01-03 準備と魔法の訓練
冒険者ギルドの大扉をくぐり、外へ出る。
傾き始めた夕日が石畳の通りを赤く染め、行き交う人々の喧騒が耳に飛び込んできた。どこかの屋台からは香ばしい肉の匂いが漂い、夕暮れの街はまだまだ活気に満ちている。
そんな中、ルシアは胸元で揺れる木製のギルドカードにそっと触れた。
「私、本当に冒険者になれたんですね……」
まるで夢でも見ているかのように、しみじみと呟く。
つい昨日までは、奴隷商人に捕らえられ、明日を迎えられるかどうかさえ分からない身だった。
それが今では、首輪も外れ、温かい食事を口にし、こうして冒険者としての第一歩まで踏み出している。
あまりにも急激な変化に、まだ実感が追いついていないのだろう。
《ああ、おめでとう。まあ、まだ一番下の見習いだけどな》
腕の中から届いたナイトの念話に、ルシアはふふっと嬉しそうに目を細めた。
「それでも、嬉しいです!」
《そりゃよかった。……だが、浮かれるのはそこまでだ。日が暮れる前にやることがあるぞ》
「はいっ!」
《まずは寝床の確保だな。確か、ギルドを出て右の路地だったか》
「『猫の額ほどの宿』ですね!」
《……そう、それだ》
改めて口にされると、やはり妙な名前である。
ナイトは内心で苦笑しつつ、ルシアに先へ進むよう促した。
ルシアは腕の中の黒猫を抱き直し、ギルドの建物を右手に回り込むようにして、大通りから一本外れた路地へと足を踏み入れた。
表通りの喧騒が嘘のように、そこは落ち着いた雰囲気に包まれていた。
通りには冒険者向けの商店や手頃な酒場が軒を連ね、仕事帰りらしい人々がちらほらと行き交っている。
しばらく歩くと、木造二階建てのこぢんまりとした建物が見えてきた。
入口の上には、年季の入った木彫りの看板。
そこには、丸くなって眠る黒猫の絵とともに、味のある文字でこう刻まれていた。
『猫の額ほどの宿』
《……本当にこの名前なんだな》
ナイトは思わずジト目で看板を見上げた。
建物自体は確かに小さい。
しかし、外壁や窓枠にはきちんと手入れが施されており、古めかしいながらも清潔感がある。
少なくとも、泊まるのを躊躇するような宿ではなさそうだった。
「こんにちはー……どなたかいらっしゃいますか?」
ルシアがおずおずと木製の引き戸を開ける。
すると、奥のカウンターから威勢のよい声が返ってきた。
「はぁい、いらっしゃい!」
姿を現したのは、豊かな体躯にエプロンを巻いた中年の女性だった。
豪快に束ねた赤毛と、親しみやすい笑顔が印象的だ。
女性はカウンターから身を乗り出すと、ルシアと、その腕に抱かれた黒猫を見て目を丸くした。
「おやまあ、可愛いお客さんだねぇ! お使いかい? それとも泊まり?」
「あ、あの……冒険者ギルドの受付の方に紹介されて来ました。お部屋、空いていますか……?」
ルシアが首から提げた木製のギルドカードを見せる。
それを見た女性は、ぱっと表情を明るくした。
「まあ! マリアちゃんの紹介かい!」
どうやら、ギルドの受付嬢とは顔見知りらしい。
「こんな小さな子が冒険者見習いだなんて、感心だねぇ。もちろん空いてるよ! 二階の一番奥がちょうど空いてるところさ」
女性は指を折りながら、宿泊料金を説明し始めた。
「うちは一泊、朝晩の飯付きで銀貨一枚。飯なしなら大銅貨七枚だよ。どうするんだい?」
(食事付きで銀貨一枚か……)
ナイトは頭の中で、これまでに見聞きした貨幣の価値を整理する。
まだこの世界の物価を正確に把握できているわけではない。
しかし、寝床と二食がついてこの値段なら、悪くない条件だろう。
奴隷商人たちから回収した資金にも、まだ余裕はある。
もっとも、無限に使えるわけではないのだから、無駄遣いは避けたいところだ。
とはいえ、活動の拠点となる寝床と食事まで切り詰める必要はない。
《ルシア、食事付きで三日分、前払いしておけ》
(は、はい!)
