01-04 始めての仕事
東の空が白み始め、小窓から差し込む朝の光が、狭い部屋を薄青く照らしていた。
鳥のさえずりと、遠くの大通りから聞こえてくる荷車の車輪の音。街が少しずつ目を覚ましていく中、ルシアはゆっくりとまぶたを開いた。
(……あ、朝だ)
体を包んでいるのは、清潔なシーツと、昨晩ナイトが仕立ててくれた柔らかな寝間着。
冷たい土の上でも、硬い床の上でもない。
安心して眠れる場所がある。
その当たり前のようで、少し前までは望むことさえできなかった幸せを噛みしめながら、ルシアは小さく息を吐いた。
ふと隣を見ると、ベッドの端で丸くなっていた黒猫が、ぐっと前足を伸ばしているところだった。
金色の瞳がゆっくりと開かれる。
《ん……起きたか、ルシア》
「おはようございます、師匠……!」
《ああ、おはよう。よく眠れたみたいだな》
「はい! ぐっすり眠れました!」
《そりゃよかった。……さて、今日は記念すべき初仕事だ。まずは昨日買った作業着に着替えて、朝飯を食いに行くぞ》
「はいっ!」
《仕事前にしっかり腹ごしらえをしておくのも、冒険者の基本だからな》
ルシアは元気よく頷くと、ベッドから降りた。
昨日、市場で購入した濃い茶色の麻シャツと、膝や尻の部分が補強された丈夫なズボンに着替える。
腰には真新しい革のポーチを巻き、首元には木製のギルドカードを提げた。
最後にナイトを抱き上げれば、準備は完了だ。
「師匠、できました!」
《よし、行くか》
二人が部屋を出て階段を下りると、一階の食堂から焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂ってきた。
「おはよう! よく眠れたかい?」
女将のマーサが、いつもの豪快な笑顔で出迎えてくれる。
「おはようございます、マーサさん! はい、ぐっすり眠れました!」
「そりゃよかった! 今日は初仕事なんだろ? しっかり食べていきな!」
テーブルに並べられたのは、焼きたての丸パンと温かいミルク、それに干し肉と豆を煮込んだスープだった。
「ありがとうございます! いただきます!」
ルシアはパンをスープに浸しながら、夢中になって食べ進めた。
ナイトも用意してもらった小皿のミルクを、ぺろりと飲み干す。
(うむ。朝から温かい飯が食えるのはいいな)
満足げに喉を鳴らすナイトの隣で、ルシアもすっかり朝食を平らげた。
「ごちそうさまでした!」
「はいよ! 怪我しないように気をつけるんだよ!」
「はい! 行ってきます!」
マーサに見送られ、二人は宿を後にした。
◇ ◇ ◇
朝日に照らされた石畳を歩き、二人は再び冒険者ギルドへとやってきた。
朝のギルドは、昨日訪れた夕方とはまた違った活気に満ちていた。
これから魔物の討伐や素材の採取へ向かう冒険者たちが、装備の点検をしたり、仲間と依頼について話し合ったりしている。
重い鎧を身につけた戦士や、大きな杖を背負った魔法使いが忙しなく行き交い、フロアのあちこちから威勢のよい声が聞こえてきた。
ルシアはナイトを胸に抱き、屈強な冒険者たちの間をおずおずとすり抜けていく。
向かった先は、壁一面に広がる大きな依頼掲示板だ。
掲示板にはランクごとに依頼票が分けられているが、その端には『制限なし』と書かれた区画が設けられていた。
そこに貼られているのは、ランクに関係なく誰でも受けられる、街の中での雑用や手伝いの依頼である。
「ええと……誰でも受けていい依頼は、この辺りですね……」
《ああ。焦らず、端から順番に見ていこう》
ルシアはナイトを抱き直すと、依頼票を一枚ずつ確認していった。
『北通り・側溝の泥上げおよび清掃作業』
