01-01 人族の街
満面の笑みで弟子入りを喜んでいたルシアだったが、過酷な逃避行と捕縛の恐怖によって、心身ともに限界を迎えていたのだろう。
ナイトが《疲れているだろう。少し休むといい》とソファに横になるよう促すと、少女はほどなくして泥のように深い眠りへと落ちていった。
小さな寝息を立てるルシアをベッドへ運ぶようジルに頼み、ナイトは今後の予定について考えを巡らせた。
《獅子丸、目立たない程度に速度を上げて、夜通し走ってくれ》
《かしこまりました》
御者台にいる獅子丸が手綱を操ると、馬車は徐々に速度を上げていった。
生き物の馬とは違い、動力源となるウッドゴーレムには疲労も休息も必要ない。街道の荒れた石畳や木の根を踏み越えても、頑丈な造りの車体は揺れをほとんど室内に伝えなかった。
普通の馬車では到底望めない快適さを保ったまま、一行は夜の街道を駆け抜けていく。
やがて夜が明け、東の空が白み始めた頃。
ナイトは、奥の寝室で休んでいた六人の子供たちが、一人、また一人と目を覚まし始めたことを感知した。
上級回復薬のおかげで、彼らの傷や衰弱はすっかり癒えている。しかし、目覚めた場所が見知らぬ豪華な馬車の中、それも一人ずつ用意された個室となれば、混乱するのも無理はなかった。
しばらくすると、廊下の奥で扉が控えめに開いた。
そこから、おずおずと顔を覗かせたのは一人の少年だった。
頭の上には、犬を思わせる三角形の耳。ふさふさした尻尾は、警戒するように低く垂れている。狼の血を引く獣人の少年らしい。
少年は鼻をひくつかせ、周囲の匂いを慎重に確かめながら、リビングへと足を踏み出した。
その視線の先には、ローテーブルの上にちょこんと座る黒猫と、端正な姿勢で控える黒髪の青年がいた。
「おはようございます。食事の用意ができていますよ」
ジルは少年を驚かせないよう、柔らかく微笑みかけた。
漂ってくる温かな食事の香りにも誘われたのか、少年の強張った肩から少しずつ力が抜けていく。
その様子を見て安心したのだろう。ほかの子供たちも、次々と寝室から姿を現した。
ジルは彼らを食事用のテーブルへ案内し、ナイトがあらかじめインベントリから取り出しておいたスープと焼きたてのパンを配っていった。
子供たちは最初こそ戸惑っていたが、湯気の立つ食事を前にすると、夢中になって食べ始めた。
ときおり、少し離れたローテーブルに座る黒猫へ、不思議そうな視線を向けてくる。
しかし、ナイトは何も知らない飼い猫のように首を傾げ、小さく鳴いてみせるだけだった。
「にゃー」
念話のことも、自分たちの事情も、今ここで説明する必要はない。
子供たちが食事を終え、少し落ち着きを取り戻した頃、ルシアも目をこすりながら寝室から顔を出した。
自分と同じように捕らえられていた子供たちが、元気そうに食事をしている。
その光景を見たルシアは、ほっと胸を撫で下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。
その後、子供たちの世話はジルに任せ、馬車は街道を進み続けた。
そして昼を過ぎた頃。
御者台から、獅子丸の念話が届いた。
《主様、前方に人族の街の城壁が見えてまいりました。間もなく到着いたします》
夜通し走り続けた甲斐があったようだ。
本来なら二日ほどかかるはずだった道のりを、丸一日もかからずに踏破したのである。
ルシアたちは壁面に設けられた魔導スクリーンへと顔を寄せた。外の景色をリアルタイムで映し出すその画面には、頑丈な石造りの城壁と、門の前を行き交う大勢の人々が映っていた。
子供たちが歓声を上げる中、ナイトはジルと獅子丸へ念話を送る。
《よし。街に入ったら二手に分かれるぞ。ジル、獅子丸。お前たち二人は、六人の子供たちを家族のもとへ送り届けてくれ》
「かしこまりました。責任を持ってお送りいたします」
子供たちが朝食を取っている間に、ナイトは【森羅万象】による鑑定で彼らの情報を密かに確認していた。