《まずは安心して休める場所を確保する。拠点作りの基本だな》
「ええと、ご飯付きで三日分お願いします!」
ルシアはポケットから銀貨を三枚取り出し、カウンターの上へ丁寧に並べた。
「はいよ、毎度あり!」
女性は手際よく硬貨を数えて受け取ると、引き出しから年季の入った鉄の鍵を取り出した。
「ほら、これが部屋の鍵だよ。あたしはここの女将のマーサさ。よろしくね!」
「よろしくお願いします、マーサさん!」
「階段を上がって一番右の部屋だよ。水は裏の井戸から自由に汲んで使っていいからね」
マーサはそこで、ふとルシアの姿を見直した。
「……そういえばお嬢ちゃん、荷物はそれだけかい?」
ルシアが身につけているのは、今着ている服と小さな革の財布くらいだ。
旅人や冒険者にしては、あまりにも身軽だった。
「あ、はい……。これから、お仕事に必要なものを買いに行こうと思っていて……」
「なるほどねぇ!」
マーサは納得したように頷いた。
「だったら、この通りを抜けて西の市場へ行くといいよ。駆け出し向けの丈夫な作業着も、小物を入れる腰ポーチも、安く手に入るからね」
さらに、声を少し弾ませる。
「夕方は売り切りで値下げする店も多いんだ。暗くなる前に急いでおいで!」
「ありがとうございます、マーサさん!」
ルシアはぺこりと頭を下げた。
まずは借りた部屋を確認しようと、二階へ向かう。
階段を上がり、一番右の扉の前で足を止めると、渡された鍵を差し込んだ。
ガチャリ、と小さな音が響く。
扉を開けた先にあったのは、実に簡素な部屋だった。
大人が一人横になれる程度のベッドが一台。
それだけで部屋の半分以上が埋まっている。
机はなく、片隅に小さな木箱と、壁に取り付けられた衣服用のフックがあるだけだ。
外の光を取り込む小窓も一つしかない。
(……なるほど。確かに猫の額だな)
ナイトは妙に納得した。
しかし、狭いからといって悪い部屋ではない。
シーツはきちんと洗濯され、床にも目立った埃はない。
寝床としての最低限の設備は整っている。
ルシアのような小柄な少女と、一匹の黒猫が寝泊まりするには十分だろう。
「小さいけど、綺麗なお部屋ですね!」
《ああ。寝るだけなら問題ないな》
ナイトはベッドの上へひらりと飛び乗り、軽く座り心地を確かめた。
ふむ。
悪くない。
少なくとも、森の地面で丸くなるよりはずっと快適だ。
《よし、寝床は確保できた。次は市場だな》
「はい、師匠!」
ルシアは部屋の鍵を大切にしまうと、再びナイトを抱き上げた。
こうして一人と一匹は、買い出しのために宿を後にした。
◇ ◇ ◇
宿を出て西へ向かって歩いていくと、次第に人々の声が大きくなってきた。
夕暮れ時の西市場は、大勢の買い物客で賑わっていた。
通りの両側には、果物や野菜、干し肉、日用雑貨などを扱う露店が所狭しと並んでいる。
色鮮やかな商品が並ぶ店先では、商人たちが威勢のよい声を張り上げていた。
「へい、いらっしゃい! 新鮮なマトンの干し肉だよ!」
「奥さん、こっちの根菜も見ていきな! スープにぴったりだよ!」
あちこちから聞こえる呼び込みの声。
焼き物や煮込み料理の匂いも混ざり合い、市場全体が熱気に包まれている。
ルシアは目を丸くしながら、きょろきょろと周囲を見回した。
「すごい人……! あっ、師匠! あっちに服を売っているお店があります!」
《落ち着いて歩けよ。人にぶつかるぞ》
「あっ、はい!」
《まずは作業着と手袋、それから腰ポーチだな。高価なものはいらない。安くて丈夫なものを探そう》
「分かりました!」
ルシアは人混みを避けながら、古着や作業用の衣類が山積みにされた露店へと向かった。
店先には、無精髭を生やした中年の店主が立っていた。
「おや、いらっしゃい。お嬢ちゃん、何をお探しだい?」
「あ、あの……お仕事で使う、丈夫で動きやすい服と手袋が欲しくて……」
「仕事用かい? どんな仕事をするんだ?」
「冒険者ギルドに登録したばかりで……街の中で、側溝のお掃除とか、荷物運びのお手伝いをしようと思ってます!」
ルシアがそう答えると、店主は納得したように頷いた。
「なるほど、見習い冒険者か。それなら、あんまり高い服はいらねえな」
店主は積まれた衣類をかき分け、ルシアの体格に合いそうな作業着を取り出した。
丈夫そうな布で仕立てられた上下の服に、厚手の革手袋。
どちらも見た目は地味だが、汚れ仕事には向いていそうだった。
「服が上下で大銅貨六枚、手袋が三枚ってところだな」
店主はそこで、にやりと笑った。
「だが、まとめて買ってくれるなら大銅貨八枚にまけてやるよ。ついでに、汗拭き用の麻タオルも一枚サービスだ!」
そう言って、厚手のタオルをぽんと作業着の上に置いた。
(服の上下に革手袋、それからタオルで大銅貨八枚か)
ナイトは値段を確認する。
先ほど買った串焼きが一本、大銅貨一枚だった。
その感覚からすれば、なかなか良心的な価格に思える。
もちろん、まだ物価の基準が分からない以上、断定はできない。
しかし、今必要なものが一通り揃うのだから、悪い買い物ではないだろう。
《ルシア、それにしよう》
(はい!)