報酬:一区画につき大銅貨三枚
『東区・食糧倉庫の荷降ろし補助』
報酬:大銅貨四枚
『民家の裏庭・雑草むしりと庭石の移動』
報酬:大銅貨二枚
(ふむ……側溝掃除は一区画で大銅貨三枚か)
ナイトは頭の中で簡単に計算する。
宿代は食事付きで一泊銀貨一枚。
大銅貨に換算すれば十枚だ。
三区画こなせば大銅貨九枚。四区画なら十二枚になる。
もちろん、初仕事のルシアがどれほど作業できるかは分からない。
だが、報酬が作業量に応じて増えるというのは悪くない条件だった。
(最初はこういう仕事で体力と経験を積ませるのがいいだろうな。Fランクに上がって薬草採取なんかを受けられるようになるまでは、地道にやっていくか)
《ルシア、今日は側溝掃除にしよう》
「はい、師匠!」
ルシアは背伸びをすると、北通りの側溝掃除の依頼票を丁寧に剥がした。
それを両手で握りしめ、受付カウンターへ向かう。
ちょうど昨日、登録手続きをしてくれた受付嬢のマリアがいた。
「おはようございます! この依頼を受けたいです!」
ルシアが依頼票を差し出すと、マリアは書類から顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「あら、ルシアちゃん! おはようございます。ふふ、さっそくお仕事ですね」
「はい!」
「そういえば、宿はちゃんと見つかりましたか?」
「はい! 紹介してもらった宿、すごくよかったです!」
「それはよかったです!」
マリアは嬉しそうに微笑むと、依頼票へ視線を落とした。
「ええと……北通りの側溝掃除ですね。この依頼は少し特殊で、一区画終わるごとに依頼主の確認をもらい、最後に作業した区画数に応じて報酬を精算する形になります」
「なるほど……!」
「道具は現地で貸してもらえますから、持っていく必要はありませんよ」
マリアは手際よくギルドの台帳へ記録をつけ、ルシアの木製ギルドカードに受注の印を押した。
続いて、依頼の控えを一枚差し出す。
「場所は北通りの商店街を抜けた先、八百屋の裏手辺りです。依頼主のオットーさんにこの控えを渡してください」
「はい!」
「作業が終わったら、何区画分終えたかを確認してもらい、サインを受け取ってきてくださいね。汚れ仕事ですから、怪我には気をつけて」
「分かりました! 行ってきます!」
ルシアは元気よく返事をすると、依頼の控えを大切にポーチへしまった。
そして、ナイトを抱き直してギルドを後にした。
◇ ◇ ◇
中央広場を抜け、北へ延びる通りを進んでいく。
朝の北通りは、開店準備をする商店や、荷車を引く商人たちで賑わっていた。
店先に並ぶ商品や看板を眺めながら歩いていくと、やがて色鮮やかな野菜が積まれた大きな八百屋が見えてきた。
《あの八百屋の脇にある路地だな。裏手へ回るぞ》
「はい!」
ルシアは八百屋の軒先を曲がり、建物の裏手へと続く細い道へ足を踏み入れた。
表通りとは打って変わって、そこには湿った土と淀んだ水の臭いが漂っていた。
建物の陰になった路地の端には、石組みの側溝が掘られている。
しかし、その底には黒ずんだ泥や落ち葉が大量に溜まり、水の流れがひどく滞っていた。
「うっ……すごい臭い……」
《まあ、側溝だからな。これを綺麗にするのが今日の仕事だ》
ナイトが平然と答える。
側溝の傍らには、木箱に腰掛けて煙管をくゆらせる初老の男がいた。
使い古された作業着に、日に焼けた顔。
深い皺の刻まれた顔つきは、いかにも頑固そうである。
その傍らには、泥上げ用の鉄製スコップと、頑丈な木製のバケツがいくつも積まれていた。
ルシアは少し緊張しながら近づくと、依頼の控えを両手で差し出した。
