00-03 快適な馬車と首輪を外す肉球
目の前にいるのは、圧倒的な威圧感を放つ巨大な白銀の獅子。
そして、その頭の上にちょこんと座り、可愛らしく右の肉球を挙げて鳴いてみせた一匹の黒猫。
(なんなの、この状況……?)
少女は目の前の光景を理解できずにいた。
十歳前後の幼い少女にとって、次々と起こる出来事はあまりにも現実離れしていた。これまで身につけてきた知識をいくら引っ張り出しても、この状況を説明できる答えなど見つからない。
ナイトは呆然と目を丸くする少女を見下ろし、内心で苦笑した。
人語を話すこと自体はできる。しかし、ただでさえ衰弱している少女の前で、いきなり黒猫が流暢に喋り出せば、余計に怯えさせてしまうかもしれない。
そう考えて猫らしく挨拶してみたのだが、どうやら逆効果だったらしい。
まあ、今は落ち着くのを待つとしよう。
ナイトは少女から視線を外し、周囲の状況を改めて確認した。
商人が乗っていた荷馬車は、木の根に激突した衝撃で無残に大破している。
暴走した馬の気配も魔力感知で追ってみたが、馬車との連結具を引き千切って森の奥へ突っ込んだ後、すでに生命反応が途絶えていた。
馬車は大破し、馬も死んでいる。
問題は、眠っている子供たちをどうやって運ぶかだった。
まさか、獅子丸の背中に子供たちを鈴なりに乗せて走るわけにもいかない。
ナイトは再び、ゲーム時代のインベントリへと意識を向けた。
確か、移動用の乗り物をいくつか保管していたはずだ。
記憶を辿りながら探していくと、ちょうどよいものが見つかった。
ゲーム時代に製作した、魔力で動く自走式馬車である。
外観の豪華さよりも防犯性と頑丈さを重視して作ったもので、内部には空間拡張の魔術も施してある。
これならば、子供たち全員を寝かせたまま安全に運べるだろう。
しかし、一つ問題があった。
この馬車は魔力で動くため、牽引する馬を必要としない。
便利ではあるが、この世界で馬も繋がずに馬車だけが走っていれば、どう考えても目立ってしまう。
いずれ街や集落へ近づくことを考えれば、牽引役となる何かを前に配置しておいた方がよい。
そこでナイトは、頭の下にいる獅子丸へと視線を落とした。
獅子丸なら、馬車を引く程度は造作もないだろう。
体の大きさも自在に変えられるため、馬ほどの大きさに縮むこともできる。
しかし、いくら小さくなろうと、白銀の鬣を持つ獅子であることに変わりはない。
そんな魔物に馬車を引かせて街道を歩けば、討伐隊を呼ばれるのが目に見えている。
それは避けたい。
ナイトは考えを巡らせながら、自分の小さな前足を見下ろした。
子供たちを馬車へ運び込む作業も必要だ。
まさに猫の手も借りたい状況だが、あいにく自分の前足はふにふにの肉球である。
物を運ぶには、いささか不向きだった。
今必要なのは猫の手ではなく、人の手だ。
ならば、獅子丸には人化してもらい、ジルと一緒に運搬を手伝わせればよい。
そう方針を決めたナイトは、次に牽引役の問題へと意識を戻した。
当然ながら、普通の馬をアイテムとして持っているわけではない。
眷属の中にも、都合よく馬車を引かせられるような普通の馬はいなかった。
炎の鬣を靡かせた馬型の魔物ならいるのだが、そんなものを繋いで街道を走れば、獅子丸以上の騒ぎになるだろう。
それならば、作ってしまえばよい。
ナイトが思いついたのは、ゴーレムだった。
ゲーム時代、ゴーレムの製作には土魔法や錬金術、核となるコアアイテムなど、さまざまな素材と手順が必要だった。
しかし、今のナイトには【森羅万象】がある。
イメージと魔力さえあれば、従来の手順を踏まずとも形にできるはずだ。
ナイトは獅子丸の頭からふわりと飛び降り、近くに生えている一本の木へと歩み寄った。
そして、幹に小さな前足を当て、魔力を流し込む。
ミシミシと音を立てながら、地面から根が浮き上がった。
枝が生き物のように曲がり、幹が螺旋を描くように形を変えていく。
木材が複雑に組み合わさり、四本の脚と胴体、首、頭部が形成されていった。
さらに、青々とした葉を首元と尻尾の位置に残し、鬣と尾に見立てる。