「ありがとうございます! これ、買います!」
ルシアは大銅貨八枚を取り出して店主へ渡した。
「毎度あり!」
店主が手際よく包んでくれた作業着一式を、ルシアは大事そうに受け取った。
これで、ひとまず仕事用の服は確保できた。
しかし、ナイトにはもう一つ気になることがあった。
(……肌着はどうするかな)
店先に並ぶ下着類へと視線を向ける。
そこにあるのは、粗い麻布で作られたものばかりだった。
値段は安いが、触り心地は決してよくなさそうだ。
現代日本で暮らしていたナイトからすれば、肌に直接触れるものとしては、少々心許ない。
ましてや、ルシアはまだ十一歳の少女である。
慣れない作業着の下に、こんな粗い布を身につけていれば、肌が擦れて痛くなるかもしれない。
(……仕方ない。俺が用意するか)
ナイトは内心でそう決めた。
ゲーム時代に集めた素材なら、インベントリに大量に眠っている。
肌触りのよい布を選び、ルシアの体格に合わせて加工すればよい。
猫の姿で少女の肌着を用意することには、多少の気まずさもある。
しかし、衛生面や着心地を考えれば、背に腹は代えられない。
(服も作れなくはないが……そこまでする必要はないな)
見習い冒険者が、明らかに高級そうな衣服を着て歩いていれば、余計な注目を集めかねない。
表に見える作業着は、街で売られている普通のもので十分だ。
肌着だけなら、多少質のよいものを使っていても目立つことはないだろう。
そう考え、ナイトはひとまず買い物を続けることにした。
その後、二人は近くの革具店へと向かった。
そこで、小銭や仕事道具を分けて収納できる、丈夫な革製の腰ポーチを大銅貨二枚で購入する。
装飾のない、ごく普通の品だ。
しかし、作業中に小物を持ち歩くには十分な大きさだった。
《よし、これで必要なものはだいたい揃ったな》
「はい! 師匠、ありがとうございます!」
《礼を言うのは、ちゃんと仕事をこなせるようになってからでいい》
「ふふっ、はい!」
ルシアは嬉しそうに笑った。
市場での買い物を終えた頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
二人は宿へ戻ることにした。
◇ ◇ ◇
『猫の額ほどの宿』へ戻ると、一階の食堂から食欲をそそる匂いが漂ってきた。
煮込まれた肉と野菜の香り。
そして、焼きたてのパンの香ばしさ。
「おかえり! 買い物は済んだかい?」
カウンターの向こうから、マーサが声をかけてきた。
「はい! お仕事用の服と手袋、それからポーチを買いました!」
「そりゃよかった! ちょうど夕飯の支度もできたところだよ。さあ、食べていきな!」
マーサに案内され、ルシアは食堂の席へ腰を下ろした。
運ばれてきたのは、大麦を使った黒パンと、根菜や干し肉をじっくり煮込んだ具だくさんのスープだった。
決して豪華な料理ではない。
しかし、温かな湯気と、しっかりとした出汁の香りが食欲を刺激する。
「いただきます……!」
ルシアはスープをひと口飲んだ。
その瞬間、赤い瞳がぱっと輝く。
「……おいしい!」
思わずこぼれた声に、マーサが嬉しそうに笑った。
「ははっ! そりゃよかった! たくさん食べて、明日からの仕事を頑張りな!」
「はい!」
ルシアは夢中になって食事を進めた。
奴隷商人に捕らえられていた間、まともな食事などほとんど与えられていなかった。
冷えた粗末な食べ物で空腹をしのいでいた少女にとって、温かいスープとパンは、それだけで十分なご馳走だった。
ナイトも用意された食事を味わいながら、満足げに喉を鳴らす。
(うん、悪くないな)
派手さはないが、丁寧に作られた料理だ。
少なくとも、三日間の滞在を決めたのは正解だったらしい。
食事を終えると、ルシアは裏の井戸から汲んだ水で手足を拭き、二階の部屋へと戻った。
部屋に入ると、扉の鍵を閉める。
ガチャリ、と小さな金属音が響いた。
室内を照らしているのは、小窓から差し込む青白い月明かりと、小さな油ランプの頼りない灯火だけだった。
ルシアはベッドの端へ腰を下ろし、買ってきた作業着や腰ポーチをそっと置いた。
「おいしかったですね、師匠……」
《ああ。悪くない味だったな》