「あ、あの……冒険者ギルドから来ました、ルシアです。側溝の清掃依頼を受けたのですが、オットーさんでしょうか……?」
男は煙管の灰を空き缶へ落とすと、ルシアをじろりと見つめた。
「……ああ、俺がオットーだ」
そして、小柄な少女の姿を上から下まで眺め、眉をひそめる。
「ギルドから寄越されたのが、こんなちっこい小娘とはな。見習い登録したばかりってところか?」
「は、はい! 昨日登録しました!」
「ふん……」
オットーは短く鼻を鳴らした。
「側溝の泥上げが、どれだけ腰にくる重労働か分かってんのか?」
その言葉に、ルシアは一瞬だけたじろいだ。
しかし、すぐに背筋を伸ばし、真剣な表情で答える。
「一生懸命やります! よろしくお願いします!」
オットーはしばらくルシアを見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……まあいい。口先だけじゃないといいがな」
そう言って、側溝を顎で示す。
「この前の大雨で、通り中の土砂やゴミが一気に流れ込んじまってな。底に泥が溜まって、水がまともに流れなくなってるんだ」
オットーは立ち上がると、路地の先を指さした。
「放っておけば水が溢れて、店先の商売にも影響が出る。だから、できるだけ早く片づけたいってわけだ」
「なるほど……」
「作業範囲は、石畳十枚分で一区画だ。あそこの角までが一区画目になる」
オットーは続けて、積んであった道具を示した。
「スコップで底の泥を掻き出して、バケツに入れろ。溜まった泥は、指定の集積場まで運ぶんだ」
「はい!」
「底の石が見えるまで綺麗にしろよ。手抜きしてヘドロを残したら、終わったとは認めねえからな」
《聞いての通りだ、ルシア。まずは一区画、確実に終わらせよう》
「はい、師匠!」
ルシアはスコップとバケツを受け取り、作業用の手袋をはめた。
ナイトを汚れの届かない場所へ下ろすと、側溝の前にしゃがみ込む。
そして、スコップを握りしめた。
「……よしっ!」
ザシュッ!
湿った重い音が路地に響いた。
ルシアはスコップを側溝の底へ突き立て、黒い泥をすくい上げる。
「……っ、お、重たい……!」
見た目以上に、泥はずっしりと重かった。
水分を大量に含んだ泥はスコップにまとわりつき、持ち上げるたびに腕や手首へ負担がかかる。
それでもルシアは、すくった泥をバケツへ移し、再びスコップを突き立てた。
ザシュッ、ザシュッ。
数回繰り返しただけで、腕がじんじんと熱を持ち始める。
腰にも嫌な張りが走った。
「はぁ……っ、はぁ……!」
まだ作業を始めて間もないというのに、額には汗が浮かんでいた。
小柄なルシアにとって、泥の詰まったスコップを何度も持ち上げる作業は、想像以上の重労働だった。
《ルシア、腕の力だけで持ち上げようとするな》
少し離れた場所で見守っていたナイトから、念話が届く。
《昨晩の訓練を思い出せ》
「……魔力、ですか……?」
《ああ。昨日の今日ですぐにうまくできるとは思わんが、魔力を練る感覚は少し掴めたはずだ》
ナイトは落ち着いた声で続けた。
《へその下に意識を集中して、固まった魔力を揉みほぐす。それを腰や腕へ、少しずつ巡らせてみろ》
「はい……っ!」
ルシアは一度スコップを置き、大きく息を吐いた。
そして、お腹の奥へ意識を向ける。
そこには、昨晩と同じように重たく滞る魔力があった。
(昨日、師匠に教えてもらった通りに……)
固いパン生地を、少しずつ温めてほぐしていく。
そんなイメージを頭の中に描いた。
最初は、うまく動かない。
しかし、何度か意識を向け直しているうちに、魔力がわずかに動き始めた。
(……あっ!)