ものの数秒で完成したのは、木材だけで精巧に編み上げられた、等身大の馬型ウッドゴーレムだった。
ナイトは完成したゴーレムを眺めた。
近くで見れば、完全に木でできた細工物である。
しかし、葉の鬣が風に揺れているおかげで、遠目からなら馬に見えなくもない。
……おそらく。
自走する馬車の速度に合わせて脚を動かしておけば、牽引しているようには見えるだろう。
少なくとも、馬のいない馬車が勝手に走るよりはましなはずだ。
ナイトはウッドゴーレムの背中へひらりと飛び乗り、試しに歩かせてみた。
木製の四肢が滑らかに動き、指示したとおりに歩き始める。
動作に不自然な引っかかりはなく、速度の調整も問題ない。
これなら十分だ。
少女に挨拶してから、まだ一分も経っていなかった。
牽引役を確保したナイトは、続いてインベントリから本命の自走式馬車を取り出した。
森の木々の間に、巨大な馬車が突如として姿を現す。
頑丈な黒鉄と魔導木で補強された車体は、無骨ながらも洗練された造りをしていた。
ナイトは馬車とウッドゴーレムの位置を整えると、獅子丸へ念話を送った。
《獅子丸、人化して、ジルと一緒に子供たちを馬車へ運んでくれ》
《はっ!》
獅子丸の巨体が淡い光に包まれた。
白銀の鬣が揺らめき、巨大な獅子の姿がみるみるうちに縮んでいく。
やがて光が収まると、そこには銀髪を後ろで束ねた、大柄で屈強な青年が立っていた。
武官を思わせる精悍な顔立ちと堂々とした体格。
獅子丸の人化した姿である。
ジルと獅子丸は手分けして、地面で眠っている子供たちを抱き上げた。
獣人の少年二人と少女一人、エルフの少女二人、そして人間の少年一人。
六人の子供たちを、一人ずつ丁寧に馬車へと運び込んでいく。
外から見れば、馬車は一般的な大型馬車とさほど変わらない。
しかし、その内部には空間拡張の魔術が施されていた。
扉の向こうには、ちょっとしたホテルの客室を思わせる広々とした空間が広がっている。
ゆったりとしたソファやテーブル、清潔なキッチンスペース。
さらに、奥には寝室へと続く廊下が設けられていた。
子供たちを運び込んだ獅子丸が、少し困った様子で馬車から顔を出した。
「主、内部のベッドは四台しかございません。残りの二人はソファへ寝かせてもよろしいでしょうか」
なるほど、確かにベッドが足りない。
せっかく助けた子供たちを、わざわざソファに寝かせるのも気が引ける。
ならば、部屋を増やせばよい。
ナイトはウッドゴーレムの背中から馬車の屋根へ飛び移り、天板に肉球を当てた。
そして、【森羅万象】を通じて魔力を流し込む。
もともと施されていた空間拡張の術式をさらに拡張し、内部の構造を組み替えていく。
寝室の数を増やし、それぞれにベッドを設置する。
元からあった四部屋を含め、最終的に十部屋と十台のベッドを用意した。
これなら、眠っている六人の子供たちだけでなく、吸血鬼の少女やナイト自身、ジル、獅子丸の分まで確保できる。
《よし、これで全員分収まるな。獅子丸、子供たちを寝かせてやってくれ》
《御意に》
獅子丸は一礼すると、子供たちをそれぞれの寝室へと運んでいった。
その様子を見届けたナイトは、馬車の屋根にちょこんと座り直した。
前足を舐め、器用に顔を洗う。
ひととおり毛づくろいを済ませたところで、御者席の近くに控えていたジルへ念話を送った。
《ジル、あそこにいる吸血鬼の女の子と話してきてもらえるか?》
《承知いたしました。どのようにお伝えすればよろしいでしょうか》
《俺が主で、ジルたちは仲間だってこと。それから、もう危害を加える奴らはいないから安心していいって伝えてくれ。まずは落ち着かせてやりたい》
召喚の仕組みや自分たちの詳しい素性まで説明する必要はない。
誰が助けたのか。
今は安全なのか。
これからどうなるのか。
まずは、その程度のことが分かれば十分だろう。
「かしこまりました。主様の温情、しかとお伝えしてまいります」
ジルは静かに頭を垂れると、大樹の根元に座り込んでいる吸血鬼の少女へと歩み寄った。
そして、数歩手前で足を止め、片膝をつく。
