01-02 冒険者ギルド
ギィィ……。
油の切れた蝶番が軋み、分厚い木製の扉がゆっくりと開いた。
一歩足を踏み入れた途端、むっとするような熱気がルシアとナイトを包み込む。
汗と酒、脂の乗った料理。それらに混じる鉄と革の匂い。吹き抜けになった広いフロアの奥には酒場が併設され、昼間からジョッキを片手に騒ぐ男たちの笑い声が響いていた。
壁一面には討伐や採取の依頼書が貼り出されている。その前では、重装備の戦士やローブ姿の魔法使いが腕を組み、依頼を吟味していた。
まさしく、ファンタジー世界の冒険者ギルドそのものだった。
(おお……ゲームで何万回と見てきた光景だな)
ルシアの腕の中で、ナイトは密かに感嘆していた。
しかし、そんな余裕があるのはナイトだけだった。
入口の扉が開いたことで、近くにいた冒険者たちの視線が一斉に集まる。
現れたのは、歴戦の戦士でも熟練の探索者でもない。小柄な少女と、その胸に抱かれた一匹の黒猫だった。
「ひゃ、ひゃう……」
無遠慮に向けられる視線に、ルシアの肩がびくりと跳ねた。反射的にナイトを抱きしめる腕へ力がこもる。
《落ち着け、ルシア。新顔が珍しいだけだ。堂々としていればいい》
頭の中に響く落ち着いた声に、ルシアは小さく息を吸った。
「は、はい……師匠……」
《よし。奥のカウンターが受付だな。まずは登録だ。まっすぐ進むぞ》
ルシアは強張った足に力を込め、好奇の視線を浴びながら受付へ向かった。
頑丈な木製カウンターには、いくつもの窓口が並んでいる。そのうち一つが、ちょうど空いていた。
ルシアは背伸びをするようにして、窓口の向こうへ声をかける。
「あ、あの……すみません」
書類を整理していたのは、栗色の髪をきちんとまとめ、制服を着こなした受付嬢だった。
彼女は顔を上げると、カウンターから顔を覗かせる少女と黒猫を見て一瞬だけ目を丸くした。しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「はい、いらっしゃいませ! 冒険者ギルドへようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか? 依頼のご相談ですか? それとも、どなたかのお使いでしょうか?」
丁寧な対応に、ルシアの緊張が少しだけ和らいだ。
それでも、次の言葉を口にするには勇気が必要だった。
少女は小さな拳を握りしめ、顔を上げる。
「い、いえ……! 冒険者の登録を、お願いしたくて……!」
「……登録、ですか?」
受付嬢が目をしばたたかせた。
その言葉を聞きつけた大柄な戦士が、依頼板の前から振り返る。
「おいおい、聞き間違いか? そこのチビ、冒険者になるって言ったのか?」
野太い声がフロアに響いた途端、酒場のあちこちから冷やかしが飛んできた。
「嘘だろ。迷子のガキじゃねえのか?」
「親はどうしたんだよ!」
「そんな細腕じゃ剣も振れねえだろ!」
嘲笑と警告が入り交じり、周囲がにわかに騒がしくなる。
(なるほど。依頼人には手を出さなくても、冒険者志望の新人となれば遠慮がないわけか)
ナイトはルシアの腕の中で、騒ぎを冷静に眺めていた。
一方、ルシアは顔を真っ赤にしながらも、受付嬢から目を逸らさなかった。
「はい! 冒険者になりたいんです。登録をお願いします!」
「嬢ちゃん、冒険者は絵本の中の仕事じゃねえぞ! 外に出りゃ魔物に食い殺される!」
「悪いことは言わねえ。家に帰りな!」
さらに声が飛ぶ。
誰も直接詰め寄ってこないとはいえ、屈強な男たちに一斉に声を浴びせられるのは、幼い少女には十分な威圧だった。
ルシアはびくりと肩をすくめ、ナイトをぎゅっと抱きしめた。
そのときだった。
トントン。
カウンターの奥から、書類の端を揃える乾いた音が響いた。
受付嬢は笑顔を崩さないまま、騒いでいる冒険者たちへ視線を向ける。
ただ、それだけだった。