昨晩よりも、少しだけ感覚を掴みやすい。
ルシアはその流れを逃さないよう、慎重に魔力を練っていった。
やがて、ほぐれた魔力が腹から腰へ、そして両腕へとゆっくり流れ始める。
じんわりとした温もりが、手足に広がった。
「……できた、かも……!」
《よし。そのまま、もう一度スコップを持ってみろ》
ルシアはスコップを握り、泥へ突き立てた。
そして、ゆっくりと持ち上げる。
「……あれ?」
先ほどよりも、軽い。
もちろん、泥そのものが軽くなったわけではない。
しかし、腕や腰にかかる負担が明らかに減っていた。
「すごい……! さっきより、ずっと持ち上げやすいです!」
《うまく魔力が巡ってるな》
ナイトは満足げに頷いた。
《ただし、まだ不安定だ。無理に大量の魔力を流そうとするなよ》
「はい!」
《それと、今は魔力を動かすだけでも集中力を使う。作業に夢中になって、限界を見失わないようにな》
「分かりました!」
ルシアは再び作業を始めた。
ザシュッ、ザシュッ。
先ほどよりも、スコップを動かす手つきが軽やかになっている。
魔力を巡らせることで身体の動きを補助しながら、泥を掻き出していく。
バケツがいっぱいになれば、指定された集積場へ運び、再び側溝へ戻る。
地道な作業の繰り返しだ。
それでも、魔力の使い方を少しずつ掴み始めたルシアの作業速度は、確実に上がっていた。
やがて、一区画目の大まかな泥上げが終わった。
「や、やった……!」
ルシアは額の汗を拭いながら、嬉しそうに声を上げた。
まだ底には薄く泥が残っているものの、大量に溜まっていたヘドロはほとんど取り除かれている。
《よし、いい調子だな》
「はい! このまま次も頑張ります!」
手応えを感じたルシアは、勢いそのままに二区画目の作業へ取りかかった。
しかし――。
二区画目を三割ほど進めた頃だった。
「……っ!」
突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
(あれ……?)
視界がわずかに揺れる。
魔力を練り、体内へ流し続ける。
その作業は、慣れていないルシアにとって、想像以上に集中力を消耗するものだった。
さらに、魔力で補助しているとはいえ、肉体労働による疲労も確実に蓄積している。
そして、ついに集中力が限界を迎えた。
「う……っ!」
体内を巡っていた魔力の流れが乱れる。
それまで軽く感じていたスコップが、急に重くなった。
カランッ!
ルシアは思わずスコップを取り落とした。
「はぁっ……はぁっ……!」
その場にぺたりと座り込み、肩で息をする。
腕も腰も、鉛のように重い。
魔力の補助がなくなったことで、今まで意識していなかった疲労が一気に押し寄せてきたのだ。
《……そこまでだな》
ナイトが静かに歩み寄ってきた。
「はぁ……っ、すみません、師匠……。急に、頭がぼーっとして……体が、動かなくなっちゃって……」
《そりゃそうだ。慣れない魔力操作を維持しながら、ずっと肉体労働をしてたんだからな》
ナイトは呆れたように尻尾を揺らした。
《全速力で走りながら、頭の中で計算問題を解き続けるようなもんだ。魔力も集中力も、そろそろ限界だったんだろう》
「うぅ……」
《だが、よく頑張ったな。一区画はほぼ終わってるし、二区画目にも手をつけられた》
そう言って、ナイトは小さな前足を持ち上げた。
淡い光がルシアの体を包み込む。
次の瞬間、作業着にこびりついていた泥も、肌に滲んだ汗も、綺麗さっぱりと消え去った。
「あ……!」
ルシアは驚いたように自分の服を見下ろした。
「すごい……! また綺麗になりました……!」
《〈洗浄〉だな》
「私も、早く使えるようになりたいです……」
《焦るな。今の状態で新しい魔法を覚えようとしても、まともに集中できんだろう》
ナイトは空を見上げた。
太陽はまだ高く、昼には少し早い時間だった。
《まずは休憩だ。魔力と体力がある程度戻ったら、午後の作業の前に教えてやる》
「本当ですか……!」
《ああ。今日は三区画を目標にしてるんだ。無理せず休んでから再開すればいい》
「はい……!」
ルシアが頷くと、ナイトは彼女の前にちょこんと座った。
《ほら、両手を出してみろ》
「え? あ、はい……」
ルシアは言われるまま、両手を差し出した。
ナイトはその手のひらに、小さな前足を重ねる。
柔らかな肉球から、じんわりと温かい魔力が流れ込んできた。
「……あっ」