少女に威圧感を与えないよう、目線を同じ高さに合わせたのだ。
「お怪我はありませんか、お嬢さん」
どこまでも穏やかで、落ち着いた声だった。
しかし、少女はびくりと肩を揺らした。
深紅の瞳には、まだ警戒と困惑が色濃く残っている。
「……あ、な、た……たちは……?」
「恐れる必要はございません。私はジル。あちらにいらっしゃる黒猫、我らが主であるナイト様にお仕えする執事でございます」
ジルが視線を向けた先では、ナイトが馬車の屋根でのんびりと毛づくろいを続けていた。
その姿は、どこからどう見ても愛らしい小さな黒猫である。
少女はぽかんと口を開けた。
そして、ちょうど顔を上げたナイトと目が合った。
金色の瞳が、少女の首元にある黒ずんだ金属の首輪を捉える。
そういえば、あの子たちはまだ首輪をつけられたままだった。
助けることばかり考えていて、すっかり忘れていた。
先に外してやるか。
そう思い立ったナイトは、馬車の屋根から身軽に飛び降りた。
そして、何事もなかったかのように車内へと姿を消していく。
少女はその自由すぎる行動を、呆然と目で追っていた。
「……ね、こ……? あの猫が、あなたの……あるじ……?」
「ええ。とてもお心が広く、慈悲深いお方です。悪徳商人どもはすでに始末いたしました。貴女も、ほかの子供たちも、もう安全ですよ」
ジルは柔らかく微笑み、馬車の扉を示した。
「皆様はすでに馬車の寝台でお休みいただいております。冷え込みますし、貴女も中へいかがですか? 温かいお飲み物でもご用意いたしましょう」
ジルが差し出した手を、少女はじっと見つめた。
信じてもよいのだろうか。
いや、そもそも信じるかどうかを選べる立場ではない。
自分たちを捕らえていた商人たちのような、ねっとりとした欲望や悪意は、目の前の男からも、あの黒猫からも感じられなかった。
何より、この執事は自分やほかの子供たちに、惜しげもなく回復薬を飲ませてくれた。
骨折さえ一瞬で治してしまうような貴重な霊薬を、わざわざ傷つけるつもりの相手に使う理由はない。
それに、あの巨大な白獅子なら、自分たちなど一瞬で殺せるだろう。
木から馬を作り出した黒猫の力に至っては、何が起きているのか理解すらできない。
どちらにせよ、ここで断って夜の森に一人残されたところで、待っているのは魔物の餌になる未来だけだ。
少女は小さく息を呑み、震える脚に力を込めた。
「……わかり、ました……」
消え入りそうな声で答え、ゆっくりと立ち上がる。
ジルは決して急かさず、少女の歩幅に合わせて馬車へと案内していった。
その少し前。
馬車の中へ入ったナイトは、増設した寝室の一つを訪れていた。
ベッドでは、獣人の少年が穏やかな寝息を立てている。
ナイトは少年の首元を覗き込み、そこに嵌められた金属の首輪へと意識を集中させた。
まずは鑑定だ。
【森羅万象】を通じて情報を読み取ると、金色の瞳の奥に薄青いウィンドウが浮かび上がった。
ーーーーーーーーーー
[名称]隷属の首輪
[効果]契約した魔力を持つ主人の命令に対する絶対服従。命令違反、または敵対行動時に激痛と麻痺を与える。
ーーーーーーーーーー
予想していたとおり、隷属のための魔道具だった。
命令に背けば激痛と麻痺を与える仕組みらしい。
命まで奪うような効果がないだけ、まだましなのかもしれない。
もっとも、そんなものを子供につけている時点で、ろくでもない代物であることに変わりはない。
問題は、どうやって外すかだ。
ナイトは先ほどの鑑定を思い出した。
必要な情報だけを表示するように調整していたが、詳しく知ろうとすれば、さらに深い情報まで読み取れるはずだ。
そこで、首輪の構造と解除方法を調べるように意識を集中させた。
すると、ウィンドウに新たな項目が追加された。
ーーーーーーーーーー
[解除方法]裏面の魔石に一定以上の魔力を流し込み、刻まれた隷属術式を飽和・破壊することで無効化される。
ーーーーーーーーーー
なるほど。
要するに、魔力を流し込んで術式を破壊すればよいらしい。
それなら簡単だ。
ナイトは少年の首元へ前足を伸ばし、首輪の金具に肉球をそっと当てた。
