側溝を覗き込んだ。


 泥が取り除かれた底には、石組みが綺麗に露出している。


 滞っていた水も、さらさらと音を立てて流れ始めていた。


 オットーはしばらく仕上がりを確かめると、短く鼻を鳴らした。


「……ふん。まあ、文句はねえな」


「……!」


「ちっこい割には、ちゃんとやるじゃねえか。底まで綺麗になってる」


 そう言うと、オットーは依頼の控えを受け取り、そこへ『三区画完了』と書き込んだ。


 最後に、力強くサインをする。


「ほらよ。これをギルドへ持っていきな」


「ありがとうございます、オットーさん!」


 ルシアは控えを両手で受け取り、深々と頭を下げた。


 オットーは照れ隠しでもするように、ふんと鼻を鳴らす。


「……次も頼むなら、もう少し早く来いよ」


「はいっ!」


 ルシアは嬉しそうに返事をした。



 ◇ ◇ ◇



 冒険者ギルドへ戻った二人は、マリアのいる受付で依頼の完了報告を済ませた。


「お疲れさまでした、ルシアちゃん!」


 マリアは依頼の控えを確認し、にっこりと微笑んだ。


「三区画分ですね。では、報酬は大銅貨九枚になります」


 カウンターの上に、硬貨が一枚ずつ並べられていく。


 カチャリ、カチャリ。


 全部で九枚。


 ルシアはその硬貨を、しばらくじっと見つめていた。


「……これが、私の……」


《ああ。お前が自分で働いて稼いだ金だ》


 ナイトの言葉に、ルシアはそっと硬貨を手に取った。


 宿代一泊分には、大銅貨一枚だけ届かない。


 しかし、金額の問題ではなかった。


 これは、ルシアが自分の力で働き、初めて手にした報酬なのだ。


「……えへへ」


 ルシアは嬉しそうに笑い、硬貨を大切にポーチへしまった。


「ありがとうございます!」


「ふふっ。明日も頑張ってくださいね。でも、無理はしないように」


「はい!」


 マリアに礼を告げ、二人はギルドを後にした。


 外へ出ると、ルシアはようやく緊張が解けたように大きく息を吐いた。


「はぁぁ……疲れましたぁ……」


《そりゃそうだろうな》


 ナイトは苦笑しながら、ルシアへ前足を向けた。


《ほら、じっとしてろ》


 淡い光がルシアの体を包み込む。


 〈洗浄(クリーン)〉によって、作業着に残っていた泥や汗が綺麗に消え去った。


 さらに、〈自己回復促進(リジェネ)〉を重ねる。


「……あっ、また体がぽかぽかしてきました」


《すぐに疲れが取れるわけじゃないが、少しは楽になるだろ》


「ありがとうございます、師匠!」


《よし、宿に戻って飯にするぞ》


「はいっ!」


 二人は夕暮れの街を歩き、宿屋『猫の額ほどの宿』へと戻った。


 宿では、マーサが温かなシチューと黒パンを用意してくれていた。


「おかえり! どうだったい、初仕事は?」


「はい! 三区画、お掃除してきました!」


「おお、そりゃ頑張ったねぇ!」


 マーサは豪快に笑い、ルシアの前へ料理を並べた。


「さあ、たっぷり食べな! 働いた後の飯は格別だよ!」


「いただきます!」


 ルシアは夢中になってシチューを口へ運んだ。


 温かな料理が、疲れた体にじんわりと染み渡っていく。


(……おいしい)