胸の奥に、ほのかな温もりが広がる。
同時に、淡い緑色の光がルシアの体を包み込んだ。
「なんだか……体の奥が、ぽかぽかします……」
《自然回復を促進する魔法をかけた》
ナイトは落ち着いた声で説明する。
《〈自己回復促進〉って魔法だ。体が本来持っている回復力を高めて、少しずつ疲労や傷を回復させる》
「そんな魔法もあるんですね……!」
《ただし、回復には魔力を使う。今のお前は魔力がほとんど残ってないから、発動を助ける分だけ俺の魔力を渡しておいた》
「師匠の魔力……すごく温かいです……」
ルシアは自分の手を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます……!」
《気にするな》
ナイトは前足を引っ込めた。
《一瞬で疲労を取り除くような魔法もあるが、毎回それに頼ってちゃ訓練にならんからな》
「訓練……ですか?」
《ああ。自分の限界を知って、適切に休みながら、少しずつ使える魔力や体力を増やしていく。それが大事なんだ》
ナイトは続けた。
《ただし、限界を超えて無理をすればいいってわけじゃない。倒れるまで頑張るより、余裕を残して続けられる方が、長い目で見ればずっといい》
「……はい!」
《今日は初日なんだ。無茶する必要はないぞ》
ルシアは素直に頷いた。
《ほら、あそこの木陰で少し休め》
「分かりました……!」
ルシアは近くの木陰へ移動すると、幹に背中を預けて座り込んだ。
張り詰めていた気が緩んだのだろう。
ほどなくして、すうすうと小さな寝息が聞こえ始めた。
ナイトはその傍らに腰を下ろし、静かに様子を見守る。
(……しかし、吸血鬼ってのは便利な体だな)
ルシアの体内では、〈自己回復促進〉の効果と、吸血鬼として備わっている高い再生能力が働いていた。
消耗した体力が少しずつ戻り、乱れていた魔力の流れも落ち着いていく。
もちろん、すぐに全快するわけではない。
それでも、普通の人間より回復が早いのは確かだった。
(これなら、午後にはある程度動けるようになるだろう)
ナイトは満足げに頷くと、尻尾を体に巻きつけた。
◇ ◇ ◇
「……ん……」
木漏れ日の眩しさに、ルシアがゆっくりと目を覚ました。
しばらくぼんやりと瞬きをしていたが、やがて自分の体を確かめるように手を握ったり開いたりし始める。
「……あれ?」
先ほどまで鉛のように重かった手足が、ずいぶん軽くなっていた。
頭の痛みも、ほとんど消えている。
「すごい……! あんなに疲れてたのに、だいぶ楽になってます……!」
《起きたか》
隣で丸くなっていたナイトが顔を上げた。
《吸血鬼の再生力とリジェネのおかげだな。魔力も半分以上は戻ってる》
「そんなに……!」
《ああ。だが、全快したわけじゃないからな。午後も無理は禁物だ》
「はい!」
《さて……約束通り、〈洗浄〉を教えるか》
その言葉に、ルシアの表情がぱっと明るくなった。
「はい! お願いします、師匠!」
ナイトは立ち上がると、午前中に泥上げを終えた一区画目へ視線を向けた。
《まずは、あそこに残ってる泥で練習してみろ》
「側溝の泥で、ですか?」
《ああ。どうせ綺麗にしなきゃならない場所だ。魔法の練習にもなるし、一石二鳥だろ》
「なるほど……!」
ルシアは側溝の前へしゃがみ込み、底に残った薄い泥を見つめた。
《〈洗浄〉は、対象についた汚れを取り除く魔法だ》
ナイトは説明を始める。
《まず、綺麗にしたいものを意識する。今回は側溝の石だな》
「はい」
《その表面に、薄い魔力の膜を広げるイメージを持て。そして、石に付着した泥を異物として捉え、剥がして取り除くんだ》
「魔力の膜……」
《そうだ。石と泥の間に、薄い膜を滑り込ませるような感覚だな》
ルシアはこくりと頷いた。
そして、側溝の底へ手をかざす。
お腹の奥に意識を向け、魔力をゆっくりと練り始めた。
午前中の作業を経験したおかげか、昨晩よりも魔力を動かしやすい。
しかし、それを体の外へ放出し、狙った場所へ広げるとなると話は別だった。
「う……うーん……」
手のひらから漏れ出た魔力が、うまくまとまらずに散ってしまう。
《焦るな。いきなり広い範囲を綺麗にしようとするなよ》
「は、はい……!」
《まずは手のひらの先にある、小さな範囲だけを意識してみろ》
ルシアは深呼吸をした。
そして、もう一度。
(石の表面に……薄い膜を張って……)
魔力を少しずつ伸ばしていく。
(泥だけを……剥がす……!)
