00-04 街に向かう中で
「にゃー」
ルシアは膝の上に落ちた首輪を見つめ、呆然と固まっていた。
(……うそ……外れた……?)
震える指先をそっと伸ばし、自分の首元に触れてみる。
ずっと肌に張り付いていた冷たい金属の感触も、息苦しい圧迫感も、嘘のように消えていた。
(死ぬまで絶対に外れないって、言われてたのに……)
逆らえば激痛が走り、命さえ奪われると脅されてきた。もはや諦めかけていた自由を、この黒猫は肉球で軽く触れただけで取り戻してくれたのだ。
役目を終えた黒猫は、ソファの背もたれからふわりと身を翻し、ローテーブルへと降り立った。そして行儀よく座ると、小首を傾げ、金色の瞳で少女の顔を覗き込む。
首元に残る肉球の微かな温もりと、膝の上に転がる冷たい金属の輪。
その違いを確かめるように見比べているうち、ルシアの赤い瞳に涙が滲んだ。
あまりにも突然で、信じられないほどあっけない。けれど、確かに自由になった。
ルシアはおずおずと、震える両手を黒猫へ伸ばした。
ナイトは近づいてくる手を見て、わずかに目を細めた。
どうやら撫でてくれるらしい。
そこで、指先が触れる直前に生活魔法の〈洗浄〉をこっそり発動させた。
森を少し歩いた程度なので、それほど汚れてはいない。それでも肉球には多少の土がついているだろうし、せっかく撫でられるなら毛並みは万全に整えておきたい。
微かな光が黒い毛先を包み、すぐに消えた。
艶やかな毛並みは、指を沈めればふわりと包み込むほど柔らかく整えられている。
少女の指先が、恐る恐るナイトの額に触れた。
そのまま耳の後ろへと、そっと滑っていく。
「……っ」
絹のように滑らかな毛並み。陽だまりに触れているような温かさ。
小さな体から伝わる確かな生命の温もりに、張り詰めていた少女の心が少しずつ緩んでいった。
「……あ、りがとう……ございます……」
相手はどう見ても一匹の黒猫なのに、自然と敬語が口をついた。
混乱と安堵、そして言葉にしきれない感謝が胸の内で入り混じる。
とうとう堪えきれなくなった涙が一粒、頬を伝い、膝の上の首輪を濡らした。
ナイトは満足げに「にゃ」と喉を鳴らした。
少女の表情にはまだ緊張が残っている。少し落ち着いてもらおうとテーブルに目を向ければ、先ほどジルが淹れたハーブティーから、まだ微かに湯気が立ち上っていた。
ナイトはインベントリからティーポットと茶葉、自分用の小さなカップを取り出した。
念力でポットと湯を操り、茶葉を蒸らす。やがて澄んだ琥珀色の紅茶が、小さなカップへと注がれた。
前足一本触れることなく茶を淹れる黒猫を見て、ルシアは再び目を丸くした。
そんな少女の前で、ナイトは彼女のハーブティーを念力でそっと浮かせる。
宙を漂ってきたカップが、戸惑うルシアの両手へ静かに収まった。
続いてナイト自身の紅茶もふわりと浮かび、少女のカップの縁へ軽く触れる。
カチン。
まるで、首輪が外れたことを祝う乾杯のようだった。
猫と茶を飲み、空中でカップを合わせる。普通なら考えられない光景だ。
それでもルシアは、立ち上るハーブの香りを吸い込み、ほんの少しだけ微笑んだ。
そこへ、廊下の奥から足音が近づいてきた。
ジルと獅子丸が、外した首輪を手に戻ってくる。
「主様、ほかの六名につきましても、すべての首輪の解除を完了いたしました。怪我人はおらず、皆様安らかにお休みになっております」
隣で獅子丸も頷いた。
報告に満足したナイトは、次の行動へ移ることにした。
インベントリから取り出したのは、手のひらほどの大きさをした、青い光を帯びる半透明の鳥型アイテム。
ゲーム時代に使用していた『風切羽の偵察鳥』である。
四羽の偵察鳥はナイトの意図を受け取ると、開け放たれた馬車の入口から勢いよく飛び立った。
そして、最寄りの街を探すため、東西南北へと散っていく。
《獅子丸、ウッドゴーレムの制御を任せる。御者台に乗って、まずはさっきの街道まで戻してくれ。そのあとは人族の街を目指す。急ぐ必要はない》
「承知しました」
獅子丸が外へ出ると、馬車の扉が静かに閉まった。
ほどなくして車体がゆっくりと動き始め、心地よい揺れが室内に伝わってくる。
リビングに残ったのは、ナイトとジル、そして両手でカップを抱えるルシアの三人だった。
《ジル、お前も座ってくれ》
「はっ。失礼いたします」
ジルは一礼し、ルシアと向かい合うソファへ腰を下ろした。