「あったかいご飯なんて、すごく久しぶりでした……」
ルシアはどこか懐かしそうに微笑んだ。
その表情を見て、ナイトは少しだけ目を細める。
しかし、感傷に浸るのは後回しだ。
明日からは、いよいよ冒険者としての活動が始まる。
その前に、もう一つやっておきたいことがあった。
《さて、ルシア。寝る前に大事な準備をしておくぞ》
「準備……ですか?」
ナイトはベッドの足元へ音もなく飛び乗った。
《そうだ。明日からギルドの依頼を受けるわけだが、お前には体を使った雑用と並行して、魔法の基礎も覚えてもらう》
「魔法の……基礎!」
ルシアがぱっと顔を上げる。
その瞳には、期待の色が浮かんでいた。
《その前に、まずはこれだな》
ナイトが意識を集中させる。
すると、インベントリから取り出された布地が宙に現れ、魔力によって形を変え始めた。
布が裁断され、縫い合わされ、あっという間に数着の衣類が完成する。
それらは、ぽすん、と柔らかな音を立ててベッドの上へ落ちた。
ルシアの体格に合わせて仕立てられた、清潔な肌着と綿の寝間着だった。
寝間着はゆったりとした作りで、下は足を動かしやすいズボンになっている。
《市場の肌着は、どうにも肌触りが悪そうだったからな。こっちを使え》
「わぁ……!」
ルシアはそっと布地に触れた。
その瞬間、驚いたように目を見開く。
「すっごく柔らかい……! これ、師匠が作ってくださったんですか?」
《ああ。肌に直接触れるものだからな。擦れて痛くならないようにしてある》
「ありがとうございます、師匠!」
ルシアは嬉しそうに衣類を抱きしめた。
ナイトは満足げに頷くと、続けて指示を出した。
《それに着替えたら、ベッドの上であぐらをかいてくれ。魔力操作の練習を始めるぞ》
「はいっ!」
ルシアが着替えている間、ナイトは窓の外へ視線を向けて待った。
やがて、準備を終えたルシアがベッドの上に座る。
柔らかな寝間着に身を包み、あぐらをかいて背筋を伸ばした。
「できました!」
《よし。じゃあ、まずは目を閉じろ》
ルシアは素直に目を閉じる。
《自分の体の中にある魔力を意識してみろ。生活魔法を使ったことがあるなら、魔力の感覚自体は分かるはずだ》
「はい……」
ルシアの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
ナイトはその様子を観察しながら、訓練の方針を考えていた。
ルシアは、すでにいくつかの生活魔法を扱える。
つまり、魔力を感じ取る素質は十分にあるということだ。
しかし、魔力を感じられることと、自在に操れることは別である。
今のルシアに必要なのは、体内の魔力を自分の意志で動かし、制御するための基礎訓練だった。
(まずは魔力操作だな)
ゲーム時代の知識がこの世界でも通用するなら、訓練を重ねることで【魔力操作】のスキルを習得できるはずだ。
もっとも、実際にどうなるかは試してみなければ分からない。
《ルシア、へその下あたりを意識してみろ》
「……はい」
《そこにある魔力を、ゆっくりと動かしていく。最初は無理に流そうとしなくていい。まずは、固いパン生地をこねるようなイメージで練ってみろ》
「パン生地……ですか?」
《ああ。冷えて固くなった生地を、少しずつ柔らかくしていく感じだな》
ルシアは小さく頷き、意識を集中させた。
しばらく、静かな時間が流れる。
やがて、ルシアが困ったように眉を寄せた。
「ん……う、うーん……」
《どうした?》
「なんだか……すごく重たくて……。冷えてカチカチになった生地みたいに、全然動いてくれません……」
ナイトはルシアの体内を流れる魔力を感知した。
確かに、魔力の動きはまだぎこちない。
意識を向けた部分にわずかな変化は生じているものの、流れを作るには至っていなかった。
だが、最初からうまくできる方が珍しい。
《焦るな。無理やり動かそうとするなよ》
「は、はい……」
《固い生地を無理に引っ張れば、千切れるだけだろう? まずは手のひらで温めながら、少しずつ揉みほぐすように意識してみろ》
「温めながら……揉みほぐす……」
《そうだ。柔らかくなったら、腹から胸へ。そこから右腕、左腕へと、ゆっくり巡らせていく》