今度は、魔力が狙った場所へと届いた。
ルシアはその感覚を逃さないように、意識を集中させる。
「――〈洗浄〉!」
ぱっ、と淡い光が手のひらから放たれた。
次の瞬間、側溝の底にこびりついていた泥が、さらさらと崩れて消えていく。
後には、汚れの落ちた石組みが姿を現していた。
「……わぁっ!」
ルシアは目を輝かせた。
「できました! 師匠、できましたよ!」
《ああ、見事だ》
ナイトは満足げに頷いた。
《初めてにしては上出来だな》
「えへへ……!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
しかし、ナイトはすぐに釘を刺す。
《ただし、調子に乗って側溝全体を一気に綺麗にしようとするなよ》
「えっ?」
《範囲を広げれば、その分だけ魔力を使う。今のお前じゃ、すぐに魔力切れになるぞ》
「そ、そうなんですね……」
《ああ。だから、まずはスコップで大まかな泥を取り除く。その後、残った汚れを〈洗浄〉で落とせばいい》
「なるほど……!」
《何でも魔法だけで解決しようとする必要はない。道具と魔法をうまく使い分けるのも大事だぞ》
「はい、師匠!」
ルシアは元気よく頷いた。
こうして、午後の作業が始まった。
スコップで泥を掻き出し、バケツで運ぶ。
大まかな泥を取り除いたら、最後に〈洗浄〉で仕上げる。
午前中の経験もあって、作業の手順は少しずつ滑らかになっていった。
とはいえ、体力も魔力も無限ではない。
ナイトの指示で何度か休憩を挟み、途中で軽い食事も取りながら、ルシアは地道に作業を進めていった。
そして――。
太陽が西へ傾き始めた頃。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
ルシアは最後の泥を掻き出すと、スコップを杖代わりにして、その場に膝をついた。
「お、終わりました……!」
目の前には、底の石組みが綺麗に見える側溝が続いている。
一区画、二区画、そして三区画。
目標としていた範囲を、どうにかすべて終わらせることができたのだ。
しかし、ルシアの体力はすでに限界だった。
「はぁ……はぁ……もう……腕も、魔力も……ほとんど残ってません……」
《お疲れさん。よくやったな》
ナイトが静かに声をかける。
ルシアは荒い息を整えながら、少し悔しそうに唇を結んだ。
「でも……もっと、四区画くらいできると思ったのに……」
《欲張るな》
ナイトは即座に返した。
《初仕事で三区画も終わらせたんだ。十分だろ》
「……そうでしょうか?」
《ああ。それに、自分がどれくらい動けるのか分かっただけでも大きな収穫だ》
ナイトは尻尾をゆっくりと揺らす。
《限界を知らずに無茶する奴ほど、いざというときに動けなくなるからな》
「……はい」
《今日は胸を張っていいぞ》
その言葉に、ルシアはようやく小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、師匠……!」
ちょうどそのとき、オットーが煙管をくゆらせながら歩いてきた。
「……おう、終わったか」
「は、はい……! 三区画、終わりました!」
オットーは返事をせず、側溝を覗き込んだ。
泥が取り除かれた底には、石組みが綺麗に露出している。
滞っていた水も、さらさらと音を立てて流れ始めていた。
オットーはしばらく仕上がりを確かめると、短く鼻を鳴らした。
「……ふん。まあ、文句はねえな」
「……!」
「ちっこい割には、ちゃんとやるじゃねえか。底まで綺麗になってる」
そう言うと、オットーは依頼の控えを受け取り、そこへ『三区画完了』と書き込んだ。