しかし、次の瞬間には、あれほど騒がしかった周囲が不自然なほど静まり返っていた。
大口を叩いていた男たちは揃って目を逸らし、冷や汗を浮かべながら依頼板へ向き直る。
「お、俺はちょっと用事を思い出したぜ……」
わざとらしく口笛を吹きながら、足早にギルドを出ていく者までいた。
(……へえ)
ナイトは興味深そうに金色の瞳を細めた。
【鑑定】を使うまでもない。
立ち居振る舞いと、体からわずかに漏れる魔力の質。それだけで、この受付嬢がただの事務員ではないことは察せられた。
おそらく、相当な実力者なのだろう。
もっとも、他人の過去を無遠慮に探る趣味はない。気になれば、そのとき調べればよいだけだ。
「お待たせいたしました」
受付嬢は何事もなかったかのように、ルシアへ向き直った。
「では、まずこちらの用紙に、お名前と種族、年齢をご記入いただけますか?」
差し出されたのは、一枚の羊皮紙とペンだった。
用紙の上部には、すでに『Gランク(見習い)』の印が押されている。
「それから、一番下の欄には……そうですね。普段得意なことや、できそうなことがあれば書いてみてください」
本来は『職業』を記入する欄なのだろう。
受付嬢はルシアの年齢を気遣い、分かりやすい言葉に置き換えてくれたらしい。
ルシアはペンを受け取り、名前と種族、年齢を丁寧に書き込んでいった。
しかし、最後の欄でぴたりと手が止まる。
(得意なこと……? お母さんのお手伝いとかじゃ、駄目だよね……)
困り果てたルシアは、腕の中の黒猫を見下ろした。
「し、師匠……得意なことって、何を書けばいいんでしょうか……? お掃除とお皿洗いくらいしか思いつかなくて……」
《ん? 魔法が使えるとでも書いておけばいいんじゃないか? 俺が教えるんだ。数日もあれば、基礎の基礎くらい扱えるようになるだろう》
(魔法……あ、そういえば……!)
ルシアは、昔、母親から初歩的な生活魔法を教わったことを思い出した。
『ファイア』『ウォーター』『ライト』。
その三つなら、習ったことがある。
少女はこくこくと頷き、用紙の端へ魔法の名前を書き足していった。
ナイトはその様子を眺めながら、ふと疑問を覚えた。
(そういえば、あの首輪には魔力封印の効果もあったな)
森で子供たちを鑑定した際には、表示項目を絞っていたため、詳しい仕組みまでは確認していない。
ナイトは意識の一部をインベントリへ向け、回収しておいた隷属の首輪を【鑑定】した。
表示された情報を読み進めると、装着者の魔力循環を乱し、魔法の発動を妨げるという記述が見つかった。
(なるほど。魔力そのものを消すんじゃなく、循環を狂わせて使えなくする仕組みか。首輪を外した今なら、魔法も使えるわけだな)
納得したところで、ルシアの声が聞こえてきた。
「あ、あの……! 書けました!」
ルシアは記入した用紙を両手で差し出した。
受付嬢はそれを受け取り、内容を確認していく。
種族欄の『吸血鬼』という文字に目を留めた瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。
この街では、滅多に見かけない種族なのだろう。
しかし、受付嬢は特に詮索することなく、手続きを進めていった。
「確認いたしました。ルシアさん、十一歳。生活魔法を三つ使えるんですね」
「は、はい!」
受付嬢は引き出しから、小さな木製のカードを取り出した。
そこには、ルシアの名前と『G』の文字が刻まれている。
「こちらがルシアさんのギルドカードです。なくさないよう、大切に持っていてくださいね」
「わぁ……ありがとうございます!」
ルシアは差し出された木札を、宝物のように両手で受け取った。
つい先日まで奴隷として檻に閉じ込められていた少女が、今は自分の名前の刻まれた冒険者ギルドの証を手にしている。
その事実が嬉しいのか、ルシアは何度もカードの表面を確かめていた。
「では、カードとランクについて簡単にご説明しますね」
受付嬢は穏やかに微笑み、説明を始めた。