室内には馬車の穏やかな走行音が響き、二つのカップから湯気が立ち上っている。
ルシアはまだ少し緊張した面持ちで、テーブルの上に座る黒猫を見つめていた。
ナイトは前足を揃えて座り直し、少女の赤い瞳を見上げた。
吸血鬼特有の深紅の瞳。その奥には、よく見ると星屑のような金色の光彩が微かに混じっている。
視線が合ったことを確かめ、ナイトは少女の意識へ直接言葉を送った。
《驚かせてすまない。俺の声が聞こえているか?》
「……っ」
黒猫の口は動いていない。
それなのに、落ち着いた青年の声が頭の中へ直接響いてきた。
少女は目を見開いたが、カップを取り落とすことはなかった。
先ほどからジルと獅子丸が黒猫のわずかな仕草に従っていた理由が、ようやく分かったのだろう。
「……念話、ですか……?」
《察しがよくて助かる。危害を加えるつもりはないから、安心してほしい》
ルシアは小さく息を吸い、カップを両手で包み直した。
そして、目の前の黒猫をまっすぐに見つめ返す。
《俺の名はナイトという。君の名前を聞いてもいいか?》
「……私の名前は、ルシアです」
おずおずとした口調ながら、その声には確かな芯があった。
《ルシアか。いい名前だ》
「あ、ありがとうございます……。あの、ナイト様、とお呼びすればいいでしょうか?」
《様はいらない。ナイトでいい》
「えっ、でも、命の恩人ですし……。や、やっぱりナイト様で……」
控えめながらも譲ろうとしないルシアに、ナイトは仕方ないとばかりに小さく喉を鳴らした。
首輪から解放され、危害を加えられる心配もなさそうだと分かったことで、少女の表情から少しずつ強張りが消えていく。
ルシアはカップに目を落とし、その温かさを確かめるように指を動かしてから、遠慮がちに口を開いた。
「さ、さっき私の首輪を外してくださった力は、ナイト様の魔法なんですか……?」
ただ怯えているだけではない。
目の前の出来事を観察し、相手の力を理解しようとする利発さが、その瞳から窺えた。
《ああ。俺の魔法だな》
「やっぱり……。あの人たち、絶対に外せないって……。逆らったら、く、首が吹き飛ぶぞって、ずっと脅してきたのに……。気づいたら、ぽろって落ちちゃったから……」
恐怖の記憶と、それをあっけなく覆された驚きが、ルシアの声に入り混じっていた。
《首輪の魔導具の核に、ちょっと魔力を流しただけだ。たいしたことじゃないよ》
ナイトはあっさりと答えた。
そして、少し間を置く。
お茶を飲んで落ち着き、言葉を交わせるようになった今だからこそ、聞いておきたいことがあった。
《……少し聞きづらいことを尋ねるけど、いいか?》
「は、はい……」
《どうしてあいつらに捕まっていたのか。それから、これからどうしたいのか。よければ聞かせてほしい》
ルシアはカップをテーブルへ置いた。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、何かを思い出すように俯く。
「……私は……」
しばらく言葉を探していた少女は、やがて意を決したように、少しずつ過去を語り始めた。
ルシアは吸血鬼という希少な種族に生まれ、故郷を追われた末に奴隷商人へ捕らえられたのだという。
この世界で吸血鬼は、獣人などと同じく亜人の一種として分類されている。
人里離れた隠れ里で暮らす希少な長命種であり、高い魔力と端正な容姿を持つことから、裏社会では法外な値がつく標的でもあった。
ルシアの故郷は、亜人を排斥する隣国の侵略を受けた。
さらに、その混乱に乗じた大規模な奴隷狩りに襲われ、里は崩壊してしまったのだという。
両親が身を挺して敵を食い止める間に、ルシアは必死で森へ逃げ込んだ。
しかし、山中を彷徨っていたところを奴隷商人の一団に発見され、捕らえられてしまった。
両親が今どうしているのかは、分からないままだった。
話し終えたルシアは、膝の上の服を強く握りしめた。
それから顔を上げ、ナイトをまっすぐに見つめる。
「私は、もっと強くなりたいんです。生きているか分からないけど、家族を探したいし……。何より、もう二度と誰かに捕まりたくないから。自分の力で、生きていけるようになりたいんです」
その赤い瞳には、過酷な経験を経ても折れていない強い意志が宿っていた。
「だから、街に着いたら冒険者ギルドに行こうと思ってます。……ただ、ギルドの登録って、確か十二歳からで。私、まだ十一歳なんです。だから、見習い枠みたいな特例がないか探して、何としてでも登録をお願いしてみるつもりです」