最後に、力強くサインをする。
「ほらよ。これをギルドへ持っていきな」
「ありがとうございます、オットーさん!」
ルシアは控えを両手で受け取り、深々と頭を下げた。
オットーは照れ隠しでもするように、ふんと鼻を鳴らす。
「……次も頼むなら、もう少し早く来いよ」
「はいっ!」
ルシアは嬉しそうに返事をした。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドへ戻った二人は、マリアのいる受付で依頼の完了報告を済ませた。
「お疲れさまでした、ルシアちゃん!」
マリアは依頼の控えを確認し、にっこりと微笑んだ。
「三区画分ですね。では、報酬は大銅貨九枚になります」
カウンターの上に、硬貨が一枚ずつ並べられていく。
カチャリ、カチャリ。
全部で九枚。
ルシアはその硬貨を、しばらくじっと見つめていた。
「……これが、私の……」
《ああ。お前が自分で働いて稼いだ金だ》
ナイトの言葉に、ルシアはそっと硬貨を手に取った。
宿代一泊分には、大銅貨一枚だけ届かない。
しかし、金額の問題ではなかった。
これは、ルシアが自分の力で働き、初めて手にした報酬なのだ。
「……えへへ」
ルシアは嬉しそうに笑い、硬貨を大切にポーチへしまった。
「ありがとうございます!」
「ふふっ。明日も頑張ってくださいね。でも、無理はしないように」
「はい!」
マリアに礼を告げ、二人はギルドを後にした。
外へ出ると、ルシアはようやく緊張が解けたように大きく息を吐いた。
「はぁぁ……疲れましたぁ……」
《そりゃそうだろうな》
ナイトは苦笑しながら、ルシアへ前足を向けた。
《ほら、じっとしてろ》
淡い光がルシアの体を包み込む。
〈洗浄〉によって、作業着に残っていた泥や汗が綺麗に消え去った。
さらに、〈自己回復促進〉を重ねる。
「……あっ、また体がぽかぽかしてきました」
《すぐに疲れが取れるわけじゃないが、少しは楽になるだろ》
「ありがとうございます、師匠!」
《よし、宿に戻って飯にするぞ》
「はいっ!」
二人は夕暮れの街を歩き、宿屋『猫の額ほどの宿』へと戻った。
宿では、マーサが温かなシチューと黒パンを用意してくれていた。
「おかえり! どうだったい、初仕事は?」
「はい! 三区画、お掃除してきました!」
「おお、そりゃ頑張ったねぇ!」
マーサは豪快に笑い、ルシアの前へ料理を並べた。
「さあ、たっぷり食べな! 働いた後の飯は格別だよ!」
「いただきます!」
ルシアは夢中になってシチューを口へ運んだ。
温かな料理が、疲れた体にじんわりと染み渡っていく。
(……おいしい)
今日一日、何度もスコップを振るい、重たい泥を運んだ。
魔力の扱いに苦戦し、途中で動けなくなるほど疲れもした。
それでも、自分の力で仕事をやり遂げた。
その達成感が、いつもの食事を一段と美味しく感じさせていた。
食事を終えると、ルシアは裏の井戸から桶に水を汲み、二階の部屋へと運んだ。
ナイトの魔法で汚れは落ちているものの、一日働いた後は、やはり自分の手でも体を拭いておきたい。
ルシアは昨日もらった麻タオルを水に浸し、ぎゅっと絞った。
そして、腕を拭いてみる。
「……いたっ」
思わず小さな声が漏れた。
厚手で丈夫なのはいいのだが、布地がかなり硬い。
肌に擦れるたびに、少し痛みを感じるほどだった。
「うぅ……ちょっと痛いかも……」
《……やっぱりそうなるか》
様子を見ていたナイトが、呆れたように呟いた。
《ほら、こっちを使え》
ナイトがインベントリから取り出したのは、ふかふかの柔らかなタオルだった。
それが、ぽすんとベッドの上へ落ちる。