ルシアは再び目を閉じ、集中し始めた。
今度は無理に魔力を押し出そうとせず、少しずつ動かすことを意識する。
最初は、ほとんど変化がなかった。
しかし、何度も繰り返すうちに、固く滞っていた魔力がほんのわずかに動き始める。
「……あっ」
《どうした?》
「い、今……少しだけ、動いた気がします……!」
《ああ、動いたな。その感覚を忘れるなよ》
「はいっ!」
ルシアの声に、嬉しさが滲む。
だが、ナイトはそこで訓練を終わらせなかった。
《もう一度だ。今度は、同じ動きを意識して繰り返してみろ》
「分かりました!」
魔力を練り、ほぐし、流す。
少し動いたかと思えば、また途中で滞る。
そのたびにルシアは意識を集中させ直し、何度も挑戦した。
ナイトも魔力の動きを観察しながら、必要に応じて助言を送る。
《今は力を入れすぎだな。もっとゆっくり》
「は、はい……!」
《そうそう。今の感覚だ》
「……っ!」
《よし、もう少しだけ続けてみよう》
地味で、根気のいる作業だった。
派手な魔法が飛び出すわけでもなければ、目に見える成果が次々と現れるわけでもない。
それでも、ルシアは一度も弱音を吐かなかった。
額に汗を滲ませながら、ひたすら自分の内側に意識を向け続ける。
そうして、およそ一時間が経過した頃。
《……よし、今日はここまでだ》
ナイトの声に、ルシアがゆっくりと目を開けた。
「ふぅ……っ!」
大きく息を吐き、肩の力を抜く。
額にはうっすらと汗が浮かび、表情には疲労が見て取れた。
「す、すごく頭を使いました……。座っていただけなのに、汗までかいちゃって……」
《魔力を動かすのは、慣れないうちはそれだけ集中力を使うからな》
ナイトはルシアの体内に意識を向けた。
最初と比べれば、魔力の流れはわずかながら滑らかになっている。
まだ自在に扱える段階には程遠いが、初日としては悪くない。
《少しずつ魔力がほぐれてきてるぞ。今日は十分だ》
「本当ですか……!」
《ああ。ただし、焦って一気に上達しようとするなよ。こういうのは毎日少しずつ続けるのが大事だ》
「はい! 頑張ります!」
ルシアは嬉しそうに頷いた。
そして、額の汗を手で拭おうとする。
その前に、ナイトが小さな前足を向けた。
淡い光がルシアの体をふわりと包み込む。
次の瞬間、肌に滲んでいた汗も、寝間着に残っていた湿り気も、綺麗さっぱりと消え去った。
「あっ……!」
ルシアは自分の服を見下ろし、目を丸くした。
「〈洗浄〉……! ありがとうございます、師匠!」
《どういたしまして》
「私、その魔法はまだ使えなくて……」
《そうなのか。なら、今度教えてやるよ》
「本当ですか!?」
《ああ。だが、今日はもう終わりだ。明日に響くからな》
ナイトはベッドの枕元へ歩いていき、前足でぽんぽんとシーツを叩いた。
《ほら、もう横になって休め》
「はい……!」
ルシアは素直に頷くと、ベッドへ潜り込んだ。
柔らかな寝間着と、清潔なシーツ。
温かい食事を腹いっぱい食べ、明日から取り組むべき目標もできた。
つい先日までの境遇を思えば、信じられないほど穏やかな夜だった。
「師匠……」
《ん?》
「今日は、ありがとうございました」
小さな声だった。
しかし、その言葉には確かな感謝が込められていた。
ナイトは少しだけ目を細める。
《……どういたしまして。明日から忙しくなるぞ》
「はい……! おやすみなさい、師匠」
《ああ、おやすみ》
ルシアは安心したように微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
疲れが溜まっていたのだろう。
それから間もなく、規則正しい寝息が聞こえ始める。
ナイトは眠る少女の傍らで、静かに香箱座りをした。
小さな部屋には、油ランプの柔らかな光が揺れている。
窓の外からは、夜の街の遠い喧騒が微かに聞こえていた。
明日からは、いよいよルシアの冒険者生活が始まる。
どんな騒動が待ち受けているかは分からない。
だが、今はそんなことを考える必要もないだろう。
ナイトは小さく欠伸をすると、尻尾を体に巻きつけた。
そして、穏やかな寝息を立てる弟子の隣で、静かに目を閉じた。