「冒険者ランクは全部で八段階です。下から順にG、F、E、D、C、B、A、Sとなっています。GランクとFランクのカードは木製、EランクとDランクは銅製、CランクとBランクは銀製、Aランクは金製。そして最高位のSランクはミスリル製です」
最高位の説明になると、受付嬢は少し楽しそうに笑った。
「もっとも、Sランクの冒険者なんて、大陸全土を探しても数えるほどしかいないんですけどね」
それから、表情を引き締めてルシアを見つめる。
「ルシアさんにGランクから始めていただくのは、まだ幼いことを考慮しての措置です。ただし、冒険者ギルドは実力主義。十二歳未満でも、実績と実力を示せばFランクへの昇格試験を受けられます」
「本当ですか……!」
「ええ。昇格試験が必要なのは、Fランクに上がるときと、C、B、A、Sランクへ上がるときです。焦らず、まずはできる仕事から少しずつこなしていってくださいね」
「はい! 頑張ります!」
ルシアは力強く頷いた。
ナイトはその様子を、腕の中から満足げに眺めていた。
登録そのものは、拍子抜けするほどすんなりと済んだ。
見習い制度の存在はゲーム時代の記憶と一致していたが、実際にこの世界でも利用できると分かったのは収穫だ。
「さて、ルシアさん。今日から依頼を受けることもできますが、どうされますか? あちらの掲示板の左端が、Gランク向けの依頼です」
受付嬢が示した先には、何枚もの依頼票が並んでいた。
『北通り・側溝の泥上げおよび清掃作業』。
『東区・食糧倉庫の荷降ろし補助』。
『民家の裏庭・雑草むしりと庭石の移動』。
いずれも街の中で完結する、安全な雑用ばかりだった。
Gランク向けと案内されているものの、依頼票そのものには特別なランク制限がない。実質的には、誰でも受けられる全ランク共通の仕事らしい。
「これなら、私にもできそうです……!」
ルシアは期待に目を輝かせた。
しかし、すぐにナイトの念話が届く。
《だが、ルシア。まずは拠点と準備が先だ。今日はもう夕方も近いしな》
「あっ……!」
ルシアは我に返った。
まだ今夜の寝床さえ決まっていない。仕事に使う道具も、着替えも持っていなかった。
いくら早く冒険者として働きたくても、準備を怠っては元も子もない。
ルシアは受付嬢へ向き直った。
「あの、すみません! この辺りで、私でも泊まれる安くて安全な宿屋ってありますか?」
「それなら、ギルドを出て右に曲がった路地にある『猫の額ほどの宿』がおすすめですよ。女将さんが親切で、駆け出しの冒険者もよく利用しています」
「ぶふっ……にゃ、にゃー」
ナイトは思わず吹き出しかけ、慌てて猫の鳴き声で誤魔化した。
(どんな名前だよ! めちゃくちゃ狭そうじゃないか!)
猫の額ほどの宿。
よりによって、今の自分に妙に縁のある名前だった。
ルシアはそんなナイトの反応に気づかないまま、受付嬢へ頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね」
受付嬢に見送られ、ルシアはギルドの重い扉を押し開けた。
外へ出ると、先ほどまでの熱気と喧騒が嘘のように遠ざかっていく。
ルシアの首には、紐を通してもらった木製のギルドカードが下がっていた。
少女はそのカードを一度嬉しそうに見つめ、それから腕の中のナイトへ視線を落とす。
「師匠、まずは宿を決めて、お買い物ですね!」
《ああ。汚れ仕事をするなら着替えや手袋も必要だ。小物を入れるポーチも買っておこう》
「はい!」
ルシアは元気よく返事をすると、ギルドの右手に伸びる路地へと足を向けた。
その足取りは、初めてギルドへ入ったときよりもずっと軽い。
胸元には、自分の名前が刻まれた木札。
腕の中には、気まぐれで、どこか頼りないように見えて、底知れない力を持つ黒猫の師匠。
こうして、吸血鬼の少女と元ゲーマーの黒猫による、記念すべき冒険者生活の第一歩が始まった。