「わぁ……!」
ルシアはタオルを手に取り、頬へそっと当てた。
「すっごく柔らかい……!」
《肌を拭くなら、そっちの方がいいだろ》
「はい! ありがとうございます、師匠!」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
柔らかなタオルで体を拭き、新しい肌着に着替える。
最後に昨晩の寝間着を身につけると、ようやくほっと息を吐いた。
「ふぅ……気持ちいいです……」
《よし。じゃあ、寝る前に少しだけ魔力を動かすぞ》
「はい!」
ナイトはベッドの上でルシアと向かい合い、小さな前足を差し出した。
《今日は一日中魔力を使ったからな。最後に一、二周だけ、ゆっくり巡らせて終わりにしよう》
「分かりました」
《無理に力を入れるなよ。川の流れに身を任せるようなイメージだ》
ルシアは目を閉じ、ナイトの肉球へそっと手を重ねた。
伝わってくる温もりを感じながら、お腹の奥にある魔力へ意識を向ける。
そして、ゆっくりと体内を巡らせていった。
(……あれ?)
ルシアは不思議そうに眉を動かした。
昨晩は、魔力を少し動かすだけでも苦労していた。
しかし今は、以前よりもずっと滑らかに流れていく。
もちろん、まだ自在に操れるわけではない。
それでも、確かな変化があった。
「あ……師匠……!」
《ん?》
「魔力が……朝よりも、ずっと動かしやすいです……!」
《ああ。今日一日、何度も動かしてたからな》
ナイトは満足げに頷いた。
《少しずつ、魔力の流れに体が慣れてきたんだろう》
「……!」
《その調子で続ければ、もっと自然に動かせるようになるさ》
「はい……!」
ルシアは嬉しそうに微笑んだ。
そして、魔力をもう一巡させたところで、ナイトが声をかける。
《よし、今日はここまでだ》
「ありがとうございました、師匠……!」
《ああ。もう寝ろ。明日も仕事だぞ》
「はい……!」
ルシアはベッドへ潜り込むと、ナイトをそっと抱き寄せた。
柔らかな毛並みに頬を寄せ、安心したように目を細める。
「おやすみなさい、師匠……」
《ああ、おやすみ》
それから間もなく、ルシアは深い眠りへと落ちていった。
ナイトは少女の腕の中で小さく欠伸をすると、静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
――そして、翌日も、そのまた翌日も。
ルシアは北通りの側溝掃除を続けた。
初日は何度も休憩を挟みながら、どうにか三区画を終わらせるのが精いっぱいだった。
しかし、二日目には少しずつ作業に慣れ、四区画を終えられるようになった。
スコップの扱い方も上達し、泥を持ち上げる際に余計な力を使わなくなっていく。
魔力操作についても、少しずつ変化が現れていた。
最初は魔力を巡らせるだけで精いっぱいだったが、次第に作業をしながらでも、ある程度流れを維持できるようになってきたのだ。
もちろん、長時間続ければ集中力は切れる。
魔力も消耗する。
それでも、初日よりは確実に長く動けるようになっていた。
三日目には、魔力を巡らせる動作がさらに自然になり、作業の速度も上がっていった。
泥を掻き出し、バケツで運び、最後に〈洗浄〉で仕上げる。
同じ作業を繰り返す中で、ルシアは少しずつ自分の体と魔力の扱い方を覚えていく。
ナイトはそんな弟子の成長を見守りながら、ときには助言を与え、ときには休憩を命じた。
焦る必要はない。
まだ冒険者としての生活は始まったばかりなのだから。
地道な泥掃除の日々を通して、ルシアの体力と魔力操作、そして冒険者としての基礎は、着実に鍛えられていくのだった。