 今日一日、何度もスコップを振るい、重たい泥を運んだ。


 魔力の扱いに苦戦し、途中で動けなくなるほど疲れもした。


 それでも、自分の力で仕事をやり遂げた。


 その達成感が、いつもの食事を一段と美味しく感じさせていた。


 食事を終えると、ルシアは裏の井戸から桶に水を汲み、二階の部屋へと運んだ。


 ナイトの魔法で汚れは落ちているものの、一日働いた後は、やはり自分の手でも体を拭いておきたい。


 ルシアは昨日もらった麻タオルを水に浸し、ぎゅっと絞った。


 そして、腕を拭いてみる。


「……いたっ」


 思わず小さな声が漏れた。


 厚手で丈夫なのはいいのだが、布地がかなり硬い。


 肌に擦れるたびに、少し痛みを感じるほどだった。


「うぅ……ちょっと痛いかも……」


《……やっぱりそうなるか》


 様子を見ていたナイトが、呆れたように呟いた。


《ほら、こっちを使え》


 ナイトがインベントリから取り出したのは、ふかふかの柔らかなタオルだった。


 それが、ぽすんとベッドの上へ落ちる。


「わぁ……!」


 ルシアはタオルを手に取り、頬へそっと当てた。


「すっごく柔らかい……!」


《肌を拭くなら、そっちの方がいいだろ》


「はい! ありがとうございます、師匠!」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


 柔らかなタオルで体を拭き、新しい肌着に着替える。


 最後に昨晩の寝間着を身につけると、ようやくほっと息を吐いた。


「ふぅ……気持ちいいです……」


《よし。じゃあ、寝る前に少しだけ魔力を動かすぞ》


「はい!」


 ナイトはベッドの上でルシアと向かい合い、小さな前足を差し出した。


《今日は一日中魔力を使ったからな。最後に一、二周だけ、ゆっくり巡らせて終わりにしよう》


「分かりました」


《無理に力を入れるなよ。川の流れに身を任せるようなイメージだ》


 ルシアは目を閉じ、ナイトの肉球へそっと手を重ねた。


 伝わってくる温もりを感じながら、お腹の奥にある魔力へ意識を向ける。


 そして、ゆっくりと体内を巡らせていった。


(……あれ?)


 ルシアは不思議そうに眉を動かした。


 昨晩は、魔力を少し動かすだけでも苦労していた。


 しかし今は、以前よりもずっと滑らかに流れていく。


 もちろん、まだ自在に操れるわけではない。


 それでも、確かな変化があった。


「あ……師匠……!」


《ん?》


「魔力が……朝よりも、ずっと動かしやすいです……!」


《ああ。今日一日、何度も動かしてたからな》


 ナイトは満足げに頷いた。


《少しずつ、魔力の流れに体が慣れてきたんだろう》


「……!」


《その調子で続ければ、もっと自然に動かせるようになるさ》


「はい……!」


 ルシアは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、魔力をもう一巡させたところで、ナイトが声をかける。


《よし、今日はここまでだ》


「ありがとうございました、師匠……!」


《ああ。もう寝ろ。明日も仕事だぞ》


「はい……!」


 ルシアはベッドへ潜り込むと、ナイトをそっと抱き寄せた。


 柔らかな毛並みに頬を寄せ、安心したように目を細める。


「おやすみなさい、師匠……」


《ああ、おやすみ》


 それから間もなく、ルシアは深い眠りへと落ちていった。


 ナイトは少女の腕の中で小さく欠伸をすると、静かに目を閉じた。



 ◇ ◇ ◇



 ――そして、翌日も、そのまた翌日も。


 ルシアは北通りの側溝掃除を続けた。


 初日は何度も休憩を挟みながら、どうにか三区画を終わらせるのが精いっぱいだった。


 しかし、二日目には少しずつ作業に慣れ、四区画を終えられるようになった。


 スコップの扱い方も上達し、泥を持ち上げる際に余計な力を使わなくなっていく。


 魔力操作についても、少しずつ変化が現れていた。


 最初は魔力を巡らせるだけで精いっぱいだったが、次第に作業をしながらでも、ある程度流れを維持できるようになってきたのだ。


 もちろん、長時間続ければ集中力は切れる。


 魔力も消耗する。


 それでも、初日よりは確実に長く動けるようになっていた。


 三日目には、魔力を巡らせる動作がさらに自然になり、作業の速度も上がっていった。


 泥を掻き出し、バケツで運び、最後に〈洗浄(クリーン)〉で仕上げる。


 同じ作業を繰り返す中で、ルシアは少しずつ自分の体と魔力の扱い方を覚えていく。


 ナイトはそんな弟子の成長を見守りながら、ときには助言を与え、ときには休憩を命じた。


 焦る必要はない。


 まだ冒険者としての生活は始まったばかりなのだから。


 地道な泥掃除の日々を通して、ルシアの体力と魔力操作、そして冒険者としての基礎は、着実に鍛えられていくのだった。

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