そして、必要な量の魔力を流し込む。
カシャリ。
小気味よい金属音が響き、首輪があっけなく外れ落ちた。
少年は目を覚ますこともなく、穏やかな寝息を立て続けている。
どうやら、解除は成功したようだ。
これなら、ほかの子供たちの首輪も問題なく外せるだろう。
ナイトは外れた首輪を口にくわえ、寝室を後にした。
一方、その頃。
ジルに案内されて馬車の中へ足を踏み入れた少女は、目の前の光景に言葉を失っていた。
「え……?」
外から見れば、ごく普通の大型馬車だったはずだ。
しかし、扉の向こうには信じられないほど広々とした空間が広がっていた。
大きな革張りのソファに、低いテーブル。
奥には清潔なキッチンスペースがあり、さらに扉付きの個室まで見える。
まるで、貴族の屋敷の一室のようだった。
右手の奥には長い廊下が伸びている。
その入口では、先ほどまで巨大な白獅子だった銀髪の青年、獅子丸が、腕を組んで立っていた。
少女は、もはや驚くことにさえ疲れ始めていた。
外より中の方が広い馬車。
人間の姿へ変わる白獅子。
そして、そのすべてを当然のように扱う一匹の黒猫。
理解できることが一つもない。
少女はジルに促されるまま、おずおずとソファへ腰を下ろした。
すると、柔らかな座面が体を包み込むように沈み込んだ。
こんなに柔らかい椅子に座ったのは、いつ以来だろう。
少女が戸惑っている間に、ジルは手際よく飲み物を用意していた。
やがて、湯気の立つカップがテーブルへと置かれる。
「どうぞ。ハーブティーです。体を温めてください」
「あ……ありがとう、ござ……ます……」
少女は恐る恐るカップを両手で包み込んだ。
じんわりとした温かさが、冷え切った指先へと伝わってくる。
息を吹きかけながら、そっと口をつける。
ほんのり甘い香りのする温かな液体が喉を通り、体の内側へと染み渡っていった。
その温もりに、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。
まさに、その時だった。
パタパタと軽い足音が、廊下の奥から聞こえてきた。
少女が顔を上げる。
すると、そこには一匹の黒猫がいた。
金属製の首輪を口にくわえ、尻尾を機嫌よさそうに揺らしながら、トコトコと歩いてくる。
黒猫は少女の座るソファの前まで来ると、身軽に跳躍してローテーブルへ飛び乗った。
そして、くわえていた首輪をコトンと置く。
少女の目が大きく見開かれた。
それは間違いなく、自分やほかの子供たちがつけられているものと同じ、隷属の首輪だった。
「にゃーん」
黒猫が可愛らしく鳴いた。
しかし、その鳴き声と同時に、ジルと獅子丸の脳内へナイトの念話が響いていた。
《この首輪、裏の魔石に魔力を注ぎ込めば簡単に外れるぞ。残りの子供たちの分も全部外してやってくれ》
「「かしこまりました」」
ナイトはさらに、首輪を外した少年の部屋と、解除に必要な魔力量を二人へ伝えた。
指示を受けたジルと獅子丸は、揃って軽く一礼する。
そして、子供たちが眠る奥の廊下へと歩いていった。
少女は、その一部始終を呆然と眺めていた。
猫が一声鳴いただけなのに、二人の大人が恭しく頭を下げて去っていく。
何がどうなっているのか、まるで分からない。
そんな少女の困惑をよそに、ナイトはローテーブルからソファへと飛び移った。
「ひゃっ……!」
突然の接近に、少女が小さな悲鳴を上げる。
ナイトは構わず、柔らかな座面から背もたれの上へと駆け上がった。
そして、少女の首元へと小さな前足を伸ばす。
少女は思わず体を強張らせた。
しかし、黒猫がしたことは、首輪の金具へ肉球をそっと押し当てることだけだった。
ぷにり。
柔らかな肉球が、冷たい金属に触れる。
次の瞬間、ナイトは首輪の術式へ魔力を流し込んだ。
ナイトにとっては、ほんのわずかな魔力。
しかし、隷属術式を飽和させ、破壊するには十分すぎる量だった。
カシャリ。
小さな金属音が響いた。
重く、冷たく、少女の自由を縛り続けていた首輪が、あっけなく外れる。
金属の輪は首元から滑り落ち、そのまま少女の膝の上へと転がった。