身寄りのないルシアとは異なり、六人にはそれぞれ帰るべき家があり、家族もいる。
ただし、全員がこの街の住人というわけではない。元の村や街まで送り届けるには、それなりの移動が必要になるだろう。
馬車の扱いについては、ジルに任せるつもりだった。
街の目立たない場所で子供たちを降ろした後は、必要に応じてジル自身のインベントリへ馬車を収納し、移動手段として自由に使わせればよい。
門番による形式的な検問を済ませ、一行は街へと入った。
石造りの建物が立ち並ぶ通りを抜け、広場の片隅に馬車を停める。
そこで、予定どおり二手に分かれることになった。
ジルと獅子丸に連れられ、六人の子供たちが歩き出す。
ナイトはルシアとともに彼らを見送ると、冒険者ギルドを目指して街へと繰り出した。
《さて、俺たちの目的地は冒険者ギルドだが……道順は分かるか?》
足元を歩く黒猫から念話を受けたルシアは、きょろきょろと辺りを見回した。
「えっと……この街に来るのは初めてなので、全然分かりません……」
《そうか。まあ、俺も初めて来る街だから、さっぱり分からん》
「ええっ!? 師匠も知らなかったんですか!?」
思わず声を上げたルシアは、慌てて口元を押さえた。
周囲の通行人に不審がられていないか、そっと視線を巡らせる。
底知れない力を持つ師匠が、まさか自分と同じように道を知らないとは思っていなかったらしい。
《なに、冒険者ギルドなんて大抵は大通り沿いか、人の集まる広場の近くにあるものだ。適当に探すか、通行人に聞けばいい》
「うぅ……頼もしいんだか、適当なんだか分かりません……」
ルシアは小さく苦笑した。
しかし、その表情はどこか楽しそうだった。
一人と一匹は、活気に満ちた石畳の大通りへと足を踏み出した。
ところが、数歩進んだところで、たちまち激しい人波に呑まれてしまう。
行き交う大人たちの足が、四方八方から迫ってきた。
小さな黒猫の体では、うっかり踏まれかねない。
《ルシア、ちょっと抱き上げてくれ。踏まれたらたまったもんじゃない》
「あっ、はいっ!」
ルシアは慌ててしゃがみ込み、ナイトを両手ですくい上げた。
ナイトは器用に彼女の腕の中へ収まり、胸元に前足をちょこんと乗せる。
ふわふわの毛並みと温かな体に触れ、ルシアの表情が思わず緩んだ。
その腕の中で、ナイトは鼻をひくつかせた。
どこからか、香ばしい匂いが漂ってくる。
通り沿いの屋台では、肉が焼かれ、食欲をそそる煙が立ち上っていた。
そういえば、あの奴隷商人たちから回収した戦利品があったはずだ。
金である。
ゲーム時代の通貨なら、インベントリに山ほど保管してある。しかし、この世界でも同じ貨幣が流通しているとは限らない。
その点、奴隷商人たちの懐から回収した小銭なら、少なくともこの辺りで使われている可能性が高い。
もっとも、あの薄汚い連中が使っていた財布を、そのままルシアに渡す気にはなれなかった。
ナイトはインベントリの中で硬貨だけを取り出し、魔法で念入りに洗浄した。
それを手持ちの清潔な革袋へ移し替え、念力でルシアの上着のポケットへそっと滑り込ませる。
少々過保護かもしれないが、気分の問題である。
《ルシア、上着の右ポケットを見てくれ》
「え? ……あ、革袋? お金……ですか?」
《この辺りで使われている金のはずだ。あの屋台で何か買って、ついでにギルドの場所を聞いてみよう》
「わ、分かりました! 任せてください!」
ルシアは嬉しそうに革袋を確かめると、腕の中のナイトを抱き直した。
そして、香ばしい煙を上げる屋台へと小走りで向かっていく。
木組みの屋台の前では、大ぶりな肉の串焼きが鉄板の上でジュウジュウと音を立てていた。
特製のタレに漬け込まれた肉から脂が弾け、食欲をそそる香りが辺りに広がっている。
「いらっしゃい! お嬢ちゃん、黒猫ちゃんとお散歩かい? うちのオーク肉の串焼きは街一番の絶品だよ!」
腕まくりをした恰幅のよい店主が、豪快な笑顔で声をかけてきた。
ルシアはポケットから革袋を取り出し、中を覗き込む。