ただ絶望しているのではなく、すでに次の目標を定め、そのための手段を考えている。
ナイトは、目の前の少女が見た目以上に芯の強い性格なのだと感じた。
十二歳未満の特例登録。
その言葉に、ナイトはゲーム時代の記憶を辿った。
そういえば、似たようなサブクエストがあった。
盗賊に親を殺された少年を、冒険者ギルドのある街まで護衛するというものだ。
初めて人族のNPCと関わった頃の出来事だった気がする。
魔物が跋扈し、盗賊が街道を荒らす世界では、親を失う子供も少なくない。
スラムや孤児院にいる子供たち全員を国が救えるわけでもなく、生きる術を持たない孤児は大勢いる。
だからこそ、ゲーム時代の冒険者ギルドには、十二歳未満でも『見習い冒険者』として特例登録を認める制度があったはずだ。
建前上の登録年齢は十二歳でも、事情や条件次第で登録できる。
もっとも、それはこの世界がゲームと同じ仕組みならば、の話だった。
ゲーム時代のアイテムは使えた。眷属も召喚でき、その忠誠心も変わっていない。
しかし、ここがかつて遊んでいたゲームそのものの世界なのかどうか、ナイトにはまだ確証がなかった。
それはさておき、ルシアの覚悟は本物のようだ。
とはいえ、知識も後ろ盾もない十一歳の少女が一人でギルドへ飛び込んだところで、そう簡単に物事が進むとは思えない。
下手をすれば、また悪意ある大人に利用される可能性すらある。
ナイトは前足を揃え直し、ルシアの瞳を見上げた。
《十二歳未満の特例か。……君一人で頼み込みに行っても、相手にされず追い返されるのがオチだな》
「うぐっ……。そ、それはそうですけど……! でも、門前払いされたって、何度もお願いしてみます!」
痛いところを突かれたのか、ルシアは頬を赤くしながらも必死に食い下がった。
その負けん気の強さに、ナイトは小さく喉を鳴らす。
《諦めろとは言っていない。……そこで一つ、提案がある》
「提案……ですか?」
《俺たちと一緒に来る気はないか?》
「えっ……?」
《ギルドへの登録は、俺が何とかしてやろう。……それと、ルシアが本気で強くなりたいなら、自分の身を守れるくらいの戦い方も教えてやる》
「ナイト様が、私を……?」
ルシアは目を大きく見開いた。
目の前にいるのは、底知れない魔法を使い、強力な従者たちを従える謎の黒猫だ。
その庇護の下で戦い方を学べるというのなら、これほど心強いことはない。
それでも、ただ助けられるだけの存在にはなりたくなかった。
ルシアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、勢いよく頭を下げた。
「あの……! 私、何でもやります! お願いします!」
差し伸べられた手を逃すまいとする必死さ。
その中には、これから自分の力で生きていこうとする意志も感じられた。
ナイトは満足げに目を細める。
《いい返事だ。……決まりだな》
話がまとまったところで、対面のソファに座っていたジルが姿勢を正した。
「主様、失礼いたします。今、獅子丸から念話がありまして」
《うん? 何かあったか?》
「放った偵察鳥が、人族の街を発見したとのことです。現在、その方角へ馬車を進めており、到着までおよそ二日ほどかかる見通しです」
《そうか、街が見つかったか。獅子丸にはそのまま進むよう伝えてくれ》
「かしこまりました」
ジルへの指示を終えたナイトは、ルシアへと向き直った。
《聞いたとおりだ。街への到着まで、あと二日ほどかかる》
「二日、ですね……!」
《ああ。それまでは、まずゆっくり休んで体力を戻すといい。……それと、旅に必要な知識や魔法の基礎も、少しずつ教えてやるからな》
「はい、ナイト様! あ……あの、教えてもらうなら、やっぱり『師匠』ってお呼びした方がいいですか?」
ルシアは少しいたずらっぽく、けれど敬意を込めて尋ねた。
ナイトは思わず小さく喉を鳴らす。
《……好きに呼ぶといい》
「はい! よろしくお願いします、師匠!」
先ほどまでの暗い表情はすっかり消え、ルシアは満面の笑みを浮かべた。
その赤い瞳の奥で、星屑のような金色の光彩がきらりと輝く。
心地よい揺れとともに、ウッドゴーレムを繋いだ馬車は木漏れ日の差し込む街道を進んでいく。
人族の街を目指す、二日間の旅路。
黒猫の姿をした師匠と吸血鬼の少女の奇妙な同居生活が、ここから静かに幕を開けた。