そこには、使い古されて細かな傷のついた銅貨や銀貨が数枚入っていた。
「あ、あの……二本、ください!」
「あいよ! 大串二本で大銅貨二枚だ!」
ルシアは革袋から大銅貨を二枚取り出し、おずおずと差し出した。
店主はそれを何気なく受け取り、焼き上がった串肉を手際よく紙に包んで渡してくれる。
無事に買い物ができたことに、ルシアは内心ほっと胸を撫で下ろした。
受け取った串からは、甘辛い醤油を思わせる香りが立ち上っている。
大串一本で大銅貨一枚か。
日本円に換算すれば百円くらいだろうか。もちろん貨幣価値はまだ分からないが、屋台の軽食としてはずいぶん良心的な値段に思えた。
ルシアは串焼きを受け取ると、店主へもう一度声をかけた。
「あの、おじさん……ついでに、冒険者ギルドの場所を教えてもらえませんか?」
「ん? 冒険者ギルドかい? それならこの通りをまっすぐ進んで、噴水広場にぶつかったら右に曲がりな。剣と盾が交差したデカい鉄の看板が出てるから、すぐに分かるはずだよ」
「まっすぐ行って、噴水広場を右ですね! ありがとうございます!」
ルシアは満面の笑みで礼を言い、ナイトを抱え直して歩き始めた。
しばらく進んだところで、一人と一匹は大通りから少し外れ、人通りの少ない路地へ入った。
木陰に置かれた古びたベンチを見つけ、そこで一息つくことにする。
ルシアはベンチへ腰を下ろし、隣にナイトを座らせた。
そして、嬉しそうに串焼きを一本差し出す。
「師匠、これどうぞ! すごく美味しそうですよ!」
《お、気が利くな。そこに紙包みごと置いてくれ》
ルシアが言われたとおりベンチの端へ置くと、ナイトは前足の爪に微量の魔力をまとわせた。
そして、軽く前足を振るう。
シャッ。
鋭く研ぎ澄まされた魔力が、包み紙を傷つけないよう肉だけを切り分けていく。
串に刺さったオーク肉は、あっという間に一口大になった。
ナイトは切り分けた肉をぱくりと口に運ぶ。
……うまい。
タレがしっかり染み込んでおり、肉質も柔らかい。
普通の猫なら塩分や調味料の成分を気にするところだが、今のナイトは亜神である。そうした心配とは無縁だった。
「わぁ……爪に魔力をまとわせて、こんなに綺麗に……! やっぱり師匠はすごいです!」
尊敬の眼差しを向けるルシアに、ナイトは満足げに喉を鳴らした。
《ルシアも冷めないうちに食べろ》
「はい! いただきます!」
ルシアは残りの串焼きへ勢いよくかぶりついた。
「んん〜っ!」
噛んだ瞬間、肉汁と濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
ルシアは赤い瞳を大きく見開き、頬を緩ませた。
捕らえられてからというもの、冷えた粗末な食事ばかりだったのだろう。
温かく、香ばしく焼き上げられた串肉は、彼女にとって格別のご馳走だったに違いない。
一人と一匹は、しばし言葉を交わすことも忘れて食事を楽しんだ。
食べ終わった包み紙や串はナイトがインベントリへ回収し、再び冒険者ギルドを目指して歩き出す。
店主に教えられたとおり大通りを直進し、大きな噴水のある中央広場を右へ曲がった。
すると、石造りの街並みの中に、ひときわ重厚な建物が姿を現した。
頑丈な石造りの外壁。
入口の上には、交差した剣と盾を象った大きな鉄の看板が掲げられている。
使い込まれた扉の向こうからは、昼間だというのに怒号や笑い声、グラスの触れ合う音が聞こえてきた。
どうやら、ここで間違いなさそうだ。
ルシアは建物を見上げ、ごくりと息を呑んだ。
そして、胸の前でナイトをぎゅっと抱き直す。
「師匠……ここが、冒険者ギルド……!」
《ああ、間違いないな》
腕の中のナイトが、金色の瞳を細めた。
《行くぞ、ルシア。門前払いを食らわないよう、気合を入れていくんだ》
「はい、師匠!」
ルシアは力強く頷いた。
その赤い瞳には、確かな決意が宿っている。
少女はナイトを抱きしめたまま、荒くれ者たちの声が響く冒険者ギルドの大扉へと、一歩を踏み出した。




